朝、顔を洗いに起きた鳥斗を見て、白夜は叫び声を上げた。 「坊ちゃん！ぼ、ぼっちゃ……おめでとうございます！」 「え？」 鳥斗がぽかんとした所に、満ちるも起きてきた。 「おはよう。ん？あれ？鳥斗くん……美容院でも行ったんですか？」 「びよ……？」 なんのことだかよく分からず、鳥斗は脇にあった洗面所の鏡を見――悲鳴を上げた。 「えっ！？うわっ！なに！？」 鏡に映った自分の姿――顔は別に変わらない。だが、髪の色が。もともとは焦茶色だったのが、毛先へ向かって橙色(とうしょく)へと変化して明るく薄くなり、根元からは紅(べに)色が数箇所、筆で刷(は)いたように混ざっていた。 「なに！？なにこれ……！？」 「婚衣(こんい)ですよう……！繁殖期に入ったんです……！」 「え？ということは……」 訊ねる満ちるに、白夜は頷いた。 「そうです、坊ちゃん……名実ともに、成禽鳥(おとな)になったんです……！」 朝食の席で、白夜はニコニコしていたが、鳥斗はタオルを頭から被って俯いていた。 「やだなあ坊ちゃん……隠さなくてもいいじゃないですか……」 「いやだよこんなの……」 鳥斗が情けない風に言う。 「なんで急にこんなことになるの……？」 「それは子供を作るのに、坊ちゃんの身体が十分成熟してるって言う目印じゃないですか……。ああ里にいられなかったのが残念だ。鳥斗坊ちゃんにつがうのにふさわしい最高の娘を選ばなきゃならないのに……！」 「里は追い出されたじゃない……僕とつがう相手なんかいないよ」 「そんなことありません！こんな美しい婚衣に心を奪われない娘はおりません！」 言い張る白夜に向かって鳥斗は溜め息をついた。 「今日……もう僕仕事行く……人貴さんに先に行ったって伝えておいて……」 ろくに朝食もとらず台所を出た鳥斗を、白夜は慌てて追いかけた。 「ちょ、ちょっと待って……！坊ちゃん、仕事なんか行っちゃ駄目ですよ！」 「なんで？」 「だ、だって……お身体なにか調子おかしくありませんか……！？」 「別に何も……変わらないけど？」 鳥斗はむっつりと答えた。 「でも……けどでも、そんなはずは……」 「どうなるって言うのさ？」 「いやそのええと……ほんとに？本当に何も感じませんか？いつもと同じ？」 「同じだよ」 白夜は腕を組んで考え込んでいる。 「おかしいなあ……やっぱり繁殖期の娘が近くにいないと……呼応しなくて駄目なのかなあ……」 「……とにかく、もう行くから」 もうとっくに寒い季節ではないのに、鳥斗はパーカーを引っ張り出してフードをすっぽり被り、不本意に派手な色になってしまった頭髪を隠してから靴を履いた。白夜が心配そうに念を押す。 「ほんとに……ちょっとでも何かいつもと気分が違ったら、すぐにお帰り下さいよ……」 「わかってるよ……！」 怒ったように言い放って出て行った鳥斗を、玄関で見送った白夜は呟いた。 「やっぱり坊ちゃん……あんなに苛々して……いつもと同じなわけないじゃないか……」 家を出て鳥斗は足早にバス停に向かった。人貴と顔を合わせたくなかった。こんなみっともない色になってしまった髪、絶対に彼には見せたくない。そうだ会社についたらハサミを借りて短く切り落としてしまえばいいんだ。 会社では制服のキャップを深く被って髪を隠し、いつも通り昼休みまでの作業をこなした。皆が昼食を食べに行った時に鳥斗は事務所からハサミを借りて、あまり利用する人がいない印象のある、会議室のならぶ階の男子トイレへ向かった。 鏡の前でキャップを取ると、隠していた髪がふわりと広がった――なんだか今朝より色が鮮やかになったような気がする。青ざめて、やや顔を引き攣らせながら鳥斗はハサミを手に取った。 すると背後のドアが突然開いた。鳥斗がぎょっとして振り返ると、タイミングの悪いことに――トイレに入ってきたのは人貴だった。 「ありゃっ？鳥――え？その、髪？」 よりによって人貴が来るとは。一番これを見られたくない相手だったのに。慌てて鳥斗はキャップを被って髪を覆い隠そうとしたのだが、ハサミを持ったままだったのを忘れていて、その刃先で危うく自分の顔を傷つけそうになった。 「あぶね……！なにやってんだよ！怪我するぞ！ほら、そのハサミ……こっちよこせ」 「や……駄目です！」 近付いてきた人貴にハサミを取り上げられそうになって鳥斗は、身体を捻ってその手をかわした。その拍子にキャップが床に落ちる。 足元に落ちたキャップを拾い上げ、人貴はさらに鳥斗の側に近付いた。その目がまじまじと鳥斗の髪を見つめている。 「あの……ええと……」 鳥斗は人貴の視線から逃げるように身を縮め、手で髪を覆った。 「それ」 人貴が呟く。 「それ、見せて」 「えっ？」 驚く鳥斗の手からハサミを取り上げ洗面台の上に置くと、人貴は頭を覆っていた鳥斗の手を掴んで髪から外させた。鳥斗が動けずにいると、人貴は恐る恐るその髪に手を伸ばし、そっと触れた。 「柔らかいな……」 人貴が呟く。指先で、鳥斗の髪を数度梳き、やがて遠慮がちに、根元の方をなぞった。 「ここすごい。紅色？こんな色合い……始めて見た」 そこから鳥斗の頭を支えるように、髪の中へ手を入れる。顔をさらに鳥斗の髪に近づけて、人貴は間近で 「綺麗だ。すごく」 と呟いた。 それまでひどく情けなくて恥ずかしく、鳥斗はなんとか人貴の視線を避けようとしていたのだが――綺麗だと言われた瞬間、身体の中に何か電流のような強い衝動が走った。顔を上げ、人貴を見つめる。 鳥斗の光彩に――髪と同じ燈(とう)の色が混じって輝いていた。息を飲んで人貴がその鮮やかな色に魅入られていると、ふいに鳥斗がしがみつき人貴の唇に接吻した。人貴は一瞬竦んだようになったが、やがて目を閉じると、鳥斗の唇を深く吸い返した。 その後は二人とも、夢中で抱きあった。個室に入る判断力が残っていたのが驚きだった。その窮屈な中で二人は――人貴の電話に連絡が入って我に返るまで、互いの素肌を探り合った。 連絡は、打ち合わせの場所が会議室から会社の外へ変わったと言う内容だった。そのおかげで人貴は仕事には遅刻せずに済んだのだが、鳥斗に触れるのを中断させられたのは酷く辛かった。 二人ともその日は午後の仕事を上の空で終えた。終業後――いつものようにすぐ家路には着かず、真っ直ぐ裏路地にあるホテルを目指す。言葉を交わして打ち合わせる必要などなかった。 狭い個室では遂げることのできなかった行為を、古びたホテルのベッドの上で互いに身体を絡めて思う様行った。鳥斗はもうあの美しい婚姻色(こんいんしょく)を隠そうとはせず逆に誇示するように人貴の前で振り立て、小柄な身体からは想像できないほどの力を見せて――発情期の所以だろうが――人貴を翻弄した。 人貴は暫く夢中だったが、やがてどうにか気を取り直して鳥斗に知らせた。 「お、おい、やばいぞ、もう行かないと。終バス逃しちまう」 「……終バス……」 言われた鳥斗は意味が理解できない様子でぼんやり答え、まだ人貴の身体を貪っている。それに思わず引き込まれそうになったが、人貴はなんとか鳥斗を自身から引き剥がした。 「とにかく――とにかく帰ろう。みんな心配する」 「帰りたくない。人貴さんといたい」 あのいつもおどおどしている鳥斗に躊躇せずはっきりそう言われて、人貴はくらりとした。自分を見つめている彼の瞳には、相変わらずあのオレンジ色が輝いている。 「俺も――俺だって、鳥斗とこうしていたいけど――駄目だよ、帰らなかったらまずい。今夜は帰ろう。な？」 鳥斗の髪と目を見ていると、催眠にかかったように他の事がどうでもよくなってしまうので、必死に彼から目を逸らせて人貴はベッドから降りた。下半身――殊に腰に力が入らず、よろけて情けない状態になりながら浴室へ入り、バスタブの中でシャワー栓を捻って、溜め息をつく。 鳥斗と――チビでガキ臭いと思ってた奴となんでこんなことになっちまったんだ？どうしてあんなに――あいつの身体が欲しいと感じたんだろう 浴室の外から鳥斗の声がする 「人貴さん。入っていい？」 「わっ！駄目！入ってきちゃ駄目！俺もう出るから！」 慌ててタオルを掴んでバスタブから飛び出しながら、人貴は叫んだ。ここに裸で入って来られたら――またやりたくなっちまって、今度は完全に帰れなくなるだろう。 ドアを開け、そこにいた鳥斗を浴室に押し込みながら人貴は言った。 「ほら、お前の番！済んだらすぐ――帰るからな！」