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選択の先 最終章・柒年の哀⑨

「太宰……?」  太宰を見る中也の動きが固まった。太宰の瞳から零れる大粒の涙。反射的に手を差し伸べようと腰を浮かすが、其れをすべきは自分ではないという葛藤が瞬時に頭を巡ると片手を伸ばした儘の状態で硬直する。  太宰が自分の物であった時、誰が太宰に触れようが中也は気にしなかった。其の相手が如何様な感情を抱いて太宰に手を伸ばしたとしても、太宰の想いは自分に向いているという自負が有ったからだ。然し今は如何なのかと中也は思った。今の太宰は自分の物では無い。そして確かに今の時点は太宰への想いを捨てきれていない。そんな状態で太宰に触れる事は今の相手への不義理に為るのではないかと思い悩み、指先が微かに動くだけに留まった。  ――頼むから、泣くな太宰。  何時の間にか、中也が見る太宰の顔は泣き顔許りになっていた。恋人だった最後の顔も、あの交差点の時も。  ――今、手前の涙を止めてやれるのは俺じゃねェんだろ?  指先が硬直した儘、ゆっくりと腕を引く。然し中也の其の手を太宰は両手で握る。  拒絶する心算は無くとも、唐突に手を掴まれれば驚愕し筋肉の反射運動が中也の腕を更に引く。取った手を厭がられたと感じた太宰は力無く両手を放し頭を垂れる。 「……そんな、心算じゃ……無くて……」  中也も自分で何を云っているか解らなくなった。振り払おうとした訳ではない、然し状況はそうであるとしか認識出来なかった。 「…………本当は、ずっと……」  蚊の鳴く様な小さな声で太宰が何かを喋り出した。俯いている所為か声が下に落ちて余計に善く聞こえない。  中也は僅かに前傾姿勢を取り太宰の顔を下から覗き込む。途端に太宰は中也から顔を背け、中也は耳を太宰の口許へと寄せる。  ――――本当はずっと、君の事が大切で 「…………あの日から、」 「……中也の、居ない世界で……」 「………………生きて行くのが……厭だった……」  途切れ途切れになり乍らも聞こえる太宰の言葉に、中也は心臓を鷲掴みにされているかの様な息苦しさを感じる。 「…………死んだと、思った……」 「……噫、俺も死んだと思ったよ」 「中也は……、目を、開けなくて……どんどん冷たくなっていって…………」  耳に感じる吐息は生暖かく、首裏に手を回し自分の方へと更に引き寄せれば、重く暗い太宰の空気に呑み込まれていく気がした。 「…………約束したのに、」 「……太宰?」 「離さないでって約束したのに、君は私を置いて一人で逝って仕舞った。一人で生き続けるのが厭だと云った君が私を一人残して死んで仕舞った。私は、残された私は。約束をしたのに、誓い合ったのに絶対に離さないと。其れなのに君は私を一人残して逝って仕舞った。君以外に私の生きる意味なんて無いのに、君がそうさせたのに。君を失った私が一人で生きて行ける筈が無いのに。君に出逢わなければ善かった。愛さなければこんなに苦しい思いをする事も無かったのに。君が居なければ、君と出逢わなければ私は一人で死ぬ事も怖くは無かったのに。君を失った瞬間、私も屹度死んだんだ。君と出逢った事を詛った。君を愛した時間を詛った。君に、君に出逢わなければ、君を愛さなければ、君に愛されなければ私は今でもずっと――――」  今迄太宰が此れ程の長科白を息もつかずに話した事があっただろうか。厭がらせの部類としては、中也が降参する迄同様の長科白を云わなかった事も無い。然し此れ程迄に自らの感情を支離滅裂な迄に吐露する太宰を見るのは初めてだった。此の瞬間に中也は初めて太宰の事を「人間らしい」と感じた。  息継ぎもせず一息で放った太宰の言葉は中也が止める事も無く自然と止まった。重く苦しい感情を吐き出した太宰は痙攣するように背中を揺らす。  其れが過呼吸に拠るものだと気付いた中也は、自らも押し潰されそうな後悔に苛まれつつ太宰の躰を勢い良く抱き共同椅子から立ち上がる。  誰に見られようが構わない、後ろ指を指されようとも。  其れでも、自分を深く想い泣きじゃくる此の大きな子供を無碍に突き放す事が出来る程中也の太宰に対する情も浅くは無かった。自らの外套を太宰の頭の上から掛けて隠し、人目の無い処を捜して中也は走り出す。

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