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第5話

 その日から、涼一はあの公園に通うようになった。  平日の昼過ぎ。涼一が公園に行くと、真崎はいつもあのベンチに座っている。  何週間も前の週刊誌を読んでいることもあるし、昼飯を食べていることもある。居眠りしていることもあるし、懸賞付きのクロスワードパズルをしていることもある。いずれにしろ、真崎が座っているのは、決まって三人掛けベンチの端の方だ。だから涼一は反対側の端に座り、人一人座れるくらいのスペースを空けてゲーム機を開く。そしてゲームするふりをしながら、こっそり真崎の様子を窺って過ごすのだ。  そんな生活をしていれば、真崎以外のホームレスから顔を覚えられるようにもなる。  最初は真崎といるときに「よう」とか「元気か、坊主」などと一言二言声をかけられて終わりだったのが、次第に「毎日よく来るな」とか「最近の子供は本当にゲームが好きだねぇ」とどんどん言葉が付け足されていった。  何を話しかけられても涼一は、「あ、はい」「いいえ」と俯きながら答えることしかできなかった。  そんなある日、ベンチに真崎が座っていないことがあった。  時間はいつもと変わらない。トイレにでも行っているのだろうか。  涼一はベンチの端に行儀良く腰掛け、真崎を待つことにした。それから五分。涼一の前に現れたのは、よく声をかけてくるホームレスの一人だった。 「坊主。暇ならちっとばかし付き合えよ」  鈴木……だったと思う。自称六十代で、エラの張った大きな顔に、ぎょろっとした目が特徴的なホームレスだ。  鈴木は身長こそ低いもののガッシリした筋肉質な体をしていて、頭は綺麗に丸められている。そんな風貌だから黙っていると筋物に見えなくもないのだが、実際にはいつもニコニコしていて、気のいいおっちゃんという言葉がよく似合う。  だがホームレスに変わりはなく、ニッと笑うと、不健康に黒ずんだ歯茎と黄ばんだ歯がよく見える。 「あの……忙しくはないんですけど、真崎さんが来るかもしれないので」  やんわりと断ってみたが、人懐っこいホームレスには通じなかった。 「心配すんな。こいつを置いときゃ分かる」  そう言うと鈴木は、なぜか手に持っていた苔玉をベンチに置いた。 「あの、それは……?」 「これか? 苔玉っつぅんだよ。俺が大事に大事に育てたんだ。可愛いだろ?」  鈴木は得意げな顔で笑い、半ば強引に、涼一をテント村に引きずりこんだ。 「……なんの集まりですか」  ようやく現れた真崎が開口一番に言ったのはそれだった。右手には苔玉、左手にはコンビニの袋を提げている。  壁のように周りを囲むホームレスたちの間から真崎を見つけた涼一は、ほっとするあまり泣きそうになった。 「真崎さん……」 「マーサー! 涼ちゃん借りてっぞー!」  涼一の後ろに立つ鈴木が機嫌良く真崎に手を振った。真崎は「涼ちゃんって……」と戸惑いを浮かべながら涼一を見る。助けて欲しい気持ちはあったが、いつもの癖で反射的に目を逸らしてしまった。  別のホームレスが興奮した様子で真崎に手招きをする。 「マサ! さっさと来てみろよ! この坊主、なかなかできるぞ!」 「だから何がですか? っていうかソイツ、俺のなんですから、勝手に持ってかないでくださいよ」  ぶつくさ言いながら真崎は近づいてくる。涼一の周りを取り囲んでいたホームレスの一人が興奮した様子で言った。 「見ろよ。涼ちゃんがタカオさんと互角にやってんだよ! さっきなんか鈴木さんに勝ったんだから、この若さで大したもんよ」  コンビニ袋をガサガサ言わせながら真崎はやってくる。白いガーデンテーブルに置かれた、今まさに対局の行われている盤を見下ろすと、「将棋か」と呟いた。  今はタカオと呼ばれるホームレスの手番だ。タカオは途中からやって来た真崎に目もくれず、真剣な顔で古い将棋盤と睨み合っていた。 「涼一。お前、将棋なんかできたのか」  無言で頷く。なるべく口を開きたくなかった。ホームレスが集まっているせいか、辺りにはなんとも言えない臭いが漂っていたのだ。  煙草、生乾きの洗濯物、放置した汗、腐ったチーズ――様々な悪臭が混ざり合い、強烈な臭いとなって鼻の奥から喉にかけてまでを刺激する。涼一はここに連れてこられてからずっと、最低限の呼吸と会話しかしていなかった。  しかしそんなことにも気づかない鈴木は、満足そうな顔で涼一の肩に手を置く。 「できるなんてもんじゃねえよ。前からオーラみてぇなのは感じてたけど、大当たりよ。俺も久々に楽しませてもらったぜ。なあ涼ちゃん。また付き合ってくれよな」  肩をゴシゴシと撫でられ、嫌ということもできずに頷いた。 「おい、涼一……」  真崎が心配そうに声をかけてくるが、「うるせえぞ」とタカオがそれを阻んだ。  爪が伸びすぎて丸くなった指先が香車の駒を拾う。パチッと音を立て、香車は一つ前に進められた。そこでようやくタカオは顔を上げて辺りを見回す。 「お前らもな、さっきからごちゃごちゃうるせぇんだよ。俺と涼ちゃんはよ、男と男の真剣勝負をしてんだ。ちっと黙ってろ」 「悪ぃ悪ぃ」  鈴木が調子良く涼一の肩から手を離す。涼一は心底ほっとした。すかさず真崎がやってきて、鈴木と涼一の間に割り混んでくる。腰を屈め、俯く涼一の後ろから囁いた。 「大丈夫か、涼一? ……具合とかさ。今日は暑いだろ?」 「なんだ。涼ちゃん具合悪いのか?」  タカオが愛想のかけらもない声で聞いてくる。帽子のつばの陰からちらっと覗くと、タカオは深い皺を顔中に寄せて、地獄の底にでも連れてこられたような仏頂面をしていた。 真崎も愛想という言葉とは縁遠い男に思えるが、タカオは更にその上を行く。しかしただ無愛想と言うだけで、涼一のことを心配してくれているのは分かった。涼一は蚊の鳴くような声で「……いえ」と答えた。 「なんでぇ、マサ。紛らわしいこと言って邪魔すんな」 「あー……いえ、こいつ病弱ってほどじゃないんですけど、日差しとかに弱くて……」 「それでいつ見てもこんなむさ苦しいのか」  涼一がいつも被っている帽子、セルフレームの眼鏡、目にかかるくらいの前髪のことについて言っているのだろう。まさか髭や髪が伸び放題のホームレスからむさ苦しいと言われるとは思っていなかったが、せっかくの助け船だ。否定はしないでおいた。 「この程度の木漏れ日でも辛いのかい? 大変だなぁ」 「ヤっさん。パラソルパラソル」 「おう。待ってろ」  周りに居たホームレス達もざわつき、ヤスというホームレスが小走りで近くのテントまで駆けていった。そしてすぐに大きなパラソルと台座を持って戻ってくる。 「涼ちゃん。今組み立ててやるからな」  ホームレス達はああでもないこうでもないと言いながら、涼一の後ろでパラソルを組み立て始めた。うまく設置できないようで、真崎もそれに手を貸した。 「涼ちゃんよ」  一人椅子に座ったままのタカオが、テーブルの上に肘を付いて身を乗り出してきた。 「こういうときは遠慮せず言えよ。ここにいる連中はよ、見た目ほど怖くねえからさ」 「涼ちゃんみたいな大人しい子はタカオさんの顔見ただけでションベンちびっちまうよ」  鈴木が横から茶々を入れてきた。てっきり機嫌を損ねるものだと思っていたが、タカオは「人のこと言えたツラか!」と拳骨する真似をして笑った。つられてホームレス達の間で笑いが起きる。その輪には、しゃがんでパラソルを支えている真崎もいた。  楽しげな空気の中で、涼一だけがぽつんと一人。酷く居心地が悪かった。  涼一が頭を下げて投了すると、真崎は強引に涼一を連れ出した。  涼一が頼むよりも先に、真崎は自分のテントからまだ封を切っていない石鹸を持ってきて、涼一に貸してくれた。  水道で入念に手を洗ってからいつものベンチに戻ると、真崎は食事の最中だった。迷った末、涼一は羽織っていたシャツをベンチに敷いてそこに腰掛ける。横目で見て、真崎は訊ねてきた。 「ハンカチはどうした?」 「あ……、なんとなく、ちょっと……」  今日持ってきたハンカチは、さっきまで尻に敷いて使っていた。どちらを下にして敷いていたのかも分からなくなり、なんとなく抵抗があって、今はポケットの中で眠っている。仕方なくシャツを犠牲にすることにしたのだ。  涼一の申し訳なさそうな態度を見て、真崎もだいたいの事情は察したらしい。それ以上踏み込んでは来なかった。  今日の真崎の昼食は牛丼だった。既に時刻は二時を過ぎている。かなり遅めの昼食だ。  真崎は残っていた牛丼を掻き込み、それを流し込むようにお茶を一気に飲み干してから、「悪かったな」と言った。 「……なにがですか?」 「無理させただろ。さっき」 「いえ。僕の方こそすみません。ただ、どうしても……」  それ以上は言葉が続かなかった。真崎は「ああ」とだけ言って、ゴミを片付け始めた。  真崎の顔を見られない。いつもは目を合わせることは避けるものの、滅多に涼一の方を見ようとはしない真崎の横顔を盗み見ることはしょっちゅうだった。今日はそれすらできない。  罪悪感があった。自己嫌悪もあった。  少し接すれば、ここに住むホームレス達が悪い人間でないことは分かる。普通なら胡散臭く思うような格好の涼一のことも、涼ちゃん涼ちゃんと言って、驚くほど親切に接してくれる。  それなのに涼一は、彼らに対して、口にはできないような感情を抱いてしまった。鈴木に手を置かれた肩は、今も何かとても汚いものがべったりと貼り付いているような不快感が残っている。  真崎があんなに楽しそうに笑っていた相手なのに。真崎だって彼らと同じホームレスなのに――。  涼一が俯いていると、不意にトントンと言う音が聞こえた。ベンチの上……涼一と真崎の間にある、人ひとり分のスペースだ。  目を遣る。関節の太い真崎の指が、トントンと二度ベンチを叩いた。 「合図だ」  真崎は言った。 「何か困ったことがあったらこんなふうに合図しろ。足でやってもいいし」  今度は踵でアスファルトの地面を二度叩く。 タンタンと軽い音がした。  真似をして、涼一もタン、タンと地面を踏みならす。「そうだ」と言って、真崎はもう一度地面を蹴った。 「俺もそんなに気が利く方じゃないからさ……特にお前みたいなのが相手だと、正直どうしてやったらいいか分からないんだ。だからもし今度さっきみたいなことがあって、俺が助けに入った方がいいってことになったら、そのときはすぐ合図しろ。必ず気づいてやるから。無理だけはするな」 「無理なんて」  言いかけた言葉は途中で消えた。顔を隠すように帽子のつばを指先で挟む。 「僕のこと、軽蔑しないんですか?」 「俺がお前をってか? 別に」  真崎はベンチの背もたれに寄りかかり、気を抜いたように体を伸ばした。 「お前はいろいろ気にしすぎなんだよ。息苦しいだろ、それじゃ」 「でも……!」  むきになって反論しようとした瞬間、帽子のつばをグイッと下に向かって引っ張られた。勢いのあまり、顔も下を向かされる。  何が起きたのだろう。呆然としてると、帽子を被った後頭部をコツンと柔らかくノックされた。  顔を上げる。真崎は眉間に深く皺を寄せ、微笑みそうになるのを堪えているようだった。  しかしその視線は数秒と経たずに涼一から外れる。真崎は真顔に戻り、遠くを見ながら億劫そうに首を回した。 「まぁ、あれだ。お前が思うようなことなんてだいたい誰でも思ってるからな。こっちだってそれくらいの覚悟はあってホームレスしてんだし、自分たちのこと棚にあげてお前を責めるようなことはしねえよ」  どう返したらいいのか分からず、涼一はさっき真崎が指で叩いた場所のすぐ隣を、少し伸びた爪の先だけで叩いてみた。  トントン、と耳をすまさなければ聞き逃してしまいそうな音がする。爪の先が少ししびれたような気がした。 「ん」  真崎が短い声を漏らす。あまりに短すぎて、その声にどんな意味が込められていたのかは分からない。ただ、真崎は涼一の手の隣に手を置いた。驚いた涼一は手を引いてしまったが、真崎は何事もなかったかのように指の腹でベンチをトントンと叩いた。  真崎の手は大きかった。大きくて、甲の部分に血管が浮いていた。指は長くて爪が短く切り揃えられ、関節は太い。  手が、指が、大人の男のものだ。けれどもさっき対局したときに見た鈴木やタカオの手とは違った。あの二人の甲に浮かぶ血管はもっと病的で、分厚い爪は黄ばみ、伸びすぎて先が丸まり始めていた。爪の中には黒っぽいものがこびりつき、年齢と苦労と無精が全て詰め込まれたような手をしていた。 「真崎さん」 「ん?」 「言い訳に聞こえるかもしれないんですけど、僕、母の手でも触れないんです。直接触れると、なんだか凄く気持ち悪く思えて」 「そうか」 「両親が離婚してからなんです。初めのうちは床に落ちたシャーペンを拾った後手を洗いに行きたくなるくらいだったんですけど、どんどんエスカレートして、それまで平気だったことがどんどん駄目になりました」 「不潔よりはいいんじゃないか?」  真崎は軽く答えた。その気楽さに、強張っていた涼一の肩からも力が抜けた。 「……鈴木さんは苔玉を育ててるって言ってました」 「あの人はな。盆栽が並べられてる青テント、分かるか?」 「はい。目立ってますから」 「あそこが鈴木さんの家だ。あの人は盆栽が趣味だったんだけど、最近は苔玉にもハマってんだ。丸くて可愛いだろって自分の子供みたいに自慢してくんだよ」 「そうなんですか」 「お前がさっきまで将棋してたのはタカオさん。この公園のボスだ。仏頂面で喋りが喧嘩越しだが、俺らがここから追い出されないのはタカオさんのおかげだ。案外面倒見もいいし、見た目ほど怖い人じゃない」 「はい。悪い人じゃなさそうでした」 「鈴木さんはここのムードメーカーだな。いい人だけど馴れ馴れしいとこもあるからお前は気をつけろ。あと、さっきいたのはアル中のヤスさんに、眼鏡をかけてたのはスーさん。自称元社長で、釣りが好きだからスーさんって呼ばれるようになったらしい。で、一番年食ってそうなのが酒井さん。AVとかビニ本、裏本なんかをどっからか仕入れて売りさばいてる。モザイク無しのDVDが欲しかったらあの人に頼め」 「前に僕を案内してくれた人は?」 「あれはゲンさん。歯が無くて何喋ってるのかたまにわかんなくなんだよな。それから、ここにいるときたまに声かけてくるハゲた人は東さん。これで全員だ」  合計八人。涼一は妙に感心してしまった。 「思ったよりもそんなに……なんていうか……普通なんですね」 「どういう意味だ」 「なんか、みなさんがホームレスだっていうのは変わらないんですけど――ごめんなさい。なんて言ったらいいのか分からないです」 「犯罪者とか前科者の集まりとでも思ってたか?」 「そんなこと思ってません!!」  慌てて否定する。真崎の口元は意地悪げに笑っていた。  文句を言おうと口を開きかけ、しかし言い出せずに視線を彷徨わせていると、真崎の無骨な指が帽子のつばを挟んで無理やり下を向かせた。涼一の視界から真崎の顔が消えた。 「犯罪者ってほどでもないけど、借金取りから逃げてホームレスになってるようなやつは結構いるみたいだ。ま、ここにそういう人間はいないから安心しろ」 「そうじゃなくて、ホームレスの人って、僕にとっては絶対に縁のない人だったんです。普段何してるかも分からないし、知らなくていいし、何かあったらホームレスが悪かったんだって噂されるみたいな……」 「ていのいい悪人」  真崎にはっきりと言い当てられ、涼一は背中を丸めた。  どうせ自分がそのグループに入ることはないのだから、彼らについてどんなふうに話そうが、思おうが関係ない。涼一にとって、真崎達はそういう人種だった。  普通の人からしてみれば、引きこもりの涼一だって似たようなものだろう。どんな綺麗事で塗り固めても、いざ自分の身内がそうなりそうになったら、誰だって全力で引き留める。  それでも涼一は、まだ自分を最底辺とは思いたくなかった。  まだ下がいる。自分よりも下がいる。そう思うと、ほっとした。  真崎の仲間達に囲まれている間、そういった感情が全くなかったとは言い切れない。  一人一人の人間ではなくホームレスという生き物として彼らを見て、潔癖性ということを除いても、とても真崎には言えないような感情を抱いた。それはもしかしたら、涼一の態度から滲み出ていたかも知れない。  嫌われてしまうだろうか。真崎にも。  たぶん嫌われる。涼一は思った。今日で無くとも、いつか必ず。  項垂れ、そして指先を眺める。右手の中指にささくれができているのが目に入った。 ――嫌われたくない。  真崎にだけは。  真崎だって彼らと変わらないホームレスなのに、涼一は真崎に呆れられ、嫌われるのが怖かった。  ささくれを爪で挟んで引っ張る。 ――真崎さんは……だって……。  だって、なんだろう。  さっきホームレス達と笑いあっていた真崎はとても楽しそうだった。少なくとも、涼一と二人きりでいるときよりは肩の力が抜けていて楽しそうだった。  真崎はいつもなぜか涼一のことを待っていてくれるが、決して涼一の仲間ではない。真崎は彼らの仲間だ。真崎だって、涼一とは違う。  爪が滑った。もう一度根元からささくれを掴み、引っ張った。爪の一部のような堅さのささくれと一緒に皮膚も引っ張られ、ピリッと鋭い痛みが走った。 「いっ……!」  顔を顰める。  ささくれは取れていた。思っていたよりも深く剥いてしまったようで、爪と皮膚の間から真っ赤な血の粒が溢れてきた。 「何してんだよ、お前」  呆れたような真崎の視線が涼一の指先に集中する。顔が熱くなった。 「……ったく」とぼやきながらベンチの上で腰をずらし、真崎は二人の間にあった一人分の距離を詰めてきた。背の高い真崎がすぐ隣まで来ると、影ができて視界が暗くなった。 「逆むけなんて引っ張るなよ。菌が入ってエライ目に合うぞ」 「……エライ目?」 「俺は指が黄緑色に変色した」  真崎は不機嫌な顔で答えた。  腫れるのはともかく、黄緑色とはどういうことだろう。比喩なのか、それとも本当にそんな色になったのか。  変色した指を仏頂面で眺める真崎を想像し、じわじわと笑いがこみ上げてきた。 「……ふふっ」 「おい。何笑ってんだ」 「だって真崎さん、そういうの似合いそうですよね」 「そういうのってどういうのだよ」 「言わない」 「言えよ」 「怒りますよ」 「怒らねえから言えよ」 「……ちょっとかっこ悪いの」 「お前なっ……!」  やっぱり怒った。それがまた面白くて、涼一は肩を揺らして笑った。真崎はばつの悪そうな顔で舌打ちした。 「これだから近頃のガキは――まぁいい。ちょっと見せてみろ」 「指ですか?」 「ああ。触らないから」  抵抗はあったが、ジクジクと熱を持って痛む指を真崎の方に浮かせた。「痛そうだな」と言って、真崎は顔を近づけてきた。  距離が近い。すぐ目の前にある真崎の頭からは、濡れた獣のような匂いがした。 「細いな」  真崎は呟いた。 「指だけ見ると男って分かんねえな。今どきの十六歳はこんなもんなのか?」  真崎の言葉は、涼一の耳に届いていなかった。  一瞬のうちに、見とれていた。広い肩に。高い鼻に。濃い眉に。伏し目になったときに目立つ、長い睫毛に。  真崎が瞬きする。睫毛が震え、明るい茶色の瞳がぎょろっと上を向いて涼一を見上げた。 「どうした?」  見つめられ、顔がカッと熱くなった。 「すっ……みま、せ……」  小さく絞り出した涼一の声は掠れていた。 そのしゃがれた声も恥ずかしくて、ますます顔が熱くなった。 「顔赤いぞ」 「あ、いえ……。あの、僕……」  心臓がドクドクとうるさい。  真崎は涼一をジッと見つめたまま、珍しく目を逸らさなかった。深く窪んだ目から注がれる眼差しは、何かを探るように、少しずつ涼一の深い場所へ潜り込んでくる。  「まあ、何もないならいいけどな」  真崎が深く息を吐く。その湿った息が、ささくれが取れて肉がめくれあがったところに触れた。 「帰ったら消毒しとけよ」と言って真崎は体を引き、元の位置に戻った。二人の間には、再び一人分の距離ができた。  チラッと横目で涼一の顔色を伺った後、真崎は言った 「俺が月に何日かまとめてフルの仕事を入れてるってのは前に話したろ。あれ、来週の月曜から水曜までだから。遊びにくるのはお前の勝手だけど、俺は来れないぞ」  ちょうどそのとき、腕時計のアラームがなった。二人の時間が終わる合図だ。 「時間だな。今日は鈴木さん達に捕まってたせいか、早かったな」  真崎はゴミを持って立ち上がる。いつだって未練もなく離れて行くその腕を、掴みたいと涼一は思った。 「あの……」  涼一も立ち上がった。 「……しばらくは会えないんですね」 「まぁ、そうなるな」 「あ――明日は?」 「明日? 土曜日か?」  真崎が訝しげに眉根を寄せる。分かっていると言うつもりで、涼一は頷いた。  涼一はこれまで、平日しかこの公園に来たことがない。土日祝日は学校が休みのため、同年代の学生が外をうろついていることが多いからだ。こうして早い時間に帰るのだって、近くの学校に通う小学生と遭遇しないように帰宅時間をずらす目的がある。  その辺りの事情を詳しく話したことはないが、土日祝日は家から一歩も出ずに過ごすことくらいは真崎に伝えてある。だから真崎が不思議に思うのも無理はない。誰よりも涼一自身が、自分の言葉に驚いているくらいなのだ。 「土曜日ですけど、日曜日よりはたぶんマシっていうか。……明日は大丈夫です。たぶん」 「母親は? 休みなんだろ?」 「散歩に行くって伝えて出てきます。僕が最近出かけるようになったって母はまだ知らないはずなんですけど、いつかは言わないといけないですし。ちょうどいい機会ですから」 「そうか」  真崎は考え込むような顔で髭の生えた頬を掻いた後で「だったらさ」と、どこか歯切れ悪く切り出した。 「少し早く来れるか? 昼前頃」 「え……っと、どうしてですか?」 「毎月第二と第四土曜日は大学生がボランティアで炊き出ししてんだよ。駅の向こうの河川敷……ここから歩いて三十分くらいかな。毎回カレーなんだけど、結構美味いから俺も明日はそっちに行くつもりだったんだ。お前が嫌ならここでもいいけどさ――どうだ?」  真崎の躊躇いがちな態度は、暗に、無理はするなと涼一に告げていた。 「……大学生って、普通の大学生ですよね?」「ああ。この近くの、N大の学生だ。見た目も話した感じもみんなしっかりしてるし、真面目な子ばっかりだ」  すぐには答えられなかった。涼一は俯き、真崎の穴が開いたスニーカーを見つめた。  N大はこの近くにある国立大学だ。偏差値も全国のトップクラスで、そこの学生でボランティアをするような学生なら、きっと真崎の言うように「真面目な子」ばかりなのだろう。少なくとも、内心で嫌悪感を持ちながらホームレスと接する涼一よりもずっとまともなはずだ。  しかし、ボランティアをする側の彼らは、される側のホームレスとは違う普通の人だ。こんなふうに平日の昼間だけコソコソ外に出る涼一と違って、堂々と外を歩き、学校に通って友達を作り、親を悲しませることもない普通の人だ。  風が吹き、林の木々がさわさわと優しく揺らされる。それに合わせて足下の木漏れ日も 揺れた。アスファルトの上に描かれた小さな無数の円が、ボロボロになって穴の開いた真崎のスニーカーの上を走り回るように動く。  爽やかな風だ。六月も二週目に入り、数日前にはこの辺りも梅雨入りしたと母が話していたのを思い出す。  真崎と出会った日はうだるように暑い日だった。真崎の名前を教えてもらった日は雨で、それから一週間は梅雨を先取りしたような雨が続いていた。そしてようやく梅雨入りした今、こんなにも清々しい風が頬を撫でていく。これからしばらくは晴天が続くと予報が出ているらしい。  季節は狂ってしまったのだろうか。それともこれが普通というものなのだろうか。 「涼一。どうする?」  真崎の声で現実に引き戻された。真崎の誘いを受けるかどうか答えを出さなくてはいけないのに、まるで答えを出すことから逃げるように、別のことを考えていた。  どうしたらいいのだろう……行きたいのか行きたくないのか自分でも分からない。答えが出ないままに真崎を見上げると、真崎も涼一をまっすぐ見つめ返してきた。 「付き合えよ、涼一」  真崎は言った。さっきまでの躊躇いがちな態度は消え、それ以外の答えなど許さないと 言うような強引さがあった。  その強引さに引っ張られ、涼一は頷いた。 「いいんだな?」  念押しされる。今度はきちんと、自分の言葉で答えた。 「……はい。よろしくお願いします」 「分かった」  真崎の口元が微かに笑った。下から見上げてみると、真崎の伸びかけの髭は、顎の裏側も覆っていた。  首の付け根にも届いている。そんな場所にまで髭が生えることを、涼一は生まれて初めて知った。 「じゃあ明日。十一時頃にここに集合な」 「はい」 「遅刻したら置いてくぞ」 「はい」  ささくれを千切った指先がまたジクジクと痛みを訴えてくる。痛みや熱さだけでなく、自分のものであるはずの指が誰か知らない人のものになったような違和感がある。真崎の息が触れたからだ。  息……人の呼吸では酸素を吸って二酸化炭素を吐くと思われがちだが、実際の呼気に含まれる成分の八割近くは窒素だ。次いで酸素。二酸化炭素はごく僅かしか含まれていない。  エネルギー、グルコース、アデノシン三リン酸――余計なことで頭の中を埋め、指先の違和感を意識しないようにする。 「じゃ、また明日」  いつも別れ際、真崎は「それじゃ」くらいしか言わない。初めてだった。初めて、真崎とまた会うことを約束した。 「はい。また、明日……」  言った瞬間、照れくさくなった。はにかみながら頭を下げると、真崎は思いっきり不機嫌な顔をして伸びかけの髭をひっかいた。

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