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第13話
人貴が残業になってしまったので、鳥斗は一人で家路に着いた。通勤もかなり慣れて人貴がいなくても迷うことは無い。が、一人で長い間だまって吊革を握っているのはつまらなかった。人貴が一緒でも鳥斗は口下手だし話が弾むということも無いのだが、傍らに彼がいるだけで――混雑した電車の中でも安心して気持ちが落ち着く。最初はあんなに――彼が怖かったのに。鳥斗は不思議だった。
自分に対してけして優しいとは言えなかった人貴の態度――そのせいで彼を恐ろしく思ったのだが――鳥斗が今まで出会った相手は殆ど皆、いつも鳥斗を明らかに自分より幼く弱い――哀れな存在と見なした。実際そうだから仕方が無いのだが――。そして結局、鳥斗を庇護するか馬鹿にするかのどちらかになる。だが人貴はそうはせず、自分の感情をそのままぶつけてきた。
人貴は初めて、自分を対等に見てくれたひとだったのかもしれない、だから怖いにもかかわらず――彼に惹かれたんだ、と鳥斗は思った。
以前、人貴が満ちるともめる原因は、自分なのかもしれないと感じたことがある。そのことは人貴に申し訳なく思ったのに、同時に何故か――自分が人貴の感情に影響を与えられるくらいには存在を意識されているのかと思い――そのことが不思議に鳥斗の心を満たした。
だが実際にはそうではなかったようだ――鳥斗が人貴に自分のせいなのかと訊ねた時、彼は違う、と答えたから。その時鳥斗は、やはり自分は人貴にとって、取るに足らない――いてもいなくても同じようなものなんだと分かって少し寂しくなった。
迷惑かけても存在を認めてもらいたかったなんて――変なの。なんでそんな風に思ったんだろう――
人貴は今夜は遅くなるのだろうか。バスに揺られながら夜空を見上げる。この路線のバスはあまり遅くまでは走っていない。それに間に合うように、帰ってこられるだろうか――
バスが着いた。降りたのは鳥斗一人だった。この辺りは田んぼや畑が多くて人家は少なく、夜になると明かりも殆どない。だが夜目が利く鳥斗には気にならなかった。
暫く家の方向へ歩き、ふと立ち止まった。鳥斗はくるりと向きを変えると、またバス停に向かって歩き出した。
人貴がバス停に降り立つと――待合所のベンチに鳥斗がいたので驚いた。
「あれっ!?鳥斗お前、なにやってんだ?とっくに帰ったと思ったのに――」
「……なんか……人貴さんを待ってたくて」
「そうなの?そりゃどうも。ハチ公みたいなやつだなあ」
いつ帰るかわからない人貴を待っていたりしたら呆れられるかなと鳥斗は思っていたのだが、そんなことはなかった。人貴は人貴で、バス停に鳥斗の姿を見たとき、なぜだか心が少し――暖まるような感じを覚えていた。
歩き出しながら鳥斗が訊ねた。
「はちこうってなんですか?」
「ありゃ、知らねえ?銅像になってる犬だよ。お話担当のオッサンの方がそういう説明は上手いから、帰ったら教えてもらいな。……何分位待ってたんだ?」
「30分位……人貴さん、早かったですね。残業もっと長いかと思った」
「なんか取引先のシステムがダウンしちゃったとかでさ、いても仕事できないから、あきらめて帰ってきた。……お前も腹減ったろ。夕飯なにかなあ?」
大股の人貴はいつものように鳥斗のやや前を行く。そのスーツの背中を眺めて、鳥斗はなんだか嬉しくなった。なんでだろう。この人に、こうしてついて行くのは楽しい――
その時ふいに、暗闇の中に不穏なものを感じて鳥斗は耳をそばだてた。
「人貴さん――」
後ろから声をかけ、立ち止まった人貴を追い越した。伸び上がって辺りを見回す。
「どうした?」
人貴も何か――いやな予感がして低い声で言った。暗くて人貴には何も見えなかったのだが、鳥斗の目は――傍らの雑木林の中に何かを捕らえたらしい。その視線がまっすぐ一点を凝視している。
「黒羽――」
鳥斗が呟いた。
黒羽だって?鳥斗を付け狙ってるという――禽鳥喰いだ。そう思い出して人貴は鳥斗の肩に手をかけ、自分の方へ引き寄せた。林の中は真っ暗闇で、相変わらず何も見えなかったのだが――いい加減に当たりを付けて睨み、怒鳴った。
「おいこら!こいつに手出ししたら――俺が黙っちゃいないぞ!」
鳥斗は人貴のその言葉を少し意外に思い、彼の横顔を見上げた。
その直後、頭上に張り出していた木の枝から――がさっという音と共に目の前に何かがぶら下がったので――人貴は悲鳴を上げた。
「うわあっ!」
睨んでいた所よりもずっと近くて一瞬目の焦点が合わなかった。無意識に鳥斗を自分の身体の後ろに隠し、ようやくまともにそれが見えるようになると――眼前のものが、以前見た黒尽くめの若い男の顔と同じことに気がついた。
最初逆さまに間近で人貴を見つめていたその顔は――一瞬後にくるりと回転して上下逆になった。ようするにその顔は――もう逆さではない。だが身体はまだ上からぶら下がったままだ。顔だけが180度回るなんて――それを見た人貴は声にならない悲鳴を発して、鳥斗を庇いながら後じさった。なんなんだこいつ。気味が悪すぎる。
その人貴を、男は瞬きしない大きな目で見つめている。そのうちその顔の位置を全く変えないまま、身体が地面へばさりと降り立ち、人貴は丁度、男――のようなものと対峙する形になった。身長は同じ位だ――でも全身黒い羽毛の塊のようで――いったいどこが手やら身体やら――よくわからない。
「うう……」
こんなの相手にどうしたらいいんだ。手に持ってるのは書類鞄だけで、これで叩いた所で大したダメージは与えられないだろう。武器なんか何もない――鳥斗を背にして数歩下がると、相手は人貴の顔を見つめたままやや首をかしげ――その動きが、いかにも動物的だ――こちらに向かって一歩近付いた。
人とは逆の向きに折れ曲がる膝関節と、地面から離れた途端一瞬窄まって地に付いた所でまた広がる足指――それは形も動きも丁度――大型の鳥にそっくりだった。
「ちくしょう……」
こうなったら、素手でだってやってやる。急所はどこだか見当つかないが――人貴が覚悟を決めたところで、男が視線を横に流して目を光らせ、耳障りな声で呟いた。
「ハクヤ……」
「白夜!」
今度は鳥斗の声だった。脇から何か――銀白色の閃光のようなものが走って、人貴の目の前の男をなぎ倒した。吹き飛んだ男の体は道の脇の、段差がある田んぼに落下して見えなくなった。
「坊ちゃん!」
いつの間にか二人のすぐ側にいた白夜が叫んで鳥斗に駆け寄る。鳥斗を白夜に預け、人貴が暗い田んぼを覗き込むと――そこにはもう何もいなかった――
「ああ……全く……!」
人貴は風呂に入って髪をごしごし洗いながら唸っていた。
あの後は何事もなかったが、白夜が来てくれなかったら、どうなっていたか――。おっかなくて腰が抜けそうだった。あれじゃとても――鳥斗を護ってやれやしないじゃないか。自分の不甲斐なさに苛立ちながら、ふと人貴は気がついた。なんで俺、こんなにムキになってるんだ?鳥斗を護るのは白夜の仕事じゃねえか!どうして俺がこんなみじめな気分にならなきゃいけないんだよ?
あんなチビ――うっとうしいと思ってたはずなのに。いやあいつ自体は悪い子じゃない。あいつが兄貴に可愛がられてるのが面白くなくて……くだらない嫉妬心を抱いてただけだ……。
でも今ではもう――腹も立たない。
湯船に浸かりながら長く息を吐き、水滴の付いた天井を仰いだ。湯気がゆっくりと立ちのぼっていく。
俺もやっと――兄貴離れできたってことかなあ――
そして人貴の心の中にはなぜか、今夜バスを降りたとき最初に目に映った、じっと自分を待っていたいじらしげな鳥斗の姿が……まだ鮮やかに残っていた――
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