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第2話
◆ヨアン
ヨアンは森で育った。彼は森の中に潜んで活動する盗賊の子だったが、親の顔は知らない。母親は盗賊に町から無理矢理さらわれてきた女だったらしいが、厳しい森の暮らしに長くは耐えられず、ヨアンが物心つく以前に死んでしまった。今では、父親が盗賊の一味の中のどの男かもはっきりとはわからないのだった。
盗賊たちは、木の実や山の獣を狩ったり、ときたま森の中を通る旅の一行を襲って物資や食料を奪い生計を立てていた。だが葡萄酒や若い女など、森の中では手に入らない物もある。そういったものが必要になると、彼らは徒党を組んで近くの小国、石垣に囲まれたベセルキアの町を襲撃する。
その晩、彼ら一味は森づたいの地域を襲った。だが計画通りに事が運ばず、一味の半分ほどが逃げ遅れてベセルキアの兵たちに囚われた。盗賊は捕まれば投獄される事なくその場ですぐに処刑される決まりだった。彼らは国の外れにある処刑場に連れて行かれ、順に首をはねられた。
ヨアンも捕まった一味の中にいた。だが彼があまりに痩せて小さく、幼く見えたため、首切り役がほんのわずかだがためらった。すばしこいヨアンはその隙をのがさず、自分を押さえつけていた兵士の手からすり抜け、逃げ出した。
だが国の周囲を囲む石垣は高く、自力で森に逃げ出す事はできなかった。ヨアンはあちこち逃げ惑ったが、土地勘もなく、じき兵士たちに見つかって追い詰められてしまった。
ふと気付くと、目前にツタの絡まる石造りの塔が高くそびえ立っている。逃げ場を失ったヨアンはそのツタにとりついて、必死でよじ登りはじめた。
下で、弓はないのかと叫ぶ兵士の声がする。射られてはたまらない。ヨアンは何度も足を滑らせて落ちそうになりながら、かなりな高さまで来た。やがて腕が痺れてきて、これ以上登るのは無理だ――そうあきらめかけたとき、組まれた石の壁の一部が四角く窓のようにくりぬかれているのに気がついた。あそこまで行けば――この塔の中に逃げ込めるかもしれない。
なんとかそこへと辿りつき、窓らしい所に這い登ろうとしたのだがもう腕に力が残っていない。指が石から外れかけ、落ちる寸前となった時、ヨアンの片方の手がふいに上から掴まれた。何が起こったかよくわからず見上げたヨアンの目に、不思議な姿をした人物が映った。
月明かりを反射して光る金色の長い髪、森の奥の湖のように透きとおって深い青の瞳――そうしてヨアンのこわばった腕を握ったその白い手は温かく、柔らかだった。今まで見てきた何よりも綺麗だ――ほんとにこの世のものだろうか?ヨアンはそう思った。
その人物はヨアンの身体を引き上げると、足元の、石組みの床に座らせた。
「待ってて」
そう囁くと身を翻し、奥に見える部屋へと足早に入っていく。その人が動くとそれにつれ、どこからか鈴の音のような、シャラシャラという小さな音色が響いた。
ヨアンがぼんやり見回すと、そこはひどく不思議な部屋で、半分屋根が無く、頭上に星が見えている。そうして、塔の内部だと思ったのに、周囲はところどころが茂った植物の葉に覆われている。
――後で知ったのだが、そこはセルテスの庭園だった。彼が唯一外の空気に触れることを許されているささやかな場所だったのだ。
やがてまた、微かな鈴の音を響かせてその人が戻って来た。手には水の入った器を持っている。すっかり息の上がっていたヨアンはその腕に取り縋るようにして水を飲んだ。水は冷たく、甘かった。
震えが治まらないヨアンの身体をその人はそっと包むように抱いてくれた。ようやく呼吸が落ち着いてきた時、さっき彼が水を取りに行った部屋の方から兵士が数人駆け込んで来た。
思わず怯え、抱いてくれている人物にしがみついたヨアンを、取り囲んだ兵士達が乱暴に引き剥がそうとする。
「待って――待ってください!一体何事ですか!」
ヨアンを庇い、彼の身体を胸にしっかりと抱きかかえたその人が兵士たちに抗議した。
「ほんの子供ではありませんか!そのように剣まで抜いて――」
兵士達は盗賊の首をはねた剣をそのまま携えている。
「申し訳ございません。町に侵入した盗賊の一味です。仲間は既に処刑したんですが、こいつだけ逃げ出してしまって。おい小僧!汚い手でセルテス様に触れるな!」
怒鳴りつけられたヨアンは縮こまり、自分を抱いてくれているその人に更にぎゅっとしがみついた。彼の着ている柔らかな衣から不思議ないい匂いがする――こんなときなのに、なぜかヨアンは顔も覚えていない母親を思った。
「処刑を?こんな……子供の目の前で?可哀想に……怖かったろう」
セルテスと呼ばれたその人は、ヨアンの髪を撫でながら、ひどく悲しそうな声で呟いた。その声を聞いたとたん、どういうわけかヨアンは鼻の奥につんとした痛みを覚え、涙が零れそうになった。
さっき眼前で仲間が処刑されていったとき、ヨアンは実は、何も感じていなかった。盗賊達の間では死など日常茶飯事で、殺すことも殺されることも日々当たり前のように行われている。それに仲間と言っても単に一緒に行動するというだけの間柄だ。連中が殺されても自分だけはなんとか逃げ出したい、そう考えていただけだった。なのに、なんでこんな――何かを失くしたような気持ちになるんだろう――
セルテスが口を開いた。
「王に――この子だけはお目こぼし願えないか頼んでみます。それまで連れて行くのは待ってください」
「しかし――」
「私が責任を持ちます。下がりなさい」
当時のヨアンには思いがけなかったことに、かなり年若く見えるセルテスに兵士たちはそれ以上逆らわず、剣をおさめて頭を下げるとすぐに引き上げて行った。幽閉されているとは言え、セルテスはれっきとした王族の血を引く人物だ。そのうえ、呪いの力を持っているという噂もある。今にして思えば、兵士達が彼に大人しく従ったのは当然のことだった。
ベセルキアはセルテスの父が死んでから、正室であった后と、セルテスとは腹違いの兄に当たるその息子とが治めている。
后は普段、幽閉されているセルテスの願いなど全く聞き入れてはくれないのだが、ヨアンにとって幸運だった事に、その晩はたまたま后が里帰り中で王宮内にいなかった。そして息子王は、母の居ないその隙にと気に入りの淫婦たちを王宮に引き入れての饗宴の真っ最中で、いつになく上機嫌だった。
そのため王は、ヨアンをセルテスの塔の中でなら生かしておくことを承知してくれた。ヨアンはそのまま塔に住み着き、セルテスの身の回りを世話する従者として常に仕えることとなった。
二人が出会ったそのとき、セルテスは17、ヨアンは14で――セルテスは、彼がもっと幼いと――おそらく10歳ほどだろうと――思ったのだが、その頃のヨアンは栄養不足で成長が遅く、そのため小さかっただけだった。そしてヨアンが鈴の音と感じたあの不思議な音色――それはセルテスをこの塔に繋ぎとめている鎖が立てる音だった――
ヨアンは本来塔から出る事は許されていない。だがもともと野育ちで盗賊の出だ。塔で暮らすようになって暫くしてから、誰にもばれずに塔から出入りする方法をあっさり見つけ出してきた。だが外へ出てもそのまま逃げたりはせず、きちんとセルテスの元へ戻ってくる。ヨアンは勝手に、セルテスに忠誠を誓っているのだった。彼は今ではセルテスの頼みで時折町まで出て、庭園で大事に栽培している貴重な薬草を、貧しくて薬が買えず困っている人々にわけてやったりなどしている。
セルテスは初めからヨアンの聡明さを見抜いていた。塔で彼を引き取った時、弱肉強食の盗賊の中で生き延びてきたヨアンの態度は獣じみて荒々しく、食事は手づかみで食べ、言葉使いもまともとは言えなかった。だがそんなヨアンにセルテスは、教養人としての振る舞いを根気良く教え続けた。
そしてやがて、ヨアンはセルテスが教える事を、ある時期から非常な速さで習得し出すようになった。セルテスが思ったとおり、やはり元々優秀な頭脳を持っていたのだ。
それから5年――今ではヨアンはセルテスの書庫にある本を使い、物語を読んだり数式を解いたりもしている。手先が器用でなんでも修理したし、工夫して何か作るのも得意だった。身長も――いつの間にかセルテスを追い越している。
自分の期待に応えるように、心身ともに目覚しい成長を遂げたヨアンがセルテスは誇らしかった。セルテスにとって彼は只の従者ではなく、血を分けた弟――いや、多分それ以上の存在だった。
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