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ばちあたり(桜木-1)※
蝉時雨はいつの間にかアブラゼミより、ツクツクボウシの音ばかりになっていた。
夏休みも残すところ十日。ためたつもりはなかったが、課題はまだ残っている。今日あたり片づけておかないと、兄貴のチェックにあってたっぷり説教されてしまう。
それに訪ねてきた友達も、課題の問題集を持参してきた。
今日は勉強するしかない
「これ、誰だ?」
それでなくとも暑苦しい晩夏に、喉に絡んだような調子で大川が訊ねた。飾ってあった写真を見て、だ。
問題集のページをめくる。
「兄貴」
「兄さん? めちゃ美人じゃないかぁ」
「性格は写真に写らないからな」
「そうなの?」
「そ。鬼軍曹って感じ」
「そう言われると確かに凛々しい顔立ちだなぁ」
家族で撮った写真に写っているのは七人。兄貴を筆頭に、まだ小さい基と洋まで。
「こうして見るとお前の家族ってみんなきれいな顔してるんだなぁ。見慣れてるから気がつかなかったけど、お前もけっこうイケてる方だ。性格はこんなだけど」
「ほっとけ」
その時玄関で人の気配を感じた。鍵 が外され、ドアが開かれる。
「ただいま」
「お帰り」
声だけかける。
「誰?」
なぜか大川は小声だ。
「兄貴」
「え? 実物?」
「見たい、なんて言うなよ」
「見たい見たい」
白い目で大川を見てやる。
「何考えてんだよ」
そう言いながらも麦茶の入ったグラスをつかむ。
「覚悟しろよ」
大川が怪訝そうな顔をしたのを無視して、その太ももあたりに麦茶をぶちまけた。
「うわっ、何すんだよ!」
「あ、ごめん! わー、どうしよう。兄貴ー雑巾持ってきてー、タオルもー」
白々しく大声で叫ぶ。
騒いでいた大川の動きが止まった。
小声の早口が訊ねる。
「そういうことかよ」
「そういうこと」
「何もかけなくたって」
非難していた大川が黙った。
足音が近づいてくる。
「何やってるんだ、湊」
兄貴が姿を見せた。その格好に大川だけではなく、俺も絶句した。
「いらっしゃい」
手にしていたタオルを大川に渡しながら、兄貴は頭を下げた。慌てて大川がぺこりと頭を下げ返し、タオルを受け取る。
「お前がこぼしたんだな」
雑巾を手に床に膝をついた兄貴がにらんでくる。
「ったく、ぼうっとしてないで少しは片づけるなり、着替えを出してあげるなりしたらどうだ」
そう言いながら兄貴は床にたまった麦茶を雑巾で拭き取っていく。
その動きに伴ってなめらかに動く兄貴の腕から背中の筋肉。
兄貴は着替えの途中だったらしい。上半身裸のままの姿をさらして、床を拭いている。
「湊? 湊!」
厳しく呼ばれて、やっと我に返った。
「あ、ごめんなさい。ありがとう」
「ありがとうじゃない。お友達の濡れたズボンを何とかしてあげなさい」
小言を言う間も、兄貴の白い体は流れるように動く。鍛えているわりに筋肉がつかない体は、引き締まってはいるが、生々しい男らしさはない。でも無駄がなく、均整がとれている。
腕を動かすたびに姿を見せたり隠れたりする肩胛骨はまるで羽ばたく小さな翼を思わせる。
これほどまでに人の体はなめらかに、美しく動くことができるのだ。
大川が口をきけるようになったのは、兄貴が部屋を出て行った後だった。
「す、すげえ。何か感動した。お前の兄さん、めちゃくちゃきれいだ」
「俺もちょっとびっくりした」
普段から見慣れていたはずなのに、明るい中で見た体はいつもと違うもののように見えた。
もしかしたら、比較対象がないからかもしれない。
則之の横では兄貴は妙に華奢に見えてしまう。だが、今見た体は十分にたくましく美しかった。
「いい物見せてもらった」
そんな馬鹿なことを言いながら、大川は帰っていった。
妙に頭がもやもやする。
特に兄貴を見ると、どうも腰が落ち着かない。何だかもぞもぞ動きたくなる。
「何をやっているんだ、行儀の悪い」
夕食の席で叱責された。みんなの注目を浴びる。
うつむいて顔を隠す。
誰のせいだよと内心思うが、それは自分のせいだ。
夕食の後、さっさと部屋へ戻り、灯りを付けないままベッドに寝転がった。
残暑がまだ厳しいとはいえ、夜風は涼しくなってきた。虫の音もうるさいくらいだ。
ため息をつく。
昼間見た兄貴の体がちらついてしまう。
白くなめらかな肌、薄い乳首の色。その体がなまめかしく動くさまを想像してしまう。
あ、と思った。
兄貴の体を想像して、勃っている。
あの体の芯でうずくような、もぞもぞと体をうごめかしたくなる衝動は、性欲だったのか。
だが、その対象は、実の兄の白い肌?
あまりの情けなさに頭が痛い。
なのに、両手はゆっくりと胸をなで、腹を下りて、そこへたどり着く。
短パンの上から指で触れたものは、明らかに硬く勃ち上がっている。
こんな早い時間に。
誰か部屋をのぞきに来たら。
そう思えば思うほど、興奮が強まる気がする。
覚悟を決めて短パンと下着の下へ、手を滑り込ませた。
息がこぼれた。
下着のゴム部分が窮屈だ。でも、さすがに今それを引き下ろす勇気はなかった。
下着の中に滑り込ませた手で、完全に欲望の熱を集めてしまったものを包み、軽く動かす。
じんとした快感が体を駆け抜けた。
重苦しいような快楽の予感に何だか気持ちまで切なくなってくる。
手を動かすのに、やはり下着が邪魔だ。
タオルケットで腹から腿にかけてを覆うと、思い切って短パンと下着を膝近くまで下ろした。まとわりつくのが邪魔で、結局足で蹴って脱ぐ。
解放感によけい気持ちよさと欲望が高まる。
息を整えながら、目を閉じて思う。
白くなめらかな肌。細くしなやかな指。薄い茶にかすかに赤みを帯びた小さな乳首。
幻想の体に触れる。
唇を寄せ、舌でその感触を楽しむ。こりこりとしこった粒のような乳首をなめては吸い上げ、もう一方は指先で転がす。刺激に白い胸がさざ波のように揺れる。かすかな喘ぎを聴きながら、舌先で乳首を転がし、両手は肌そのもののなめらかさを堪能する。
カーブを描く背筋をなで下ろして、引き締まった尻の山を左右に開いて――
「湊? 具合でも悪いのか?」
突然の現実にぎゃっとカエルがつぶれたような声をあげた。
「点けるぞ」
「点けないで!」
後先も考えずに叫んだ。
「湊?」
兄貴が困惑した声を出していた。逆光で表情はわからない。
「風邪でも引いたのか?」
声と気配が近づいてきた。洗い物をしたのか、かすかに濡れてひんやりとした手が、額をしっかりと覆う。
「少し熱いみたいだな。大丈夫か?」
「だ、大丈夫。大丈夫だから、一人にして」
「風邪薬を持ってこようか?」
「薬より、寝るから。寝るのが一番なんだろう? だから一人にしてくれよ」
懇願といらだちがごちゃ混ぜになった言葉を兄貴に投げつける。
「わかった。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
やっと、兄貴は去った。
深い深いため息をついた。体中の空気を吐き出すようだ。
今のやりとりですっかり萎えてしまった。
妖しい衝動も吹き飛んだ。
やはり実の兄をおかずにしようとしたのが間違いだったのか。
どっと疲れを感じた。何もかもが面倒に思える。
「ああ、もう、まったく」
無粋な兄貴の行動に八つ当たり気味でぶつぶつ言いながら、肩からタオルケットをかぶりなおした。
翌朝、起こしに来た兄貴にタオルケットをはぎ取られた。
何だか今朝は涼しいので、思わず身を丸くする。
しばらく兄貴は何も言わずにその場にいた。
なぜいつものように「往生際が悪い。さっさと起きろ」と言わないのかと思っていたら、タオルケットを投げつけられた。そして冷たくこう言われた。
「ノーパン健康法を実践するのはけっこうだが、シーツとタオルケットの下洗いはやっとけよ」
はっとしてタオルケットをつかみ、その下の我が身を顧みた。
ローティーンのように夢精したのがよりによって、中途半端になったために下着をはくのが面倒になった日の翌日で、兄貴がタオルケットを洗濯する気になった朝だったとは。
恥ずかしさのあまり、その日からたっぷり一週間、兄貴の顔が見られなかった。
――恥ずかしい湊、でした――
20031126
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