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第9話

人貴が居間に戻ると、ちょうど満ちるが鳥斗の着替えを手伝っているところだった。着たきりだった服を脱がせてパジャマを貸してやっている。満ちるも華奢な体格だが鳥斗は加えて小柄なので、丈が長すぎた袖と裾とを、満ちるに、小さな子がされるように手を添えて折ってもらっていた。それを見て――人貴はなんだかひどく苛立った。 「白夜、ほら。とりあえずこんなもんで足りんだろ」 持っていた衣類を白夜に投げ渡し、人貴は自分の部屋に引き返した。敷きっ放しだった布団にどさりと仰向けになる。 古びた天井を眺めながら考えた――これは嫉妬だ。俺はあのチビに、兄をとられたような気がして嫉妬してる。馬鹿馬鹿しいのは承知していた。でも兄が――あんな風に世話を焼く相手は――今迄俺一人だけだったのに―― 世間一般の兄弟と比べ、自分が兄を慕う気持ちは確かに強すぎる、と人貴は自覚していた。だがそれには理由があるのだ―― 人貴たち兄弟の母は――人貴が5歳くらいの頃、当時同居していた義母――人貴たちの祖母だが、彼女とうまくいかず、家を飛び出し、それ以来戻ってきていなかった。 家出したとき母は……満ちるだけを連れて行った。 母に置いて行かれたのがわかった時、お母さんはきっと僕が嫌いだったんだ、そう考えて人貴は深く傷ついた。だがその後数年して、兄だけが突然、母の元から、このうちへ帰ってきたのだ。 幼すぎて言葉では表せなかったが、人貴は傷つくと同時に、自分を捨てた母を強く憎んでいた。もし兄が帰って来ずあのまま――厳格だった父と、口煩い祖母とだけで暮らしていたら、自分はおそらくぐれて――真っ当ではいられなかっただろう。 母といた間どのような生活をしていたのか、兄は何も語らなかった。だが楽ではなかったのだろうという事は容易に想像が付いた。元々満ちるは丈夫ではなかったのに、帰って来た時は心身ともに更に良い状態ではなく、普通に生活できるようになるまで暫く療養の必要があったのを人貴は覚えている。 その頃の兄は、自室の布団にいつも横になっていたが、学校から戻って来た人貴が覗きに行くと眠っていても必ず目を覚まし、起きあがって相手をしてくれた。人貴が父や祖母に、満ちるを疲れさせては駄目だと叱られてしまうと、兄はいつも庇ってくれた。離れていた間、人貴のことは忘れたことが無い、いつも会いたくてたまらなかった、今こうして一緒にいられるのが嬉しいんだ、と言って。 そうやって、いなくなった母の分まで満ちるが人貴を甘やかし、慈しんでくれたため――人貴の母への憎しみは、いつからか兄に対する愛情へと変化し、浄化されていった。兄は自分を――母に愛されなかったみじめな子供だ、という思いから救ってくれたのだ。 だから俺は――兄さんが大事なんだ、なによりも――なのに兄さんは、肉親でもないあの鳥斗を、どうしてあんな愛しそうな目で見るんだろう。たしかにもともと世話好きな人ではあるけど……ただ同情してるだけなんだろうか―― そんなことをつらつらと考えているうち、自分で自分のつまらない感情にうんざりしてきて人貴は布団を被った。まったく――小さな子供じゃないんだから―― でもとにかく、あの変な――黒なんとかいう得体の知れない奴のこともあるし……龍之はちゃっかりしてるから、ほっといたら家事を何もかも兄さんに押し付けて居候を決め込むだろう。心配なのには変わらない。やっぱり会社へはここから通うぞ。 そうだ、心配だから――俺が監視して……兄さんを守ってやらなくちゃ…… 翌日、有給休暇も終わってしまったので人貴は仕方なく出勤した。 夕方、寮に置いてあった荷物を知り合いに借りた軽トラックに積んで家に戻った。すると満ちるがそれを見て唖然としている。 「なに……人貴、なにやってんだ?どうしたんだこの荷物?」 「帰ってきた。明日っから、ここから会社通うから」 「ええ!?だって……遠いじゃないか……」 「別に?この位通勤に時間かけて通ってる人会社にゃいくらでもいるよ?交通費だって出るしさ」 「だってそういう人は……家族持ちだろう……?お前、せっかく身軽なのに……」 人貴は笑った。 「俺だって家族持ちだもの。寮も引き払うって言って来ちゃった。あー、これで休日まで仕事に駆り出されたりしないですむわ。やっぱ……家はいいなあ!」

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