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第十五章 あなたは私の運命の番
リーンハルトは、勢いよく駆け出す。
咄嗟に動いたせいか、虚を突かれたアルフォンスは、リーンハルトを制することができなかった。
「テオっ……!」
「くるなっ! リーン!」
テオドールを庇うために、テオドールとヴァルターの間に割って入ったつもりなのに。
事実、そうした。テオドールの屈強な身体を両手で覆い、ヴァルターの刃の前に出た。
だが短剣は、いつまで経ってもリーンハルトを貫かなかった。
死を覚悟したはずなのに、どうしてリーンハルトは生きている。
心臓はこれ以上ないほどしっかりと動いているし、身体のどこも痛くない。
それとも心臓を一突きされたから一瞬で天国に召されてしまい、そのことに気がついていないだけか。
恐る恐る顔を上げると、大きな胸に守られていることに気がつく。
愛しい男の秀麗な顔が目の前にあり、もっと心臓が激しく高鳴った。
「テオ……?」
「無茶するな。リーン」
困った表情でリーンハルトを見下ろしてくるテオドールから、官能の香りが漂う。
それはただの汗なのに、森林の爽やかな香りと官能の麝香 が混じりあい、彼独自の芳香となってリーンハルトを包み込む。
それだけで、ぶわりと全身から情欲の炎が立ち上がった。
目を潤ませ、頬を紅潮させて、激しい動悸に打ち震えるリーンハルトの耳元で、彼がそっと囁く。
「こらえてくれ。あとで腰が抜けるほど抱いてやる」
「な……っ。ぁあっ……」
彼の甘くて低い声が鼓膜を震わすと、全身の肌がピリピリと粟立つ。
もうリーンハルトは、テオドールの一挙手一投足、全てに反応してしまう。
そんなリーンハルトの頭をひと撫ですると、テオドールがゆっくりと立ち上がった。
呆然としたまま上目遣いで見ると、彼の右上腕に短剣がずっぷりと突き刺さっているのが見えた。
「テ、テオ……腕に剣が……」
「問題ない」
狼狽えるリーンハルトと違って、テオドールは冷静そのものといった調子だ。
問題ないはずがない。短剣とはいえ刃渡りはそれなりにある。
見ると、ヴァルターはすでに後方へと下がり、謁見室の扉の前で不敵に笑っていた。
「今回は一太刀で我慢するわ。私は不利な戦いはしない性質 なの」
どうやら手持ちの獲物をすべて失い、分が悪いと計算したらしい。
「逃げるのか!」
テオドールが叫ぶと、ヴァルターは謁見室の高い天井まで響くほどの声で笑った。
「ええ。逃げるわ。悪いけどそれを恥とは考えないものでね。勝負はお預けよ」
身を翻すヴァルターを逃すまいと、テオドールが大きな声で叫ぶ。
「衛兵! ヴァルター王子が逃走する! 即座に捕えよ!」
テオドールの一声に、扉の向こうが大きくざわめいた。
ヴァルターが謁見室から姿を消すより早く、アルフォンスが走り出す。
「アルフォンス! 深追いするな!」
「わかってる!」
アルフォンスも続いて謁見室を出て行った。
テオドールは平気な顔をしているが、リーンハルトは短剣の突き刺さった肩が心配で、いてもたってもいられない。
白いシャツに真っ赤な血が滲んでいる。かなりの出血量ではなかろうか。
「早く治療しなければ……」
「軽傷だ。これくらい」
「で、でも……」
テオドールが、けがをしていないほうの手で短剣を握ると、ぐいっと引き抜く。
一瞬、眉間に皺を寄せたので、リーンハルトの肩もなぜかズクンズクンと痛くなってしまう。
抜いた拍子に激しく出血したようで、シャツにもっと血が広がってしまった。
リーンハルトのほうが倒れそうになってしまい、床にへたりこんだまま立ち上がれない。
「私のせいで……」
アルフォンスに邪魔するなと言われていたのに、耐えきれず衝動的に動いてしまった。
そのせいでテオドールは腕にケガをしてしまったのだ。
リーンハルトを庇ったせいで――
真っ青な顔で自分を責めるリーンハルトに、テオドールが無事なほうの腕を伸ばした。
怒られると思い身を竦めると、彼の手はリーンハルトの頭をさらりと撫でる。
「テオ……」
「大丈夫か?」
リーンハルトのせいで腕をケガしたというのに、怒るどころか労りに満ちた表情をする。
そんな彼が、リーンハルトは愛おしくてたまらない。
「私は……大丈夫です。あ、あなたのほうが……」
「この程度の傷、戦場ではよくあることだ。さあ、立ち上がって」
彼の手を借りて、よろよろと立ち上がった。
ケガをしていると思えないほどの、鮮やかな微笑を向けてくる。
「おれのほうが、奴よりいい男だったな」
「え……」
「ヴァルター王子に啖呵を切ってくれたんだろう? 奴よりおれのほうが、いい男だって」
テオドールが緊迫感のない声でそう言うから、リーンハルトはもう耐えきれなくなる。
彼の逞しい胸に向かって抱きついた。
「バカっ……あなたは……! 私を庇うなんて……!」
彼は自由に動くほうの腕で、リーンハルトをしっかりと抱きしめた。
「あなただって、いつもおれを庇ってくれたじゃないか」
リーンハルトは、彼の汗でしっとりと濡れるシャツに顔を擦りつけて、ふるふると首を左右に振る。
「私は無力です。いつもあなたを助けたいと思っていたのに……結局何もできずじまいでした」
「いいや。リーンは六年前もおれを守ってくれた。これからは、おれがあなたを守る」
「私は、何も……」
テオドールの手に力がこもり更に強い力で抱きしめると、リーンハルトの額に唇を寄せた。
「身体を張って毒からおれを助けてくれただろう?」
「毒……?」
彼の言うことが、一瞬理解できなかった。だが六年前と口にしたので、兄たちが毒を仕込んだあの晩餐会のことだとすぐに察した。
リーンハルトは驚きを隠せない。
「テオ……知って……?」
「当たり前だ。おれはそこまで鈍い男じゃないぞ」
そう言い、何回もリーンハルトの額に唇をあてる。
死ぬまで胸に秘めていようと思ったのに、あっさりと露呈していただなんて。
「おれの代わりに毒入りの料理を食べるなんて、なぜあんな無茶をしたんだ」
問われても、理由なんてただひとつだ。
「兄たちの企みを知っても、私はそれを止める術や阻止する手だてが思い浮かばなかった。何がなんでも、あなたとアルフォンスを無事アステア公国に戻してあげたかったのです。だからあのような方法を取りました。私は死んでもいい。あなたとアルフォンスさえ生きていてれば……」
「あなたが死んだら、おれらが悲しむ」
テオドールの唇が額から滑りおり、鼻の頭や頬を掠めてくる。
可愛いキスの嵐に、リーンハルトの身体が官能で制されていく。
テオドールが切実な声でささめいた。
「あのとき、帰国するのが辛かった。もしリーンが死んでしまったらどうしようと、気が気じゃなかった。帰国を延期しようとしたら、なぜかアルヴァン国王に追い出されてしまったんだ」
アルヴァンは、兄たちがテオドールを毒殺しようとしたことを知っていた。
気概を見せたリーンハルトに免じて、彼らを養子にするのをやめたと言っていた。
アルヴァンにはアルヴァンなりの筋があるらしい。
「アステアに戻っても、すぐさまあなたのところに飛んで戻りたかった。無事だと連絡が入るまで気が気じゃなかったんだ。頼むから二度と無茶をしてくれるな。おれの心臓が止まる」
「申し訳……」
「謝らないでくれ」
テオドールがリーンハルトの金糸のような髪を一筋掴むと、唇で食んだ。
まるで毛の一本一本にまで神経が行き届いているみたいで、耐えがたい愉悦を感じてしまう。
「テオ……テオ……」
「あなたを早く抱きたい。だがもう少しだけ待ってくれ」
アルフォンスが数人の衛兵と、医師を連れて戻ってきた。
「ごめん、兄さん。ヴァルターを取り逃がした。逃げ足が早くて……」
アルフォンスが恥ずかしそうに、ブラウンの髪を掻きながらそう報告する。
「構わん。どちらにしても国外追放にするつもりだ。手間がはぶけてちょうどいい。それよりも、リーンをヴァルター王子の目の前に飛び出させたことのほうが罪は重いぞ」
強い語調でそう言われ、ますますアルフォンスが困り果てた顔をする。
「ごめん、兄さん。ごめん、リーン……」
リーンハルトの勝手な行動は、リーンハルト自身の責任だ。アルフォンスが自責の念にかられる必要はない。
「待ってください。悪いのは私です。彼に出てはならないと言われていたのに、いてもたってもいられなくて……テオのことが心配で堪らなかったのです。責任は私にあります……! アルフォンスを責めないでください」
テオドールの胸の中で懸命に訴えるリーンハルトに、テオドールもアルフォンスも何も言えなくなる。
「わかった。あなたの言葉を尊重しよう」
「ちぇ。リーンに対しては素直なんだから」
アルフォンスがふくれっ面で小言を漏らすものだから、テオドールが目を細めて聞きとがめてくる。
「当然だ」
テオドールは医師に促され玉座に座った。シャツの肩部分を破き、すぐさま腕の治療にあたる。
リーンハルトは邪魔にならないよう、医者の後ろに立った。
「リーン。ヒートに振り回されないよう気をしっかり保つんだ。苦しくなったら、おれにすがりついていればいい」
いや、あなたのそばにいると、余計にヒートが悪化して……と言いたかったが、不思議と今の言葉で身体の熱が落ち着くのを感じた。
なんとかヒートを抑えつつ、消毒薬を渡したり汚れた布をダストボックスに捨てたり、甲斐甲斐しく医師の補佐をした。
なぜかはわからないがテオドールの言葉で、ヒートをコントロールできたような気がする。
彼の一言で、こんなにも心と身体が変化するなんて自分でも驚いてしまう。これが運命の番というものなのか?
腕の傷を縫われている間も、テオドールはアルフォンスに様々なことを指示していた。
「関所に伝令を頼む。ヴァルターらしき男が現れたら、国外追放の旨を伝え再入国できぬよう手配してくれ。あと地下牢のヴェンデル王家も合わせて国外追放とする。当座の金を用意させるから、廃籍同意に一筆書けと命じてくれ」
「わかった。あと兄さん。さっきのは本気?」
「さっきのとは?」
アルフォンスが憮然とした面持ちでテオドールに問いかける。
「リーンを番にして、ヴェンデル王国を統治するって話」
「ああ、本気だ」
テオドールはさも当然という顔をする。横で聞いているリーンハルトのほうが赤面してしまった。
医師や警備兵も聞いているというのに、そんな大事な話を世間話のようにするなんて大丈夫か。
「アステア公国を、ぼくに任せるってのも本気なの? 兄さんが第一継承者なんだよ?」
「本気だ。継承権は放棄する。おれはリーンとともに、ヴェンデル王国の再興に尽力する」
アルフォンスは呆れたように肩を竦めると、確固とした口調で決意を表明したテオドールに賛辞の視線を向けた。
「そこまで言うなら仕方ないね。リーンを幸せにしてよ」
「言われなくてもわかっている。安心しろ」
アルフォンスはテオドールの指示を遂行するため、謁見室を出て行こうとした。
だが何か思いついたように振り向くと、リーンハルトに向かってウィンクする。
「リーン。兄さんに泣かされたら、すぐ頼ってね。そのときは、ぼくがあなたを幸せにするから」
恥ずかしくて何も返せないリーンハルトの代わりに、テオドールが声を荒げる。
「そんな事態になるか。アルフォンス。さっさと行け」
「ちぇ……兄さんは本当に勝手なんだから」
アルフォンスはぶちぶちと愚痴のようなものを零しながらも、なぜか嬉しそうに謁見室から出て行った。
テオドールは腕に包帯が巻き終わると、医師にリーンハルトの背中も診るようにとの指示を出した。
すっかりさまざまなことに気を取られていたが、リーンハルトの背にも鞭の傷が残っている。
出血も止まっているし傷口もほとんど塞がっているので、消毒液を塗ってあて布を交換するくらいだが、テオドールが傷跡を残さないようにと強く医師に命じた。
治療が終わり、医師が謁見室を出て行くと、テオドールは衛兵も外で待機するよう指示を出した。
謁見室に誰もいなくなるとテオドールが玉座から立ち上がり、リーンハルトの傍らにくる。
「リーン。ヒートはどうだ?」
「大丈夫……です。それほどひどくは……」
と言っている矢先から、心臓が激しく鼓動する。
テオドールが近くにいればいるほど、身体が燃え上がってしまうから実にやっかいだ。
途中で言葉が止まってしまうリーンハルトの手を、テオドールが強く握る。
「大丈夫だ。すぐにおさめてやる」
テオドールに手を取られて、玉座の裏、カーテンの向こうにある卑猥な部屋へと向かう。
部屋に足を踏み入れてすぐに、テオドールがリーンハルトを抱きしめてきた。
「またここに閉じ込めることになってすまない。嫌だと思うが、もうしばらくここにいてくれ。せめてヴェンデル王家を国外追放するまでは」
ヴェンデル国王の秘密の遊び場。この場所を知っている人間は少ない。
ヴァルターは、どこを探してもリーンハルトが見つからなかったと口にした。
テオドールはヴァルターが潜入すると予測して、リーンハルトをこの部屋に隠したのだ。
「リーンが寂しくならないよう、なるべくこまめに訪れる。だから……おれから逃げないでくれ」
「はい。テオ。あなたのそばにずっといます。もう二度と勝手にどこかへ行ったりしません」
それを聞いたテオドールが、リーンハルトの頭に頬をこすりつけて、切実な声を漏らす。
「リーン。目が覚めた時あなたがいなくて、おれはおかしくなりそうだった。疲れていたとはいえ、眠りこけてしまったことをどれほど悔やんだか……」
「テオ……本当にごめんなさい」
「なぜここから出て行った。おれがどれほど心配するのかわからなかったのか」
詰問の語尾は甘い。彼の筋肉質な腕に抱かれたまま、ゆっくりと自分の気持ちを彼に話す。
「……父と母、そして兄たちがもし反省していたら、あなたに彼らを許してほしいとお願いするつもりでした。でも……無理でした。彼らに国を統べる能力はありません。あんなにも恨みを買っていたら、遅かれ早かれ、この国はいつか誰かに滅亡させられていたでしょう。今は、それがあなたでよかったと思っています」
「リーン……おれはあなたの母国を滅ぼすつもりはない。必ず復興すると誓う」
「ええ。あなたならできるでしょう。私もお手伝いします」
テオドールがぎゅっと強く抱きしめてきた。
骨が軋むほど屈強な腕に拘束されているのに、なぜだかまったく苦しくも痛くもない。
それどころか、もっと激しく抱きしめてほしいと願ったくらいだ。
リーンハルトも手を伸ばし、屈強な身体を抱きしめる。
テオドールは背中も固い筋肉で覆われていた。その雄々しくも凛々しい身体に、リーンハルトはもっと強く抱きしめたくなる。
「あなたに謝らないといけないことがあります」
リーンハルトは少しだけ顔を上げると、彼の男らしい端正な面持ちを見つめた。
彼は何も言わず少しだけ首を傾げて、リーンハルトの言葉を待っている。
「……地下牢でヴァルター兄さんに会いました。あなたたちの寝首をかくか、私の首を取ってあなたがたを動揺させるか……そのどちらかの方法を取ると言い切りました。ヴァルター兄さんにあなたの邪魔をされたくなかった。私の命はどうなってもいい。だから……」
テオドールの背中に回している手に力を込めて、彼のシャツをギュッと握りしめる。
「ヴァルター兄さんを焚きつけました。卑怯な真似をしなければテオに適わないのですね、と。それでヴァルター兄さんは、あなたと一対一の戦いを申し出たのです」
「それのどこが謝ることだ? 最後のウェンデル王家を炙り出すことができて、逆によかったじゃないか」
それは、あくまでも結果論に過ぎない。
愛する男に「深紅のヴァルター」と異名のある、戦場の猛者をけしかけてしまったのだから。
「でも……あなたに何かあったらと……」
どんどん声が小さくなるリーンハルトに、テオドールが労わるような優しい声を出す。
「おれが勝つと信じていたんだろう?」
「もちろんです。あなたは、ヴァルター兄さんよりも強い。心も身体も。……そのすべてが偉大です。負けるなんて一切思っていませんでした。ケガをさせてしまって、申し訳ないと……」
「リーン……言うな。これは名誉の負傷だ。あなたを守れたという功績だ」
「功績だなんて……」
テオドールはリーンハルトの言葉を遮ると、その華奢な身体を、野生を思わせるほど荒々しく、優しさを現すように身体中を撫で回し、思う存分に愛でまくってきた。
狂おしいほどの熱情で、リーンハルトを求めてくる。
「リーン……リーン。ずっとおれのそばにいてくれ。もう自分の思いを抑え込むことなんてできない。六年前からずっとあなたが好きだった」
「テオ……私のことを……ずっと思っていてくれたのですか?」
テオドールがリーンハルトの金髪に頬を擦るように頷く。
「ああ。もう心の底から……」
テオドールの身体から香ってくる濃厚な香りに、リーンハルトの脳芯がクラクラとする。
甘くて爽やかで……リーンハルトの理性を根こそぎ奪い取るような香りだ。
もっと彼のフェロモンを嗅ぎたくて、リーンハルトも彼の背中に手を回す。
テオドールは、そんなリーンハルトの気持ちをわかってくれたのか、抱きしめる腕にもっと力を込めた。
「リーンがおれの近くにくるだけで、ヒートを発症させることに気がついていた。でもあなたは、まだその真の意味に気づいておらず、おれへの思いも理解していなかった。だからヒートをおさめるという理由をつけて抱いた。本当はあなたを心から求めている。毎日でも抱きたい。おれは、あなたとだけ番いたいんだ」
「運命の……番ということ……?」
「そうだ。その証拠に、あなたはおれにしか欲情しないし、おれもあなたしか抱きたくない。心の奥底でお互いを求めている。それはまさしく、魂の番だからだ」
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