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第12話

仕事場代わりにさせてもらっている部屋でキーボードを叩いていた龍之は、ふと何か物音を聞いたような気がして手を止めた。今は真夜中を少しすぎた所で――みな寝静まっている。普段なら仕事中は少々の音など気にも留めないのだが、あの――禽鳥喰いの事がある。一応確かめてこようと立ち上がった。 音がした方向へ暗い廊下を進むと、洗面所の扉が細く開いていて、そこから明かりが漏れていた。誰かが手洗いに起きただけか、そう思って来た方へ戻ろうとすると――カン、という高い音が響いた――おそらく、プラスチックのカップか何かが落下した音だろう。 「誰だ?どうかしたか?」 龍之は声をかけながら扉を開けた。すると洗面台の前に――満ちるがうずくまっている。その前にカップが転がって、中に入っていたらしい水が少々こぼれ出ていた。 「満ちる!大丈夫か?発作か?」 龍之は駆け寄って満ちるの肩に手をかけた。彼の顔は――真っ青だ。 「大丈夫――です」 立ち上がろうとする満ちるを助け起こし、肩を貸して龍之は彼を寝室へ連れて行った。 布団の上へうずくまるように座りこんだ満ちるはまだ、少し肩で息をしている。 「どうしたらいい?人貴、起こそうか?」 「いえ、人貴には――」 掠れた声だった。 「大した発作じゃ――薬飲んだから――もう大丈夫、じき落ち着きます」 青褪めた顔で微かに微笑む。 「寝つきが悪いと……滅入ってきて駄目なんですよ……。龍之さん、良ければここで仕事してくれませんか?誰かいる方が気が落ち着くんですが」 「ああ。ちょっと待って」 龍之はPCを取りに戻った。満ちるは病院で心身症と言われているのだが、それに起因して狭心症の発作を起こすことがある。東京にいた時分、龍之の部屋に来ていたときやはり発作を起こし、慌てた龍之が救急車を呼んだ事もあった。だがそんな酷かったのは一度きりだったし、今は殆ど良くなったと聞いていた。しかしまだ油断は出来ないのかもしれない。これから満ちるが必要とするなら、いつも彼の部屋で仕事をしよう―― 「何か飲み物でも持ってこようか?」 PCを持ち込みながら龍之が訊くと、布団に入っていた満ちるはいいえと首を振った。 「音、うるさくないか?」 「平気です。キーボード叩く音聞くの……好きなんです」 「そう……」 文机の上のデスクライトを点けて仕事を進め、暫くしてから龍之は手を止めると伸びをした。すると寝ているかと思った満ちるが言う。 「煙草欲しいんじゃないですか?うち別に、禁煙じゃないですよ」 「煙草は止めた」 「そうだったんですか。どうりで……吸ってないなあと思ってました。どうしてまた?あんなにヘビースモーカーだったのに」 「……姉貴が夢に出てきた話したろ?あの後俺さ、願掛けしたんだよ」 「願掛け……?」 「あの時……もう姉貴にゃ会えないだろうな、っていう予感はしたんだけど、もしかしたら、とも思ったんだ。もしかして俺が煙草止めたら――元気な姿を見せてくれるんじゃないか、って。まあ煙草止めたくらいじゃ駄目だったなあ。酒も止めたら良かったかな……」 そう言って龍之は小さく笑った。 「可笑しいだろ、信心深くも無い俺が願掛けなんて……。でもおかげで禁煙できたから節約にはなったわな……あ、これ人貴に言うなよ、笑われるから」 満ちるは天井を見ながら言った。 「あいつは……笑ったりしないですよ。龍之さんのそういう気持ちを理解できないような奴じゃないですから――でも、もし万が一笑ったりしたら、僕が張り飛ばします」 「はは、厳しいこと言うなあ……弟可愛くて仕方が無いくせに。……あのさ、満ちる」 「はい」 「答えたくなかったらいいんだけど……どうして……書くのを止めたんだ?」 暫く間があいた後、満ちるが口を開いた。 「呪いがとけたから、かな」 「呪い?」 「僕はね、呪われてたんです。二十五歳まで。馬鹿馬鹿しい話なんですけど」 「どういうこと……?」 「母さんが家出した理由……あれね、祖母との不仲もあったんですが……僕を助ける……つもりだったんです。僕は生まれつき身体が弱くて入退院を繰り返してたんですが、母はそれを自分のせいだと気に病んでいました。そうして何か……宗教的な考えにとり憑かれたんです。父と祖母には黙って、勝手に僕を連れて家を出て、治癒祈願をするためにある団体に入りました」 龍之は黙って、満ちるの顔を見ながら聞いていた。 「――そこの指導者のような人は、僕は呪われているから、それを解かなければ厄年の二十五歳で死ぬだろうと言っていました。祈願のためと称して他の人達と共に儀式や何か、色々なことをさせられたんですが……大人達が恍惚とした様子で奇矯な振る舞いをするのが、子供の僕には異様に見えてものすごく恐ろしかった。やがて僕は、一人でそこを抜け出して家へ逃げ帰りました。父と祖母には、母の居場所はわからないと言って話しませんでした。居場所を知れば父は、母を連れ戻しに行ったでしょう。でも母は、そのころはすっかり別人のようになっていたから――父にも祖母にも――特に人貴に、絶対母のあの姿を見せたくなかったんです」 「二十五歳はとっくに無事過ぎたじゃないか。インチキな呪いだな……」 満ちるは小さく笑った。 「ですよねえ。ほんと、馬鹿馬鹿しい。だけど二十五になるまでは、信じてたんですよ……このまま……なにも成し遂げられずにただ死ぬのは嫌だと……思っていました。だけど学校も休んでばかりでまともに行けず、身体が丈夫なわけでもない僕が……成し遂げると言っても何をしたらいいのか……それで書く事を選んだんです」 「そうだったんだ……」 「あとは闇雲に書きました。幸い認めてくれる人がいて、中のいくつかは活字になった。東京へも出られて、龍之さんとも出会えたし……みずほさんとも……」 言いながら満ちるは、みずほの顔を思い浮かべた。 「実はこの話、みずほさんにはした事があります」 「姉貴に?ほんと?」 「はい。そしたらみずほさんは、大丈夫、僕は死んだりしない、って言いました。自分では――ひ弱でどうしようもないと思っていた僕のことを、彼女は、あなたはこんなに強いじゃない、と言ってくれた。彼女の言う強さとは、体力的なものをさしていたんじゃなかったと思います。みずほさんは女性だから、僕より小さいし、力だって無い。でも彼女からは……すごく強さを感じて……そういう種類の強さというのがあるんだと教えてもらったんです。そのおかげで発作も減って――僕は……本当に救われた」 「姉貴は……うん、確かに、強かったよな。俺もずいぶん……助けられてたもの」 みずほの強さとは……相手の心に深く関わる事を恐れない、そういうことではなかったかと龍之は思った。誰かに対して、大丈夫だ、と励ますのは簡単だ。だがみずほは、自分が発するそういった言葉に対して常に責任を負っていた、と思う。口先だけの慰めは……言わない女性だった。だから龍之は、みずほが、あなたには書ける、と言ってくれさえすれば……自信を持って筆を取る事ができたのだ。 「母があんな風になったこと……二十五で死ぬといわれた事……みずほさんは僕が怯えていた事全てを、遠くへ追いやる手助けをしてくれた。そのうち彼女が言ったとおり、二十五歳の年は無事に過ぎました。それだから僕はもう――書く必要がなくなったんです」 「そうだったんだ……でも……なにか惜しい気がするなあ……俺は満ちるの書くもの……好きだったから」 「そう言ってくれる人ができただけで満足です。書いた甲斐がありました」 満ちるは笑った。 「でも今は……他の誰かが書いた物を読むほうがずっと楽しいんです。龍之さんの連載もね」 「そうか……じゃ、もうひと踏ん張りしとくかな」 また仕事に戻ってキーボードを叩き始めた龍之の隣で、やがて満ちるは眠りに落ち、柔らかな寝息を立て始めた。

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