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第5話
懐かしい匂いが漂ってきて――鳥斗は目を開けた。辺りには障子越しの柔らかい朝の光が満ちている。
この匂い。
母さん?
そう思って鳥斗は急いで起き上がった。母さんが戻って来た!布団から飛び出して襖を引き開け、廊下を駆けていい匂いがしてくる部屋へ飛び込むと――そこに居たのは母ではなく――見慣れない、ほっそりとした体格の男性だった。
ああそうだ……母さんは死んでしまったんだった……もう戻っては来ない。そう思い出して鳥斗はがっかりして肩を落とした。ここも――自分のうちではなかった。鳥斗の胸に寂しさが込み上げる。
「お早う。よく眠れました?」
男の人が鳥斗に声をかける。優しい、柔らかい声だった。鳥斗は少しだけ父を思い出した。
「は、はい」
そうだった……叔父さんに連れてきてもらって……この人……ええと、満ちるさんのうちに泊めてもらったんだった。やっとそう思い出して慌てて頭を下げた。
「よく眠れました。おは、お早うございます……」
朝食を作っているのは彼だった。漂っていたのは味噌汁の匂い……同じ匂いだったから……母さんかと思った。鳥斗は一人で顔を赤くした。もう一人前にならなきゃいけない年なのに……いまだに父や母の事を思うと泣きそうになる。こんなこと……里の皆が知ったら嗤うだろう。また出来損ないだとバカにされる……。
そこへ白夜が慌てた様子で顔を出した。
「すみません坊ちゃん。寝過ごしてしまって」
「ううん。僕も今起きたとこだから」
「疲れてるんでしょう?ゆっくり寝てていいですよ」
満ちるが二人に声を掛けた。
「いえいえ。もう充分寝ましたから大丈夫」
言いながら白夜が、満ちるが朝食を並べるのに手を貸す。
「あ、ありがとう……慣れてるんですねえ」
「里ではこういうお手伝いが私の仕事でしたから」
「おはよ……」
冴えない表情の人貴が暖簾をくぐって台所へ姿を現した。が、満ちるの脇の白夜を見ると、ぎょっとした様子になって立ち止まった。
「あれ?早いじゃないか」
満ちるが訊ねる。
「え!?あ、ああ。ゆうべよく眠れなくて……なんかそのまま……」
「じゃあ寝なおせば?」
「いや……腹減ったから……」
鳥斗がややびっくりして人貴を見ていると、
「あ、こいつ、弟です。昨夜ちょっと見たよね、大声出してうるさかった奴。人貴、鳥斗くんと……白夜さん」
そう満ちるが紹介したので鳥斗は慌てて頭を下げた。人貴はむっつりと黙っているので少し怖くなったが、こらえて小さな声で挨拶した。
「鳥斗です……お邪魔してます」
その鳥斗に、人貴は不機嫌にこたえた。
「……邪魔だってわかってんなら、早めに出てけよ」
それを聞いて白夜は目を剥いて人貴を睨みつけ、何か言いかけたが、それより早く満ちるが鋭い調子で弟を叱った。
「人貴!困ってるのがわかってる相手にそんな冷たい口きくんじゃない。ここは僕の家なんだからな。誰を泊めようと僕の自由だ」
言われて弟は不満をあらわにした表情で兄を見返した――ひどく気まずい雰囲気が辺りを支配したそこへ、新聞を手に龍之がひょっこり顔を出した。
「おう。お早う。朝っぱらから兄弟喧嘩すんなよう?鳥斗が怖がってるじゃねえか」
「誰のせいで喧嘩になったと思ってんだよ!」
人貴が言い返す。
「俺のせいって言いたいんでしょう~?わかってるよう。けど言うじゃん?人類みな兄弟、仲良くしましょう!って。ねえ?」
その呑気な様子のおかげで人貴は気勢が削がれたらしく、頭を掻いた。
「……まったくこのオッサンは……いつも調子狂う事ばっかし言いやがって……」
「困った時はお互い様、でしょ。お前が困ったら俺が助けてやれるときもあるよ、きっと!いや多分……もしかしたら……万が一……」
「なに確率どんどん減らしてんだよ!……あ!ひとんちの新聞また勝手に……便所に持ち込んだんじゃ無いだろうな!?」
「いいじゃないよ減るもんじゃなし……まあ腹減ってるとイライラするからさ、飯食おう、飯!」
龍之のその言葉を潮に皆食卓についた。だが人貴はまだ落ち着けない気分だった。箸をとりながら考える。あの、白夜と言う男の昨夜の目つき……普通ではない感じだった。あれを見てない兄さんにはわからないんだ。俺は信用しないぞ、こんなやつら……。
味噌汁に口を付けた白夜が、突然声を上げた。
「ああこれ!……奥様のと同じ味だ!……ね?坊ちゃん」
「え!そ、そう?そう言われればそうかも……」
実は鳥斗も同じことを思って胸が詰まったような感じになっていたのだが、恥ずかしくてそう誤魔化した。いまだに母を慕っていると……知られたくない。
「いや美味しい。料理お上手ですねえ」
白夜にほめられて満ちるが笑った。
「味噌汁なんて大体似たような味だから」
「そんなことないです。あの、よかったらこれの作り方教えてもらえませんか?」
「かまわないよ、味噌汁の作り方くらい……すぐ覚えられるよ」
「よかった。奥様がお元気だった間に教わっておけばよかったんですけど……急だったから……。坊ちゃん、これで白夜も奥様と同じに、坊ちゃんに食事の支度して差し上げられるようになりますよ!」
嬉しそうに言った白夜に、鳥斗はうん、と頷いて答えたのだが、突然箸を置くと立ち上がった。
「ごめん。ちょっと……すみません。すぐ戻ります」
言いながら台所を出て行く。
「坊ちゃん!?」
白夜が慌てる。
「しまった……つい、奥様を思い出すようなことを……」
後を追おうとした白夜を制し、龍之が立ち上がった。
「白夜、待って。俺に行かせて……」
廊下へ出て見回すと、鳥斗は庭に面した縁側の端に座り込み、抱えた膝に顔を埋めていた。
「――大丈夫か?」
龍之が近付いて声をかけると鳥斗は顔を上げたが、目が赤い。
「はい。大丈夫です……」
そう答える声は微かに震えている。龍之も、鳥斗の隣に胡坐を掻いて座り込んだ。
「まあ、なんだ……。元気出せや」
龍之は言ったが――ありきたりだなあ、と感じた。他にもっと――言ってやるべき言葉がある気がするのに――
庭に目をやりながら鳥斗が詫びた。
「……はい。ごめんなさい」
「謝る事ないよ」
「でも、僕位の年になったら……独り立ちしなきゃならないのに……。未だに母さんや父さんの事思い出すと駄目なんです。だから情けなくて」
「お前位の年って……鳥斗お前さ、人間で言ったらお前の年は、まだまだまだまだ親に甘えてていい年なんだぞ?ほんの子供だ」
「そうなんですか……?」
「ああそうだよ。人が一人前になるには……二十年、いや、ヘタするともっとかかるんだから。お前なんかそのまだ半分だろ」
「ほんとに……?二十年……?」
「うん。だからお前が親の事が忘れられなくて悲しいのはな、当たり前なんだ」
「当たり前……。でも、里じゃ僕みたいなのはバカにされて……」
「バカにさせときゃいいじゃんか。あのな、誰だって、大事な人間に逝かれちまったら……幾つになったって悲しいもんなんだぞ」
鳥斗は龍之の顔を見た。龍之も鳥斗を見返しながら――心の中で呟いた。――そうだ。悲しい。
その時突然――姉にはもう二度と……会えないんだと実感した。とっくにあきらめていたはずなのに――俺は気持ちの奥底では、姉は死んだと認めることができていなかったんだ。でも……姉さんは……もう……
「――叔父さんだって悲しい。そうだ鳥斗。お前の母さんがいなくなって……叔父さんだって……悲しいんだ」
龍之の目に涙が溢れ、頬を伝って落ちた。鳥斗は目を見開いてそれを見つめている。
「見ろよ俺なんか……今年35歳だぜ?でもみっともないからって泣くの我慢したりしないぞ?だってこんなに……悲しいんだから。大事な人に会えなくなったら……悲しいのが当たり前だ。それが人間だ。だからな鳥斗、泣いていいんだ。お前だって……思う存分泣いて……」
突然鳥斗が龍之にしがみつき――声を上げて泣き出した。龍之は鳥斗の身体をしっかり抱きしめ――一緒に涙を流し続けた。
暫くして鳥斗が泣き止んでいるのに気付き、龍之は腕の中に視線を落とした。鳥斗はじっと――龍之に抱かれたままでいる。その髪をそっと撫でてやると、鳥斗は顔を上げ、龍之を見て、泣きはらした目で恥ずかしそうに微笑んだ。
やっぱりアネキにそっくりだなあ、と龍之は思った。いくら奇妙でも、この子がみずほの子なのは確実だ。こうして抱いてると、なぜだか――俺と血が繋がってるっていうのがわかる。どうしてそう感じるのかはわからないけど。えい、なんでもいいや、こいつは間違いなく俺の――甥っ子だ。
鳥斗が呟く。
「叔父さん……母さんが言ってた通りの人だった……」
「姉貴が?なんて?」
「叔父さんは……すごく楽しくて優しい人だって。一緒にいると、元気になれる人だって」
「ええ?そうかなあ」
「はい。あと、お話を作るのがとても上手なんだ、って。母さん叔父さんが作ったお話が大好きだったんだって」
「姉貴が……そんなこと……」
「だから……もし叔父さんに会えたら……そのお話教えて欲しいってずうっと思ってました」
「お、お話と言っても俺のお話は……やや大人向きで……」
龍之がうろたえて言うのを鳥斗は不思議そうな顔で聞いていた。
「ええっとだから……俺のお話は、鳥斗がもう少し大きくなったら……ん?んんん?今日何日だ!?」
「え?」
「やべえ!締め切り忘れてた……!鳥斗、ほら、白夜が心配してるから、早いとこ……飯食っちまおう!」
龍之は鳥斗の手を引いて立ち上がり、あわてて台所へと廊下を駆け出した。
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