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第10話
◆旅路
ベセルキアを出て、スクアードとジェセはただひたすらに東を目指した。太陽と月が入れ替わるのを、もう何度見たかわからない。眼下に広がる広大な森は、いくら飛んでも尽きる事が無く、永遠に続くかに思われた。
旅の間、スクアードがセルテスの事を思わない日はなかった。セルテスの心はスクアードと共にある――獲物が取れず、空腹で飛ぶのが辛い時、天候が悪く、濡れた身体で寒さに耐えねばならない時――彼が言った言葉を、スクアードは噛み締めた。この旅がどんなに長く、辛くとも、必ず終わらせる――セルテスのために飛ぶと約束したから。
東の国がどこに存在するのか、ジェセも実ははっきりとは知らなかった。手がかりは両親が死ぬ直前に言い残してくれた言葉だけだ。もし行く方向を間違えば、辿りつけずに森の中で力が尽きるだろう。だが不思議な事に、ある程度旅が進むと――兄弟の心の中に、はっきりと、行くべき方向はこちらなのだという確信が芽生えてきた。自分たちがちゃんと目指すべき場所に進んでいるとわかる、それはあたかも、身体の中に方角を指示する特別な道具を得たかのようだった。
その感覚はもしかすると、死んだ両親が彼らの中に残してくれた、血が持つ記憶なのかもしれない。それともベセルキアにいた間には使われることの無かった有翼種の持つ眠っていた能力が、窮地になって発揮されたものなのかもしれなかった。
途中いくつか、森に飲み込まれかけているベセルキアのような小さな国々を越えた。それらが自分たちの目指す所では無いということはすぐに分かった。そんな国に差し掛かると、疲れのあまり、もうここで――旅を終わらせてもいいのではないかと思ったりもした。だが兄弟は、耐えて両親の故郷目指して飛び続けた ――
やがてとうとう――進む先に――初めて森の終わりが見えた。今までにはなかった――緑に埋もれていない国だ。
そしてあれは……何だろう?切り開かれた土地に築かれた町は、ベセルキアの中心地をずっと大きくしたような眺めだったが、その先に――セルテスの瞳と同じ色のきらめく何かが広がっている。森にある湖に似ているが、もっとずっと大きかった。それが海という物なのだと、スクアードは暫く後に知った。
汚れ、疲れきった彼らを、東の国の町の人々は暖かく迎え入れてくれた。その歓待はもしかしたら、宿代にあてようとスクアードが出して示した、セルテスが持たせてくれた先王の宝飾品のお陰だったのかもしれない。だがともかく、彼らは蔑まれる事も迷惑がられる事も無く、清潔な寝台と、暖かい食事とを得る事ができたのだった。
町に着いた初めの数日は疲れを取ることに費やしてしまい、宿で休んでばかりいた。そんな彼らをきさくな宿の主人は、心を尽くしもてなしてくれた。ある日その宿につながる食堂で、宿泊客の間を回りながらにこやかに茶を注ぎ足している主人に、ジェセは訊ねた。
「あのう……俺達が渡した宝石で……いつまで泊まれるでしょうか?」
「そうだねえ……ここだったら一月の間は大丈夫だよ。朝晩うちのかみさんのまずい食事でよけりゃの話だけど?」
「聞こえたよ!まずくて悪かったね!安くしてやってんだから我慢おし!」
奥からかみさんらしい女性の怒鳴り声がした。
「一月も?」
スクアードが驚くと、宿の主人は笑った。
「あんたらベセルキアから来たんだったね……あそこはなんでも値段が高いだろう。以前来た移住者から聞いたけど、ベセルキアは森の中に孤立してしまってるし、余所の国とあまり交易もしないから食料も物資も不足してるんだってね」
こうえき?ぶっし?ふそく?スクアードにそれらは初めて聞く言葉で、意味がよくわからなかった。ジェセはじっと、何か考え込んでいた。
一月と聞いて安心したし、疲れも取れたので――兄弟は町へ出てみた。
ここはトプフという名の国だそうで、ベセルキアより随分活気がある。町の人々は、洗練されているとは言えないが人懐っこく陽気で気が優しい。色々な場所から移ってきた種族たちが寄せ集まって作りあげた国で、宮殿は無く、王もいない。王族では無い普通の人々が話し合ってこの国を治めているのだそうだ。以前には揉め事も多く、こんな風に平和になったのはごく最近のことだが、もともと移住者には寛大なのだという。
驚いたことに有翼種も、町を行く人々に混じってそこらで普通に見かける。スクアードは嬉しくなった。ここでは誰も――自分達の姿を見て、眉をひそめたりしないのだ――。
人ごみの中を歩いていると、後ろから翼を引かれた。何かと思って振り向くと、小さな子が翼の端を握り、にっこりとスクアードを見上げている。後ろにいた子供の母親らしい女性が走りよってきて、あわててスクアードに詫びた。
「ごめんなさい――お父さんと間違えたみたいで」
お父さん?スクアードはジェセと顔を見合わせた。
驚いたことに、この町では有翼種と人が連れ添う事もあるのだった。ただそうなると、子供に爪や翼は生えないらしい。ともかく驚く事ばかりで、ふたりはただ唖然と、賑やかな町を歩き回った。すると、ジェセがふいに笑い出した。スクアードが兄のこんな陽気な笑い声を聞いたのは――恐らく初めてだった。
「俺達――なにやってたんだろうな」
「え?」
「ベセルキアで――あのみじめな生活が当たり前だと思って――そのまま死んでしまうところだった。世界は広い。スクアード、世界って――こんなに広かったんだな」
そうだ……もしあのままベセルキアに――あの小さな国にとどまっていたら――寒々しい岩山で体を丸めて眠り、町の人々に蔑まれながら、やっとのことで葡萄酒を手に入れ――有翼種に生まれたことを恨みながら、情けない気持ちで死ぬまで生活しなければならなかった――
良かった、スクアードは心底そう思った。
「兄さん、俺、兄さんの言うとおり東の国に来て――ほんとに良かった」
「うん。俺達、ここできっと素晴らしい暮らしができるよ」
それから数日――親切な宿の主人に助けてもらい、兄弟はここで暮らして行く計画を立て始めた。聞けば有翼種にできる仕事も色々とある。遠いベセルキアから来たと知ると、珍しいようで人々はしきりに兄弟の話を聞きたがった。問われるまま語るうち、ベセルキアでの有翼種の扱われ方を知ったトプフの国の人々は、一緒に憤慨などしてくれ、なかには同情して食事を奢ってくれるものまで居た。
有翼種の仲間たちとも多く知り合い、やがて兄弟は宿を引き払って、町の近くに小さな家を借りた。セルテスがくれた宝飾品が、必要なものを全て整えるのに充分に足りた。
ある晩、スクアードたちは海に程近い仲間の家の酒宴に呼ばれ、したたか酔って楽しい時を過ごした。ジェセはそこに来ていた有翼種の娘と気が合い仲良くなったらしい。話し込んでいる彼らに気を利かせて、スクアードは先に帰途についた。
穏やかな、暖かい晩で、遠くから波の音が聞こえて来る。いつもなら飛んで帰るところだが、酔って暗い町を行くのがなんとなく気分良かったので暫く歩くことにした。その時――ふと現れた人影を見て、スクアードは心臓を掴まれたような気持ちになった。
「セル――セルテス!?」
スクアードは叫び、その人影を追った。立ち止まって振り返ったのは当然セルテスではなく、どうやら酒場で働く娘らしい。だが彼女の長い髪――月明かりの中で、それはセルテスのと同じ――金色に輝いていた。
「どうしたの?誰かと間違えた?」
男のあしらいに慣れているらしい娘は、細く締め上げた腰に手を添え、艷やかに微笑んだ。
「いや、ちが、そ、そう。君、その髪は――」
「ああ、これ?」
彼女はゆったりと片手で髪を掻き上げながら言う。
「このあいだ染めたの」
「そ、染めた?」
「ええ。最近この色が評判いいのよ。本物じゃ無いのは悔しいけど」
「本物?じ、じゃあ――染めたのじゃない人もいるの?」
「そりゃあいるわよ。北から来た人はみんなそうよ。この町じゃあまり多くは無いけどね。そう言えばあなた、最近ベセルキアから来たんだったわね。あそこは種族が一つだけだそうだから、色の違う髪は珍しいかもね」
彼女の言う意味はよくわからなかったが、スクアードは頭を殴られたような衝撃を受けていた――なぜ――セルテスの事を――今まで忘れていたのだろう。過酷な旅に耐えられたのは彼のお蔭だった。この町で住処を得て落ち着けたのだって、彼のくれた宝物が役に立ったから――なのに忘れていたなんて、どうしてそんな――酷い事ができたのか。
こんどうちの店にも来てねとにこやかに言う娘と別れ、スクアードはうなだれて道を歩いた。酔いはすっかり醒めていた。トプフの町での暮らしは楽しく刺激的で、苦しい旅から解放された喜びもあり、自分はひたすら浮かれていた。なのに――セルテス。彼は、今もあの――物寂しい塔に閉じ込められている――しかも ――鎖なんかに繋がれて。
この町では、金の髪だろうと硬い鉤爪だろうと、なんにも咎められる事はない。産まれた場所が違うというだけで、なぜ辛い目に遭わなければならないのだろう――その思いは、スクアードの胸を重く締め付けた。
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