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第8話

喫茶店のテーブルで龍之は桜子と向かい合って座っていた。桜子は足を組み、黙ったまま煙草をスパスパ吸っている。 「……禁煙……してるんじゃなかったのかよ……?」 龍之は恐る恐る訊いた。 なんとか〆切分を書き終えて出版社に納めたあと、龍之はその足で桜子の働く会社に寄った。電話に出てもらえなかったので仕方なく直接つかまえに来たのだ。しかし終業時間まで待たされた。 「……だれのせいでまた吸いたくなったと思ってんのよ」 桜子は、灰皿に短くなった煙草を投げ入れ、箱からもう一本を取り出す。 「俺のせい……です」 龍之はうなだれて答えた。 「そりゃあなたが女好きなのは知ってるわ。私と付き合い出したときも他に女いたしね。だけど私の部屋で……私も使ってるベッドよ?どういうつもりなのよ?」 「いや未遂ですから……」 「いまさらそんなの関係ないわよ!あの後私、気分悪くてシーツから何から全部取り替えたんだからね!」 「替えのシーツしまってあった場所、わかった……?」 家事の類は主に、家にいる龍之がやっていた。 「そのくらいわかるわよッ!」 火をつけようとしていた煙草を龍之に投げつけ、桜子は言い返した。実際は暫く探し回らねばならなかったのだが。 「初めてじゃないんでしょ、うちに女連れ込んだの」 答える代わり龍之はテーブルに両手をつき、頭を下げた。 「ほんの出来心だから……もうしませんから!」 桜子は溜め息をつく。 「浮気はまあ……覚悟してたわよ。私も忙しいから、夜はそうそうつきあえないし。それに商売柄、あなたもいろんな女のデータが必要でしょうしね」 「デ、データって……」 「肝心のそういうシーンがワンパターンじゃ読者にあきられちゃうじゃない。……だけど一線は引いておいて欲しかったわ」 「一線……?」 「私と他の女とを……区別してて欲しかったってこと。そりゃ入籍もしてないし?こんなこと言う権利は私にはないっていうのはわかってる」 「えっ……」 入籍?意外な言葉が桜子の口から出たので龍之は驚いた。彼女は今まで一度も、龍之に向かって結婚をほのめかしたことはなかったのだ。 「あなたに家賃を負担させてなかったのは、あなたの立場を弱くさせようとしてっていうんじゃないわ。あそこは私の縄張りだって言う主張のつもりだったの」 「縄張り……?」 「外であなたが何しようが仕方がないと思ってたわ。外であれば、ね。でも私の縄張りにいていい雌は……私一人だけなの。でもまあ……そう思ってたのは私だけ。あなたにとってあそこは……タダで利用できる便利な場所にすぎなかったってことよね」 桜子は立ち上がった。 「もう行くわ。仕事残ってるから。……あなた今どこにいるの?」 「満ちるのとこ……」 「え、宮司さんの?……他に泊めてくれる女の一人ぐらい、いないの?」 「いないよ」 鳥斗たちの事がなく、自分一人であれば実はいないこともなかったが、龍之はそう答えた。 「桜ちゃん」 行こうとする桜子に龍之は声をかけた。 「桜ちゃん、部屋に連れ込んだりして……悪かった。でも俺、桜ちゃんは他の遊び相手の子とは……違うと思ってる」 桜子は龍之の顔を見たが、何も答えず微かに笑ってテーブルの端の伝票を取り上げると、席を離れた。 彼女の後姿に向かって龍之は言った。 「当分満ちるのとこにいるから……連絡するから!」 「話し合いは……うまくいきませんでしたか」 満ちるは縁側で、帰ってきた龍之に茶を入れてやりながら言った。 「いや、まだあきらめてないよ、俺は」 龍之が答える。 「帰りの電車の中でしみじみ思ったけど……いい女だ、あいつは。ここで逃したらもったいない」 「浮気させてくれるからですか?」 「違うってば!やっぱなんか……他の子達とは違ったな、と思ってさ。もしあいつが許してくれたらもう浮気はしない……多分」 「多分じゃ駄目でしょ」 満ちるは笑った。 今晩も月が出ている。 「そんなわけでさあ……当分ここでやっかいになってても……いいかなあ……」 「かまいませんよ。どうせ一人だし」 「一人じゃないだろ、あのブラコンが……うーん、あいつ承知してくれるかな」 「ブラコン?」 「人貴だよ。あいつはなあ……怒るだろうなあ……」 龍之が苦笑していると、人貴が通りかかった。風呂上りらしくタオルを肩に引っ掛けている。 「誰が怒るって?」 満ちるが訊ねた。 「鳥斗君たちに風呂勧めてくれました?」 「うん、仲良く二人で一緒に入ってるよ。まったくよくやるぜ。主従ごっこもけっこう徹底してるよな」 「やっぱお前はインチキと思ってるんだ?」 「当たり前じゃん。オッサンまさか、あんな作り話本気にしてるの?」 「だって本気にしなきゃ辻褄が合わないんだもの。鳥斗が姉貴の子だってのは、間違いないと思うもん」 「僕も彼らが嘘ついてるとは思いません」 「なんだよ兄さんまで……毒気にあてられちゃって……」 「あのさあ人貴。俺ら当分ここで世話んなることになったから。よろしくね」 龍之が呑気に言った。 「なんだってえー?当分って……ふざけんな!」 人貴が龍之の首を羽交い絞めにしていると、背後に白夜が現れた。風呂から出たばかりらしく腰をバスタオルで覆っただけの姿で、長い髪の先からはまだ雫が滴っている。 「あ!オイ!ちゃんと拭いて来いよ!床が濡れるだろ!」 龍之をつかまえたままの人貴が文句を言ったが、白夜は意に介さない様子で、その姿のまま開けてあった縁側のガラス戸から庭に出て行ってしまった。 「白……?」 満ちるが言いかけると、いきなり白夜が鋭い声で言った。 「出て行け!ここはお前の来る所ではない筈だ!」 縁側から、三人がぽかんと見ていると、白夜の向かい……植え込みの陰の暗がりから、がさりとなにか、真っ黒で大きなものが立ち上がった。 ――鳥?昨夜の? 人貴は一瞬そう思った。が、よく見ると――月明かりに照らされたそれは、白夜と同じように背の高い、黒ずくめの若い男――のようだった。だがしかし――シルエットが何かいびつだ。 「(けが)らわしい。出て行け!自分の(ねぐら)へ戻れ!」 白夜が吐き捨てるように言う。向かい合ったその男は、いきなり頭上の木の枝へ身軽くひょいと飛び乗った。両手は全く使わない。足先で……さほど太くはない枝をがっしりと掴み、不自然に身をかがめた格好で、器用にバランスをとっている。その様はまるで、巨大な(からす)のようだった。 皆が見ている前で、男は今度は身を翻して枝から生垣の向こうへ飛び降り、姿が見えなくなった。 白夜がこちらへ戻ってくる。まだ首にしがみついていた人貴の腕をほどきながら、龍之は訊いた。 「おい白夜……誰……というか、なんだあれ?」 「禽鳥()いの――黒羽(くろば)と呼ばれている奴です。坊ちゃんをつけ狙ってるんだ――」 三人は顔を見合わせた。――禽鳥喰い?白夜は表情を硬くしたまま言う。 「あいつ――中途半端にしか擬態もできないくせに、私たちを追って山を下りてくるなんて――見たでしょう?顔はどうやら人間らしく作っていたけど、身体ときたら……」 龍之がぼんやりと呟いた。 「暗くてよくはわからなかったけど……確かにあの足は……人間の物には見えなかったわな。こう……指が前後にぱかっと開いてさ。鳥……の中でも猛禽類とか……そういう感じだった」 「びっくりショーはもういいよぅ!コブどころかあんな得体が知れないもんまでくっつけてきやがって……兄貴になんかあったら、オッサンに責任取ってもらうからな!」 人貴はまた龍之の首を絞めながらわめいた。 白夜が言う。 「私がいればあいつもここの方たちに手を出しはしないはずです。禽鳥喰いと言っても連中は、我々にはかないませんから。だから坊ちゃんを付け狙うのです。坊ちゃんには飛ぶ羽も……戦うための蹴爪もありませんから……」 白夜に、黒羽のことは鳥斗には黙っていてくれと頼まれた。不安がらせたくないのだろうと思い三人は頷いた。 白夜はああ言っていたが、なんとなく気味が悪く、龍之たちは手分けして広い家の戸締りを確認して回った。 三人が居間に戻ってくると、そこで床に座り込んだ風呂上りの鳥斗が白夜に髪を()いて貰っている。人貴はそれを見てからかってやろうかと考えたが、白夜の鳥斗を扱う手つきが――あまりにも大切そうなので止め、黙ってソファに腰掛けた。満ちるが訊ねる。 「そういえば――あなたたち、着替えが無いんじゃないですか?」 「着替え?ああ……」 白夜は自分の着ているものを見下ろした。白い開襟シャツに黒のズボンというひどく簡素な身なりだ。鳥斗も似たようなものだった。 「汚れたら……洗って着るので平気です」 鳥斗が言う。 「乾かす間困るでしょう。人貴、白夜になんか貸してやって。鳥斗君には……とりあえず僕のでいいですね」 「ええ~?俺の?貸すのお?」 「僕のじゃ白夜には丈が足りないから仕方ないだろ。ほら」 兄に促されて人貴は渋々立ち上がった。そこへ龍之が言う。 「人貴、俺にも貸して。俺も無いんだよねえ、着替え」 「調子に乗るな!オッサンは彼女に頭下げてとってこい!」 人貴は自分の部屋で、サイズに融通が利きそうな物を適当にいくつか見繕いながら内心ぶつくさ言った。あーあもう……兄さんてば、こんなに親切にしてやったらますます居付かれるじゃねえか……人が好いんだから全く……。だがふいに、ひょっとして兄は……ここに一人でいるのが寂しいのではないだろうかという考えが浮かんだ。 満ちるは人貴の就職が決まった時、こんな中途半端に田舎な所に無理して住んでいなくていいからと言って入寮を勧めた。人貴自身も、ここにいれば兄に食事の世話などで甘えてしまうことがわかっていたので、悪いだろうと考えて家を出ることにしたのだったが……実は兄は……自分を都会で自由にさせてやろうと考えたのではないだろうか。 人貴自身も、東京での一人暮らしに憧れない事はなかった。向こうにいれば実際楽しい。賑やかで、近くにいくらでも面白い場所があるし、たとえ外でひどく酔っ払っても簡単に寮まで帰れるから、友人たちと時間を気にせず飲み歩く事ができる。だが――人貴にとって――一番大切なのは―― やっぱり寮を出て、こっちに帰ってこよう。仕事へはここからだって通えないことはないんだから。 突然そう決心して人貴は、白夜に貸す衣類を引っ掴んで勢いよく立ち上がり、居間に戻った。

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