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第九章 魅惑の弟公子アルフォンス

 リーンハルトの揺らぐ意識が、少しずつ覚醒していく。  §§§  優しく髪を撫でられる感触に、リーンハルトはゆっくりと瞼を開く。  六年前の思い出から、まだ心も身体も抜け出せないでいる。  うつらうつらとした意識の中、どんよりと頭が重くて身体が動かせない。 「ん……」 「目が覚めたのか」  低くて柔らかくて男らしい声。リーンハルトの鼓膜を震わせる、心地のよい声。  優しさと労りの混ざった問いに、リーンハルトは目線だけを向ける。  漆黒の髪に黒曜石の目、男らしい顔立ちの偉丈夫がリーンハルトを覗き込んでいた。  清潔そうな白いシャツ姿だ。胸元を大きく開襟し、逞しい胸元を晒している。  これは夢だろうか。会いたいと心中で何百回も叫んだから、幻を見ているのかもしれない。 「テオ……」 「リーン。調子はどうだ? ヒートはおさまったか?」  そろそろと指を伸ばす。夢だとしても、ほんの少しでいい。彼に触れていたい。  いつもなら、もうちょっとで彼の髪に触れられるという瞬間で目が覚めてしまう。  だが今日は、テオドールの髪がリーンハルトの指先を掠めた。  思いのほか柔らかい感触に、リーンハルトはたどたどしく笑う。 「テオ……大丈夫なの?」 「何を心配している?」 「あなたの……ケガ……シャツに血が滲んでいた……」  彼は何も言わず、伸ばされたリーンハルトの指をぎゅっと握った。  人肌の暖かさに、リーンハルトの心が喜びで満たされる。 「アルフォンスは……? ああ……傷薬と包帯を持ってくれば……よかった。図鑑より、そっちのほうが……」 「大丈夫だ」 「でも……泣いて……」 「もう傷はすべて塞がっている。心配しなくていい」 「本当……? テオ……ねえ……」  さらりと髪を撫でられ、気持ち良くなって瞼を伏せる。  夢でもいいから、もっと彼の顔を見ていたかったのに。どうも睡魔には敵いそうにない。 「湖に……行こう。夕日が……きれい……アルフォンスも……誘って……」 「ああ。そうだな。リーン。ヒートはおさまったようだが、代わりに熱があるようだ。もっと寝たほうがいい」  熱があると聞き、リーンハルトは納得した。これは熱に浮かされて見る夢だ。  なんて素敵な夢だろうか。アルフォンスのケガは治っているし、テオドールはとても頼りがいのある大人の男性に成長している。  これは夢。  リーンハルトの願望が見せた、都合のいい夢。 「ん……」 「さあ。寝るんだ。ゆっくりと」  彼の冷たい手が額に触れる。  気持ち良くてリーンハルトはそのまま眠ってしまった。  §§§  目が覚めたとき。リーンハルトは自分がどこにいるのか、一瞬理解できなかった。  見知らぬ天井に見知らぬベッド。気味の悪いピンク色のスリーピングカーテンに、リネンのシーツも変な色だ。  壁紙にも驚くほど妙な模様が浮き上がっているし、所狭しと置かれたオブジェは、まったく使用用途が読めない代物ばかり。  こんな低俗な部屋、誰の趣味だというのだろう。  居心地が悪いというか気分が害されるというか。こんな部屋で寝ていることが嫌で起き上がろうとしたら、瞬間背中がズキリと痛んだ。 「いっ……」  燃えるように背が熱い。 「ああ……そうか……」  リーンハルトは背中の痛みで、ようやく自分の置かれた立場を理解した。  オメガであることを理由に王家から廃籍されたあと、筆頭宰相に下げ渡され、彼の妻になるよう命令された。  どうしても心が宰相を受け入れることができず、反抗的だと怒りだした彼に鞭で背を叩かれた。  そして陵辱されそうになったところを、助けにきてくれたのが…… 「テオドール……」  彼の名を呼んだそのとき、まるで聞こえたかのように扉がガチャリと開いた。  銀のトレイを持ったテオドールが、大股で部屋に入ってくる。 「目が覚めたか」 「どうして……あっ……」  起き上がろうとしたらハラリとシーツが滑り落ち、自分が裸体であることに気がついた。  慌ててシーツを取り上げるが、背中が痛くて自分の身体だというのに意思どおり動かせない。  そのままベッドに俯せで倒れ込む。 「動くな。鞭によってできた傷はわりと長引く」  彼がトレイをサイドテーブルに置くと、リーンハルトのそばに近寄った。  腰に手をあてられ、びくりと身を震わす。 「そう身を強ばらすな。傷の手当をするだけだ」  彼が苦笑を浮かべ、トレイの上からいくつかの清潔そうな布を取り上げた。  トレイには布や陶器の小瓶、そしていくつかの料理が載っている。  器用に布を折りたたみむと陶器の蓋を開け、人指し指で中身をすくい布に塗りつけた。 「布を取り替える。痛いぞ。我慢しろ」  そう言い、背中から何かを引っ張った。  ヒリヒリとした疼痛に、身を小さく震わせる。 「いたっ……い……」 「当て布を交換するから大人しくしていろ」  傷の手当てと言われたら従うしかない。俯せのまま無防備に背を晒す。  リーンハルトの長い髪がふわりと背中を滑り、滑らかな白いうなじが晒される。  一瞬テオドールが息をのみ、動きを躊躇したように思えたが、すぐに何ごともなかったかのように陶器の蓋を戻す音がした。  彼がそっと背の上に何かを被せた。おそらく先ほどの布だろう。  ひやりとした感触に肌が粟立つ。傷薬が染み、ジンジンとした鈍い痛みで背中が制されていく。 「起き上がれるか」 「多分……」  テオドールの手を借り仰向けになると、ゆっくりと上半身を起こす。  女ではないが彼に貧弱な胸元を見られるのが嫌で、シーツをたくし上げ隠そうとしたら笑われてしまった。 「四六時中襲うようなマネはしないぞ。そう怯えてくれるな。おれが傷つく」  傷つけるつもりなんてない。慌てて否定しようと薄く唇を開く。  だがよくよく記憶を辿ってみれば、リーンハルトは彼に抱かれて散々淫らな痴態を晒してしまった。 『おれは快楽で乱れるリーンが見たい』 『おれだけを見ていろ。わかったか?』  熱情的な低い声。擦れ合う肌。甘い吐息。凛々しく男らしい顔が、切実で真摯な色を浮かべる。  思い起こすだけで、身体の内側に熱を籠らせてしまいそうだ。  ヒート状態でところどころ記憶はとんでいるが、確かにリーンハルトはテオドールに抱かれた。  真っ赤な顔で身を縮ませると、当のテオドールはすでにどうでもいいといいう顔をしている。 「せめて上半身だけでも隠さないでくれ。包帯がまけないだろ?」  恥ずかしがっている自分が自意識過剰なのだろうか。リーンハルトは真っ赤な顔で、たくしあげていたシーツを腰まで下げる。  彼の手で器用に包帯が巻かれた。大きな手が胸元を掠めるたび、緊張で身を強張らせる。  リーンハルトだけが、ひとり興奮しているみたいだ。だってテオドールは表情ひとつ変えないのだから。  手早く包帯を巻き終わると、彼はベッドの横に椅子を引き寄せ、そこに座る。  トレイから湯気の立った皿を取り上げた。 「冷めないうちに飲んでくれ。スープだ」  リーンハルトは首を振った。食欲がまったくといっていいほどない。 「少しでいい。飲んでくれ。薬を飲んでもらいたい」 「薬……?」 「ああ。解熱剤だ」  おそらくヒートの影響ではないだろうか。  幼い頃はよく熱を出したものだが、ここ最近はそういうこともなくなった。  だがヒートを迎えて以来、こんなふうに熱が出て身体がだるくなることが多々ある。  それはオメガとしての宿命で、薬を飲んだからといって治るものではない。必要なのはヒート抑制剤だ。  そう言い返したかったが。テオドールが皿を手に持つと、銀のスプーンを差し入れた。  そのままリーンハルトの唇まで運ぶので、仕方なく唇を薄く開ける。  熱すぎず冷めすぎずのスープは、刻んだ野菜と溶いた卵が入っており優しい味だと思えた。  ひと匙すくっては、リーンハルトの唇に運ぶ。そしてまたひと匙。  食べさせてもらっているのが気恥ずかしくて、自分で食べると言いたかったが、彼はそんな隙を見せてくれなかった。  スープの皿が半分になった頃、ようやく彼が手を休めてくれた。皿を戻すと、今度は違う皿を持ち上げる。  一口サイズに切られたフルーツが載っており、さすがに口を挟む。 「もういい。これ以上は食べられない。もう下げて」 「駄目だ。リーンは丸一日寝ていたんだ。背中の傷とヒートのせいで身体も弱っている。少しでも体力を戻すんだ」  傷とヒートがリーンハルトの心も身体も病ませるのは確実だろう。  しかし一番の要因は、そこでないような気がする。 「弱っているのは、あなたが……私をあんな風に……」  陵辱するから――  リーンハルトは小さな声でそう呟く。  聞こえているのかいないのか。テオドールは表情ひとつかえず、フルーツの皿をトレイに戻した。  無理強いはしないだろうと思ったら、どうやらそれは早計のようで、立ち上がると彼はベッドに腰掛けてきた。  再度フルーツの皿を取り上げると、手で直接リンゴを掴む。  するとなぜかリーンハルトの口に、それを押し込んできた。 「な、な……に……」 「ほんの少しでいい。食べてくれ」  強引ともとれる行為に呆れてしまう。それに口腔に放り込まれた以上、咀嚼するしかない。  甘酸っぱいリンゴをシャクシャクと頑張って噛んでいたら、次にイチゴをつまみ上げて待機していた。  無抵抗でいたら、次々に口の中に食べ物を入れられてしまう。 「それで最後にしてください」  そう頼み込むとテオドールは仕方がないという顔で、イチゴをリーンハルトの唇に押しつける。  ようやくリンゴを飲み込み、やっとのこと口を開くと彼は自分の指ごとイチゴを口腔に差しこんできた。 「んん……? テ、テオ……」 「果汁が指についた。舐めてくれ」 「んんっ……」  彼は指をリーンハルトの口中で、ぐにぐにと動かす。  果汁を舌で舐め取るなんて、行儀がよくない。そんなことくらい彼だってわかるはずだ。  それなのに、どうしてこんなことをするのだろう。  彼の指はリーンハルトの口腔内で、好きなように動きまくる。  歯茎や歯を撫でたり、頬の裏や舌根を掠めていったり。  舌の上をぬるりと撫でられたら、ビクンと身を竦めてしまう。  口端から涎がだらだらと垂れても、彼は指を抜いてくれない。 「テ……オ……んんっ……」  テオドールがリーンハルトの顔に自らの顔を近づけると、舌を差し出し口端をぺろりと舐めた。 「ふっ……」  彼の身体からフェロモンの香りがし、リーンの鼻腔を掠めた瞬間。  ビクビクと身体中の細胞が活性化するのを感じた。 「んんっ……テ、テオドール……駄目……」       ヒートだ。おさまっていたのにテオドールが接近すると、すぐさま発症してしまう。  カタカタと肩口を震わせ呼吸を荒げていると、彼が小さく「やはりな」と呟いた。  何がやはりなのだろう。早く指を抜いてほしい。 「リーン。あなたはおそらく、おれの……」  テオドールの言葉を遮るように、背後の扉が勢いよく開く。  突然の大きな音に、リーンハルトの身体が弾かれたように打ち震える。  それと同時に、やっと彼の節くれ立った指が引き抜かれた。 「テオドール兄さん! これは一体どういうこと?!」  軽くウェーブのかかったブラウンの髪に、大きな青い目。誰からも愛されそうな甘いフェイス。  テオドールと同じくらい背が高く筋肉質な男が、憤りを背負って入ってきた。 「アルフォンスか。いきなり入ってくるな。リーンが怯えている」 「ああ……ごめん。リーンを驚かすつもりはなかったんだ。でも……」  アルフォンスが大股で歩いてくると、リーンハルトとテオドールの間に入り、ふたりの距離を離そうとした。 「抜け駆けだよ! ぼくに無断でリーンに手を出していないだろうね!」 「出したらどうだというんだ」  しらっとした表情でテオドールがそう返すと、アルフォンスは烈火の如く怒りだした。 「言ったよね! 兄さん! ぼくもリーンを(つがい)にしたいんだ!」  リーンハルトは慌てて身体を隠すようにシーツをたくしあげる。  アルフォンスはリーンハルトの剥き出しになった肩や首筋を見て、テオドールに怒り心頭の面持ちを向けた。 「兄さん……リーンに何をしたの」 「抱いた」  こともなげにそう口にされ、リーンハルトはもうシーツで顔まで隠す。  テオドールの態度が普通過ぎたから、もしかしたらあれは彼への思慕が見せた夢かもしれないと少しばかり疑っていたところだ。  やはりリーンハルトはテオドールと身体を重ねていたと知り、複雑な胸中でいっぱいになる。  だがテオドールの次の一言で、リーンハルトは地の底へ突き落されてしまう。 「ヒートをおさめるために抱いただけだ。それ以外に意味はない」  意味がない――  そっけなくそう口にされ、リーンハルトの心が急激に冷めていく。  ヒートをおさめただけ。  リーンハルトにとって初めての情交だというのに。ずっと憧れと尊敬を抱き、六年間も胸に思慕を秘めていた相手との交わりだったのに。  テオドールにとって、単にヒート中のオメガを宥めたというだけなのか。 「ひどい言い草だな。テオドール兄さん」  落ち込みかけるリーンハルトに、テオドールはなんの反応も示さなかった。アルフォンスのほうが気にした様子を見せてくる。       テオドールはまったく表情を変えず、錠剤を二粒取り上げるとリーンハルトの口に押し込んできた。なんの薬と返す前に、彼は水の入ったグラスを持ち上げ強引に飲ませてくる。 「仕方ないだろう。抑制剤ごときでは、どうにもならない状況だった」  アルフォンスは納得していないようで、テオドールに食い下がる。 「本当に? ぼくとの約束忘れてないよね」 「疑うなら首の後ろを見てみろ」  アルフォンスがテオドールを押しのけ、リーンハルトの両肩に大きな手を乗せる。  首筋に顔を埋めると、何かを確認するようにじっと項を見つめた。 「な、何? アルフォンス」 「噛んでいないね。一応はリーンの意向を尊重したわけだ」 「当然だ」  なんの話をしているのか、リーンハルトにはさっぱりわからない。  アルフォンスは安堵した様子で上半身を起こすと、にっこりと鮮やかに笑った。 「兄さんもそこまで非道じゃなかったか。よかった。じゃあ、ぼくあらためてリーンに申し込もうかな」 「やめろ。アルフォンス。リーンは熱がある。無理をさせるな」  テオドールの硬質な声に、アルフォンスがむくれた顔をする。 「無茶させたのは兄さんだろ! いわくつきの部屋にリーンを閉じ込めて、好き放題したくせに」 「だからヒートをおさめるだけだと言っているだろう」  アルフォンスは疑いの眼差しでテオドールを見据えると、突然リーンに向き直った。 「リーン」    「な、何?」  謎の兄弟げんかから話を振られて、何がなんだかわからない。  アルフォンスが、リーンハルトの細い肩をがしっと両手で掴んだ。 「ねえ。リーン。ぼくはずっとリーンのことが好きだったんだ。もし次ヒートになったら相手にぼくを選んでよ」

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