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選択の先 最終章・柒年の哀⑧

 まるで何時間も経過したようだった。  太宰の足許に長い影が伸び、顔を向ければ中也が共同椅子の背凭れに手を掛ける。先程【羅生門】から渡された帽子を無言で差し出せば、中也は其れを受け取り太宰の隣に腰を下ろす。 「相変わらず、趣味の悪い帽子」 「うっせ」  今迄と変わりの無い軽口。何も変わっていない筈なのに、距離だけが此れ迄とは比べ物にならない程遠く感じられた。  たった十糎、肩が触れ合わない距離感が他の誰よりも遠く感じる。  中也は少しだけ思った。  若し先程帽子を受け取る際、帽子では無く太宰の腕を取ったならば――  其の瞬間太宰の眼は大きく見開かれ、瞳孔が縮まるだろう。そして其れを拒絶と取り兼ねない中也は帽子のみを手に取った。  ――今は唯此の距離感が辛い。  ――たかが五糎、されど五糎。  思えば、七年前初めて逢った時の身長差は其の位だっただろうか。今は其れよりも随分と差が開いて仕舞った。  昔はもっとずっと近かった筈の二人の距離。  あんなに大嫌いだった筈なのに、何時の間にか愛して仕舞った。  ――厭、一目合ったあの瞬間から戀に堕ちて居たのかも知れない。  一度喪った痛みは何よりも大きく、痛く。あれから未だ数日しか経っていないというのに上手く言葉が紡げないで居た。  ――君だけを愛している。  ――手前だけを愛している。 「あの眼鏡とは、上手くやってんのか?」  不意に口をついた言葉。太宰の心臓が大きく跳ねる。  ――上手くって如何いう事?  相棒としての意味なら以前と変わらず上手くいっている方だと太宰は自負している。然し中也が問うている事は当然そんな意味ではない。  あの日あの時、太宰が中也を視認出来ていたという事は、逆をいえば中也も太宰を視認出来ていたという事になる。  太宰が目の前の中也では無く、国木田を選んだ其の瞬間を中也は確かに目撃していた。  仕方の無い事だったという言い訳は今更通用するだろうか。あの海で太宰は中也の死という事実に直面した。あの瞬間に大切な何かが屹度壊れて仕舞っていた。仕方の無い事だったのだ、本当に。  あれから国木田を愛する努力をした。其れでも――  中也の様に国木田を心から愛する事は、太宰には出来なかった。  目の前で中也より国木田を選んだ太宰が今倖せでは無いとしたら、其れは国木田のみならず中也に対しても失礼となる。  ――私ハ倖セダカラ。君モ、 「……噫、うん……上手く、いっているよ」  そう云って視線を向けた次の瞬間、太宰は呼吸をする事を忘れた。 「そうか」  中也の笑み。蔑むでも、嘲笑うでも無い安堵の笑みだった。  此の笑みは何度も見た事があった。寝起きの中也に接唇した時、大喧嘩で引くに引けなくなった太宰が搾り出すように謝罪の言葉を口にした時、「愛している」と寝台の中で伝えた時。  そんな時に中也が見せる優しい笑みだった。  其の笑みを見る度に太宰は嬉しさを覚えたものだったが、何故なのか其の笑顔が太宰の思考を停止させた。  嬉しい筈の笑顔が、今はとても苦しい。

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