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佳月03
03
『キレイ好きの藤田』。
それは、大学に入学してから尚樹を知る友人内で、からかい半分で呼ばれるようになった二つ名だ。
そうなったのは、尚樹が特別に掃除や整理整頓が好きだからとかではない。
尚樹は、いわゆる『綺麗な人間』がとても好きなのだ。
単純に面食いというわけではない。顔だけでなく、その人の性格や身体の一部分や仕草などに一箇所でも『綺麗な』部分を見つけると、たちまち惹かれてしまうのだ。
しかも、男女やバース関係なくという多情ぶりだ。
なので、一部の人間からは『節操なし』と敬遠され、友人たちからはこの二つ名で呼ばれて揶揄されていた。
もちろん、尚樹にも言い分がある。
αに生まれたことで、幼い頃から人を引き寄せてしまうことは、確かにあった。成長するにつれ、それは段々とあからさまになってきて、辟易するほどになった。
もし、自分がαじゃなかったら、こんな風に人は寄ってこないんじゃないか。
αというバースであるという以外に、自分の価値はないんじゃないのか。
その疑問が、常に尚樹の心を支配していた。
一時期、αだけの環境にいた経験をしたことで、自分のバースにコンプレックスを超えて嫌悪に近い感情を持つようになった。
進学する際に、バース混在校の大学を選んだのは、そういった理由が大きい。同じバースだけで固まって、偏った思考を持ちたくなかった。
他の性より、支配欲や独占欲が異常に強いのが、αという性だ。
それを補うだけの頭脳や容姿を持っているという事実や、人口の殆どを占めるβのαへの尊敬や畏怖や羨望、そしてαに隷属的になるΩの存在が、それを増長させているのかもしれない。
とにかく、人の上に立つのが当然。自分が一番であるという無意味なマウントの取り合い。他のバースを下に見て、尊重するよりも従えたいと考える。
多くのαが、そんな人間ばかりだ。
だからこそなのかもしれないが、尚樹はこと恋愛において、男女やバース無関係に、相手の綺麗な部分に反応するようになった。それもちゃんと、自分なりの基準が明確にあって、見境なく誰も彼もに惹かれているわけではない。
ただ、人間のきれいな部分にむちゃくちゃ弱いだけ。それだけのことだと、尚樹は思っている。
そういう意味では、神埼三春は確かに自分の審美眼に叶う美しさがあった。
その容姿だけでなく、彼が纏う空気も、あの複雑な微笑も、匂い立つ魅惑的なフェロモンも、すべてに惹き込まれてしまった。
しかし、辻の話とあの時の彼の印象の不一致が気になる。それを確かめるためにも、不本意だが辻の誘いに乗るしかない。
「手順を踏まえてって言ったけど、あの人を口説き落としたのはいないけどねー」
尚樹の心の内を知ってか知らずか、辻が軽い口調でそう言った。
「……本当に、いいんだな?」
さっきまでとはガラリと変わった口調で、尚樹が聞いた。その問いかけに、辻は驚きでまじまじと見つめ返してくる。
「マジで口説くんなら、問題はないんだな?」
真剣な尚樹の表情から、言い知れぬ圧力を感じて、辻はほぼ無意識に何度もうなずいていた。ともすれば、この場で跪いて服従を誓ってしまいそうになる。
――これが、αのオーラか。
体格や成績こそ片鱗を見せるが、普段の尚樹は変な差別意識もなく、βの自分とも対等に接してくれるので、他のαより断然気さくで親しみやすい。
だけど、こういう時にやっぱり感じてしまうのだ。大多数であるはずのβを、こうも簡単に従わせてしまえる人間――それが、αだと。
(え。ということとは、神崎さんのことマジで口説くつもりか? あとで部長にメッセージ送っとかないと)
本気モードの尚樹は、自分が思っていた以上にコワい。もしかしたら、あの神崎さんといい勝負ができるかもしれない。
内心でワクワクしながら、辻はこっそりとスマホをタップして部長あてにメールを送る文章を打つ。
辻は、面白そうな事には火に油を注ぐどころか、ガソリンまで用意するような、とてもいい性格をしているのだった。
☆☆☆
「ここだよ」
多くのサークルの部室が集中する旧校舎の2階の端にある部屋の前で、辻が立ち止まって扉を指差した。
「ふうん。ただの飲みサーなのに、一応部室があるんだ」
「あのね、藤田。何度も言うけど、うちは飲みサーじゃないから。けっこう歴史のあるサークルだから!」
扉に目をやると、『月を眺める会。新規入会歓迎』というダンボールにマジックで書かれた看板らしきものがガムテープで貼られている。
本気で会員を集める気があるのかどうか、疑わしく思ってしまう。
「なんで、サークルの看板がダンボール……」
「途中で、サークル名が変わったりしたんだってさ。よくわからんけど。ほら、入ろうぜ」
つぶやくような尚樹のツッコミを軽く流して、辻はドアを開けて中に入るように促した。
十二畳ほどの広さであるそこは、簡易式の長テーブルが二つ、それを囲むようにしてパイプ椅子が数脚あり、奥に二、三人が座れるほどの大きさの古めかしいソファがあるだけの部屋だった。
廊下を歩いている途中で古い建物だとは思ったが、部室の中はさらにその古さが際立っている。床は、今の大学では珍しい木製の床だったし、窓ガラスもかなり曇っている。それは、もともと曇りガラスが当てはまっているのではなく、明らかに重ねた年月がそうさせたのだというのが傍目にもよくわかった。
それが辻の言うところの『歴史のあるサークル』である証拠なのかどうか、サークルそのものに所属していない尚樹にはわからない。
「ああ、辻。……彼がメールで話してた子?」
ドアが開いてすぐ目の前の机の前で、二人の男が向かい合って座っていた。その内の一人が立ち上がりながら、のんびりとした声音で辻に話しかけながら近づいてくる。柔和で人の良さげな雰囲気だが、体格といい整った容貌からαだというのがひと目で分かった。だが、彼からはα特有のマウントフェロモンは感じられない。
そして、動かないもう一人の姿を目に捉えて、尚樹の胸の鼓動が早くなる。
――ア、オレノツガイ。
書類が積んでる棚から漂う古い紙の匂いに混じって、ほのかに銀木犀が香って、尚樹に話しかけてきた。
じっと座ってこちらを無表情で見つめているのは、たしかに今朝出会った『彼』――神埼三春だった。
――マタ、アエタ。
無意識に、尚樹もフェロモンで語りかける。そうすると、銀木犀は嬉しそうに香りを濃くする。
「そうです、佐伯さん。――藤田、この人が佐伯さん。サークルの部長なんだ」
辻に声をかけられて我に返った尚樹は、目の前の人物に礼儀正しく頭を下げた。
「藤田です。よろしくお願いします」
尚樹が名乗っても、三春は無言のままでじっとこちらを見つめているだけだった。だけど、尚樹を取り囲む彼のフェロモンは、出会ったときと同じように色々と問いかけてくる。
――ナマエ、シタノナマエハ?
――ナオキ。
――イイヒビキ。ソノナマエ、スキ。
それにしても、と尚樹は思った。
自分を見つめる――というより睨んでいる――三春の視線は鋭い。先ほどと全く違う一切の感情も見えない表情から、どちらかというと歓迎されてないようにも取れる。だけど、尚樹に話しかけるフェロモンは手放しで嬉しそうにしている。
三春のフェロモンであるはずの銀木犀が、強く尚樹の鼻を刺激しているというのに、αであろう佐伯からは何の反応もない。これだけΩのフェロモンが香れば、αへの影響が絶対にあるはずなのに。
考えられるのは、佐々木に番がいるという可能性だ。番のいるαは、番以外のΩからのフェロモンの影響を受けにくい。だが、初対面でそれを確認するわけにもいかない。
違和感ばかりが尚樹の心を支配して、三春のフェロモンに捕まらなければ、挨拶だけで早々に帰っていたかもしれない。
尚樹の挨拶を受けて、佐伯という男がニコニコと笑顔で名乗った。
「こちらこそよろしく。俺が部長の佐伯です。教育学部の三年。えーっと、藤田君だっけ? 辻と学部が一緒なのかな?」
「はい。文学部の日本文芸学科です」
尚樹が頷くと、佐伯はそのニコニコ顔のまま奥に視線を向けた。
「そっか。ああ、この人は英文四年の――」
「神崎さんですよね?」
藤田が紹介しようとする佐伯の言葉を遮って、三春に向かって言った。まっすぐに三春を、三春だけを己の視界の中に捉える。
――ソウデショ?
フェロモンで問いかけると、無表情な三春の視線が、一瞬だけ揺らいだが、すぐ元に戻る。
「よろしく」と、儀礼的に会釈をしてすぐにこちらの視線を外す。これで用は済んだといわんばかりの態度だ。
尚樹は意地になってなおも見つめるが、こちらをちらりと振り向こうともしない。尚樹に対して、関心や興味など微塵もないようにみえた。今朝あったことも、すっかり忘れているかのようだった。
目に見える態度はそんなだったが、彼のフェロモンは真逆の反応だ。
――ウレシイ、ウレシイ。
――オレノツガイガ、キテクレタ。
三春の長めの後ろ髪が、彼が俯くことでさらりと動いた。そこから、ちらりと見えたのはΩを示す番避けの首輪。
――カミタイ。
不意に湧いた衝動は、そのままフェロモンとなって伝わったらしい。こちらを見ないまま、三春が項のあたりに手をやる。
やっぱり。尚樹のフェロモンもちゃんと彼に届いている。でも、佐々木や辻は相変わらず無反応だ。
つまり、互いのフェロモンは尚樹と三春の二人だけにしか通じてないのだ。
三春が、尚樹の『運命の番』であると、ここで確信した。
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