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第十二章 悲運の王子リーンハルト
『我らの長兄が戻って来る前に、殺してしまうのがいいだろう。そうだな、毒などどうだ?』
兄の声が脳裏から離れない。毒でテオドールを殺すだって?
彼らの陰湿な性格を、リーンハルトはもう十二年も見ている。
しかしこれは、性格が悪いとか陰湿とかいうレベルを超えていた。
「そうと決まれば、奴らをいたぶって遊ぶより先にやることがあるな。今夜は見逃してやろう」
「そうだな。ふふ……使うなら生かさず殺さずの毒がいい。苦しむさまを長く楽しみたいぜ」
兄たちは引き返すと、今きたばかりの地下牢の通路を戻っていった。
「毒だって……? なんという酷いことを……」
アルヴァンがテオドールを養子にしたいと口にしたことが、兄たちの怒りに触れたのか。
しかしそれはテオドールに関係のないこと。それに彼は母国に帰りたがっている。
なんて勝手で傲慢で、悪逆非道な考えなのか。
「生かさず殺さずの毒……そんなものを使われたら……」
テオドールが放つ、輝かしくも力強い生命力が失われてしまう。
彼ほど高貴で崇高で……素晴らしい男はいない。リーンハルトは、どうにかして兄たちの悪行を止めたいと考えた。
しかしヘラに伝えたところで、兄たちをとがめるどころか逆にけしかけそうだし、アルヴァンは面白い見世物として傍観しそうだ。
「ぼくの意見など、絶対に誰も聞き入れてくれない……どうやって……」
一生懸命、兄たちの暴挙をとめる手立てを考えるが、いい考えが浮かばない。
助け手だって誰ひとり思い浮かばなかった。
この腐ったウェンデル王家に、まともな考えのものなどいないのだから。
ということは誰の手も借りず、リーンハルトひとりで兄たちを制止せねばならない。
「……ぼく、ひとりで……できること……」
リーンハルトは、弱い自分の心に言い聞かせるように誓った。
彼らを助けてみせる。自分の命に替えても、と――
§§§
「リーンハルト!」
突然大きな声で名を呼ばれ、意識が六年前から現実に戻ってくる。
ここはヴェンデル王城の王族専用地下牢。リーンハルトは抜け道を使って、誰にも知られずここまで到達した。
兄のひとりに見つかり名を呼ばれてしまい、過去の回想から現実に引き戻されたのだ。
兄が鉄格子超しに、手を伸ばしてきた。
「おい! リーンハルト! おれたちを助けにきたのか! 早くこの鍵を開けろ!」
「私は……」
もうひとりの兄も叫び出す。
「早くしろって! 本当にグズだな、リーンハルトは」
ぶつぶつと文句はまき散らす兄に向って、憤りを抑えた顔を向ける。
「兄さん。少しは……反省しているのですか?」
リーンハルトの問いかけに、兄たちは嘲笑うような顔をした。
「反省? 何言っているんだ? 頭は大丈夫か?」
「あなたがたは悪政を強き、国民に暴動を起こされた結果、そこにいるのですよ。少しくらい……懺悔の念とか改悛の情とかはないのですか?」
兄たちはどうでもいいとばかり、リーンハルトの言葉を無視する。
「ここを出たら順番にブチ殺してやる! まずは義勇軍と称した反乱分子。それからあの憎らしい兄弟だ」
「アステアの兄弟公子め。恩を仇で返しやがって!」
聞き流せない一文に、リーンハルトは兄たちに問いかける。
「恩を仇とはどういう意味ですか。あなたがたは、彼らにどのような恩を与えたと?」
兄たちが目を細め、不審そうな顔を鉄の棒の隙間から見せた。
「なんだ……? リーンハルト、その物言いは」
「……伺いたいだけです。あなたがたはアステア公国の公子たちに、どのような恩を与えたと言い張るのです?」
リーンハルトは彼らの怒気を含んだ覇気に負けぬよう、弱い自分の心を叱咤し言い返す。
それがたいそう気に入らなかったのだろう。三人の兄たち全員が口を揃えてリーンハルトをあしざまに罵倒した。
「調子に乗るんじゃないぞ。おまえみたいに弱々しいオメガが、おれたちアルファに逆らうこと自体が罪悪なんだ」
「さっさと、ここを開けろ! もしかして鍵を持たずに、ここにきたんじゃないだろうな! おまえはそこまで無能なのか!」
これまでのリーンハルトなら、強い語調でたたみかけるように言われたら、すぐにおののいて引いてしまった。
一昔前ならオメガである自分を恥じ、その言葉を頭から受け入れていただろう。
でも今は違う。オメガだろうがアルファだろうが、ひとりの人間だ。尊厳を損なわれていいわけがない。
リーンハルトには守りたいひとがいる。彼のためにも、兄たちの戯言に耳を傾けたりしない。
「……私の説明に答えてください。話を逸らそうとしても無駄です。あなたがたは、アステア公国の兄弟公子に何をしましたか?」
さすがの兄たちも、リーンハルトの異変に首を傾げる。
リーンハルトは彼らへの糾弾を続けた。
「あなたがたは、彼らの矜持を傷つけただけではない。鞭で身体を痛めつけ、あまつさえ……」
リーンハルトは兄をひとりずつ睨みつけ、声を低くする。
「毒を盛って殺そうとまでしたでしょう」
地下牢がシン……と静まり変える。
壁に備え付けられたランタンの炎が揺らいだ。
「……なんのことだ」
兄のひとりが顔を歪ませ、鼻を鳴らしてそう返す。
開き直ったその態度に、言いようのない憤怒が沸き上がる。
「しらばっくれる気ですか! 恩など一欠片も与えていないくせに! ありもしない恩を建前に仇だとか言いがかりをつけて、恥ずかしいとは思わないのですか!」
怒り心頭のリーンハルトに、兄たちはニヤニヤとした顔を向けるだけだ。
心底恥ずかしい兄たちだ。軽蔑するに値する。
こんな連中に少しでも情をかけた自分がばかみたいだ。
「私は……あなたがたが少しでも自戒していれば……テオドールたちに申し訳ないという感情があれば、彼に恩赦を求めようと思っていました。でも……無意味ですね。あなたがたは死刑にでもなんでもなればいい」
「はあ? 何を言ってやがる! おいっ、リーンハルト!」
「鍵を取ってこい! さっさとしろ! ここを出たらおまえもブチ殺すぞ!」
罵詈雑言を尻目に、その場から去ろうと踵を返す。
「あらぁ? アステアの公子に懸想しているのかしら? リーンハルトは」
背中を突き刺すような声に、リーンハルトの足が止まる。
肩越しに振り向くと、ヘラがベッドに座り、扇をひらひらさせてこっちを見ていた。
「オメガはすごいわねぇ。性の虜というのかしら。より強い精力を持つアルファを、かぎ分ける本能があるのね」
クスクス笑いながら、扇をパチンと閉じる。
床に足をつけ、すっと立ち上がると、鉄格子まで近づいてきた。
ヘラは鉄格子の中にいても王妃としての品格を保っていた。
綺麗に結い上げた赤毛に、きっちりと化粧もしている。ドレスに皺ひとつすらない。
兄たちも薄汚れた印象ではなかった。テオドールは彼らに王族としてそれなりの待遇を与えていたのだと察する。
つけまつげがバサバサと瞬き、いやらしく口角を上げたヘラがリーンハルトを睨みつける。
「テオドールと寝たの?」
無言で固まるリーンハルトに、ヘラが忌々しいという面持ちで睨みつける。
「オメガ特有の発情フェロモンでテオドールを誘惑したの? 彼も我々と同じくアルファですものね。それにしても驚いたわ。昔はテオドールがとても優秀な男に見えたけど、弟のアルフォンスもいい男に育ったじゃない。本当に出来のいい兄弟だわ」
唇をきゅっと噛みしめ睨み付けるリーンハルトに、ヘラがからかうように笑う。
「虫も殺さぬ顔して……淫乱なメス猫みたい」
「何が言いたいのですか」
ヘラは鼻をふんと鳴らすと突然豹変し、鉄格子を掴みガタガタと激しく揺らした。
「調子に乗るんじゃないわよ! オメガの分際でアルファのわたくしたちに生意気な口をきいていいと思っているの!? テオドールと寝たくらいであんたの地位が上がるわけじゃない、こっちが鉄格子の中だからっていい気になるんじゃないわよ!」
柳眉は歪み、目じりは吊り上がって、魔女のように口を大きく開く。
牢屋から出てこられるわけがないのに、その異様な迫力にリーンハルトは後ずさった。
狼狽えるな。ヘラは、鉄格子の中だ。襲ってくるわけではない。
しかし幼少の頃に植えつけられた彼女への恐怖心は、そうそう取り除けなかった。
心臓の高鳴りを抑え込み、なるべく平静を装った声を出す。
「……あなたたちのように下劣な人間は、迫害されても仕方がありませんね」
「面白い! 面白いなリーンハルト。いつからそんなに居丈高な態度を取るようになったんだ?」
烈火の如く怒り出すヘラの隣の牢屋で、椅子に座ってふんぞり返るアルヴァンが楽しそうに声をあげる。
「テオドールに対しての愛か? すごいな。弱々しいおまえが、ここまで言うとはね」
リーンハルトは不思議な違和感を受けた。どうして彼らはこうも余裕なのだろう。
まるで、すぐにでも助けがくると信じているような……
リーンハルトの脳裏にひとりの男が浮かび上がる。ここにいないが一番重要な人物だ。
もしかして彼が戻ってきているのか? そして彼らはその人物が近くにいることと知っているのか?
だとすれば辻褄が合う。万一のことを考えて、テオドールに知らせたほうがいい。
「私は行きます。あなたがたは勝手に破滅への道を進めばいい」
そう残し、この場を去ろうとしたら、突然目の前にキラリと光る剣先が現れた。
「いい気になるんじゃないわよ。リーンハルト」
リーンハルトは剣を持つ男を視界に捕らえて、飛び跳ねそうなほど驚愕する。
「ヴァルター兄さん……!」
いつからここにいたのだろう。上には見張りがいたはずだ。どうやって地下牢に入り込むことができたのか。
男は剣をリーンハルトに突きつけたまま、牢屋のほうに向かってウィンクした。
「待たせたわね、みんな。私が戻ってきたからには、これ以上悪い事態にはならない。安心していいわよ」
「ヴァルター兄さんだ! 助かった!」
「ヴァルターじゃないの! 会いたかったわ!」
リーンハルトの背後に立つのは、胸元まで届く炎のような色をしたウェービーな髪に、赤い目をギラギラと光らせた、背の高い屈強な男。
衿の高い緋色のロングコートに、黒いトラウザーズ姿でエストックを携えている。
ヘラの息子で第一王子のヴァルター。
『深紅のヴァルター』と異名のある戦場の猛者だ。
一番会いたくなかった人物に遭遇し、リーンハルトは狼狽えるしかない。
「どうしてここに……まさか見張りを倒して……?」
ヴァルターは、剣の持ち手をカチャリと音を立て掴み直すと、エストックの剣先をリーンハルトの頬に当てた。
身じろぎひとつしただけで突かれそうになり、思わず一歩後ろにさがる。
だがそこはすぐ壁で、リーンハルトはこれ以上彼と距離を取ることができそうにない。
「抜け道を使ったに決まっているじゃない。あんたと同じ」
ヴァルターは、テオドール兄弟が「一番やっかいな奴」と称した人物だ。
こっちに向かっていると連絡が入ったとかで、静定より先に倒さないと口にしていたのに。
すでにヴァルターが王城内に入り込んでいることを、彼らは知っているのだろうか。
早く知らせないと取り返しのつかない事態になる。しかし容易にこの場を逃れることができるだろうか。
ここはエストックに皮膚を引き裂かれてもいいから、なんとか逃げだそう。
リーンハルトの決意を瞬時に察知したヴァルターが、血のように真っ赤な目でリーンハルトをねめつける。
「あら。あんたちょっと度胸ついたのね。私の剣に立ち向かう気?」
ヴェルターは剣技に長け、戦場では鬼神の如く強いが、外見は高貴な騎士といえた。
なぜか口調だけは少々……いやかなり女性っぽい。
ヘラの影響を受けているからか、それともヴァルターの場合両親とも女性だからか。
アルヴァンとヘラは王と王妃という立場ではあるが、性的な嗜好からそれぞれ別の愛人を数人持っている。
どちらも男女問わず美貌のオメガを好み、ヘラは市井で見つけた美しいオメガの女を強引に孕ませた。
アルファ性の女性は性交時のみ性器が飛び出し、男女どちらでも子種を産み付けることができる。
そして生まれたのがヴァルターだ。
アルヴァンの治政になってから生まれた最初の男であるため第一王子であり、アルファの目覚めを迎えて以降、王位継承権も第一位。
アルヴァンと血のつながりはないが、その点はさほど問題ではないらしい。
年に数回会うか会わないかの兄だが、リーンハルトは一番苦手であった。
「……ヴァルター兄さん。父上や母上、兄たちをここから逃がす気ですか? そんなことでヴェンデル王政が復活すると思うのですか? 国民の総意を無視しています」
「そうねえ」
ヴァルターが赤毛を揺らし、ふふふ……と笑う。
「私はねえ、そんなに単純な思考じゃないの。ここを脱出しても、外にはまだアステア公国軍や義勇軍がうろうろしている。ここにいるほうが安心な場合だってあるわ」
「そんな!」
兄やヘラが驚いた顔をするが、ヴァルターは構わず話を続けた。
「友好国に亡命し、軍隊を借りて反乱軍を鎮圧するという手もあるけど、それには時間がかかる。一番恐いのは、クーデターが王都だけでなく地方に飛び火することよ。そうなると簡単にことは運ばない。いったん上がった火の手はそう容易には消せやしないもの。消耗戦は避けたたいところね」
やはりヴァルターは恐ろしい。さまざまな角度から物事を考える。
民衆は反乱軍であるテオドールの味方だ。再びヴェンデル王家が復興を試みたとしても、民衆が黙っていない。
かといって、テオドールたちが陥落したのは、あくまでも王都のみ。いまだ地方都市までは手をつけていない状態のはず。
つまりウェンデル王家が友好国へ逃げ込み、軍を借りて攻め込む期間と、テオドールたちが地方都市を鎮圧する期間の、どちらが早いかの勝負となる。
最悪は、取って取られての繰り返し。堂々巡りとなって双方が疲弊する。
それはテオドールとしても考えたくない事態だろう。だから扇動者となりそうなヴァルターを警戒していたのだ。
それはヴァルターも同じ考えというわけだ。
では、なんのために王城に忍び込み、わざわざこの地下牢にきたというのだろう。
リーンハルトの疑問顔に、ヴェルターは悪魔のように微笑む。
「クーデターをね、根元から鎮火するにはどうすればいいと思う?」
「根元から……?」
「そう。二度とクーデターを起こさないようにするには、民の心を折ればいいのよ。二度と反乱など起こす気にならなくなるまでにね。それには旗印となる人間を潰すのが一番いい。この場合、アストア公国の兄弟公子と……」
くいと手首を上に上げ、エストックでリーンハルトの金髪をなぎ払う。
金糸のような髪が、ハラハラと石畳の床に落ちた。
驚きで目を見開くリーンハルトに、ヴァルターが凄惨な微笑を浮かべる。
「ふふっ……優しく麗しい悲運の王子。あんたよ、リーンハルト。あんたを殺したら、民衆の反抗心を損ねることができる。ここで私に見つかったのが運の尽き。覚悟なさい」
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