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第7話

 梅雨なのに雨が少ない日が続き、七月に入った。あれ以来真崎からの態度はぎこちなく、同じベンチに座っていても、どこか気まずい沈黙が続くだけだった。しかも最近の真崎は食事が終わるとすぐ逃げるように眠ってしまうため、挨拶以外の会話がない日も多い。二人の距離は広がっていくばかりだ。  一方、新藤からは数日置きにメールが届くようになった。いつもたいした用事ではなく、その日あった出来事が綴られたような、返信にも困るメールばかりだ。だが先日、河川敷での炊き出しの準備や配膳を手伝ってみないか、と誘われることがあった。  ボランティアの手伝いともなれば、当然大学生達と交流する必要が出てくる。新藤だけでなく、顔も知らない初対面の大学生達だ。 ボランティアなんてまともにできる自信もないし、引き受けるメリットもない。最初は断ろうと思っていたのだが、一晩迷った末、『よろしくお願いします』とメールを返した。  ほとんど当てつけのようなものだ。  いくら待っても真崎の態度は頑なで、涼一との距離を以前のように縮めてくれる気配はない。そのくせ涼一に会いに来なくなるということもない。涼一には真崎の考えが分からず、理不尽かもしれないが、少し腹が立っていた。その苛立ちが、涼一をあり得ない行動に走らせてしまったのかもしれない。  ともかく、真崎とは気まずい距離のまま、時間だけが過ぎていった。そしてついに、新藤との約束の前日になった。  その日もいつも通りに真崎と並んでベンチに腰掛け、食事をする真崎の横でゲームをして過ごした。食事が終わると、真崎はすぐに背もたれに寄りかかって眠ってしまった。寄りかかりすぎて、頭は完全に背もたれを乗り越えて後ろに下がっていた。  帰る時間が近づいてきて、タイムリミットまで残り二十分。涼一は全く進んでいないゲームをようやく閉じ、眠る真崎に向き直った。  涼一と気まずくなってから、真崎は前以上にみすぼらしくなった。  髭はもう一週間も伸ばしっぱなしで、髪は三日くらい洗っていない脂ぎって黒々と光り、服はボロボロで、謎の染みでできている。こうして一人分離れた距離にいても分かるくらい、全身からは酷い臭いが漂ってくる。  嫌悪感に眉をしかめながらも、涼一は距離を詰めて真崎の顔を覗き込んだ。 ――真崎さんは明日来るのかな?  涼一は真崎の明日の予定を知らない。真崎の方も、涼一が明日ボランティアに誘われていることは知らないはずだ。 ――真崎さんが来なかったら、明日は完全に一人なんだ……。  河川敷まで行く道も、ボランティアの最中も、帰り道も、一人。うまくできるだろうか……。  明日のことを頭の中でシミュレートしてみた。どれだけ頑張っても、いいイメージは湧いてこない。 ――駄目だ。ろくに手伝いもできなくて、また気持ち悪くなるところしか想像できない……。  やはり調子に乗っていたのかもしれない……涼一は急に弱気になった。  真崎と出会って以来、平日は毎日外に出ているし、土曜日だって問題なく外出できた。 年単位で母親以外の誰とも会話しなかった涼一が真崎とはだいぶ打ち解けたし、ここ数週間の間にタカオ達や新藤とも、少しではあるが会話をした。まるで普通に戻ったようで、だから調子に乗っていたのだ。  外に出て、母親以外の人間と話をしたからといって、まだ普通ではない。歩くときは相変わらず人目を避けるように下を向いて歩くし、顔を隠さなくては出かけられないし、まともに会話できる相手はホームレスだけだ。涼一は一丁前にボランティアなんか引き受けられる人間ではない。 ――今からでも断れば……でも、前日になってから断るなんて……。  非常識すぎる。前日でなくとも、涼一は一度約束したことは何が何でもやらなければ気が済まない性格だ。小学校のとき、明日提出しますと前日に約束してしまった提出物を出すためだけに、三十八度を越える熱が出ても学校に行ったこともある。  どうしよう……。どうすればいい……? ――断ってもよかったのに、自分から引き受けたのは僕なんだ。だから頑張って……吐きそうになったら堪えて、飲みこんででも、一人で、ちゃんと……。  ちゃんと――その言葉が、胸にずっしりとのしかかってくる。  いつの間にか拳を握っていた。その拳は微かに震えていた。 ――大丈夫だ。新藤さんもサポートしてくれるって言ってたし、単純な作業って話だったから、できないわけない……  どれだけプラスに考えようとしても、どんどん息苦しくなっていくのは誤魔化せない。手を組み合わせ、顔を押しつける。その瞬間、のけぞった真崎の喉がビクッと震えた。 「ンゴッ!」  突然聞こえた地鳴りのような音。涼一も肩を跳ねさせ、真崎を見た。 「んん……」  目を閉じたまま真崎は小さく呻き、また寝息を立て始めた。そしてしばらくすると、ゴーっと低い音が聞こえてきた。 ――イビキ……?  恐る恐る真崎の顔を覗き込む。頭が後ろに倒れているせいか、瞼が薄らと捲れて薄目を開けているように見える。上唇も捲れ、白い歯が見えていた。 ――うわっ……。これはさすがに……  思わず噴き出してしまいそうになった。不細工としか言いようのない、本当に凄い顔だった。 ――真崎さんって普通にしてれば絶対格好良いのに、いろいろ損してるよな。髭だってこんなボーボーになっちゃって……。  改めてじっくり観察すると、真崎の髭はもみあげから繋がっていた。  左のもみあげから右のもみあげまで、輪郭をなぞるようにして硬そうな毛がびっしりと生えている。そして顎からは唇の下まで、口角のあたりからは鼻まで伸びて、口を囲むように濃くなっている。顎の裏側から首の付け根にも、やはり髭は生えていた。  髭はこんなにふうに生えるのか――涼一は不思議に思いながら眺めた。  涼一にはまだ髭が生えていない。父親の顔は覚えてもいないし、身近にいた大人の男といえば学校の教師くらいだったが、教師の顔をまじまじと見る機会なんてなかった。だから髭はただ顎や鼻の下を埋め尽くすように生えるとしか思っていなかった。 ――僕の髪より硬そうだ……。  涼一の髪は細く柔らかい。一方、真崎は髪も髭も黒々としていて一本一本が太く見えた。  色の白い涼一。よく日に焼けた真崎。線の細い涼一。骨格レベルでがっしりとした真崎。小柄な涼一。背の高い真崎。体毛の薄い涼一。体毛の濃い真崎。  全く違う。同じ男でも、二人は違う種類の生き物で、それがとても新鮮だった。  真崎の顔へ、恐る恐る手を伸ばす。  頬の少し下。髭が濃く生えた場所。指先触れる直前、怖くなって動きを止めた。  他人の肌に触れるのは苦手だ。それは真崎が相手でも変わらない。  だというのに、今は好奇心という言葉では説明の付かない衝動に背中を押されていた。そしてその衝動が、恐怖に勝った。  触れる。  ちくっと尖った感触が指先の皮膚を刺激した。 「っ……!」  驚いて手を引いた。  心臓がバクバクと破裂しそうだ。けれども気がついた。少し前まで震えていたはずの手は、気づかぬうちに震えを止めていた。  胸のうちに微かな興奮を覚えながら、涼一はもう一度真崎の頬に触れた。もう躊躇うことはなかった。  触れ、撫でる。硬くてざらざらしている。  硬いざらざらが指の腹にひっかかり、少し痛い。 「…………」  涼一は小さく息を吐いた。  もっと強く指を押しつける。髭の一本一本の隙間、その場所の肌と涼一の肌とが触れる。 そうして指を滑らせ、顎を撫でる。  冷たくはない。熱くもない。不思議な人肌の感触。真崎の肌。 ……頭の奥がじんとしびれてきた。驚くほど、体が熱い。  口周りを一周するように、鼻髭にも触れた。  鼻……真崎の鼻は高い。今は凄い顔をしているが、真崎は整った顔立ちの人だ。  綺麗と言うより、男臭い顔立ち。きっとモテるだろう。その気になれば、生活を援助してくれる女性だって見つかるはずだ。どうして真崎はこんなところにいるのだろうか。  真崎を知りたいと思った。同時に、真崎にもっと触れたいと思った。 ――真崎さんの、体は……。  口の周りを何度も撫でる。そうしながら、真崎の服の下を思い浮かべた。 ――前に抱きあげてもらったとき、凄く力が強かったから……。  涼一は熱い息を吐いた。  真崎の体は涼一とは全然違う。服の上からしか見たことがないのに、簡単に想像できる。涼一と違って大人の男らしく、硬く大きな筋肉質の体――。  真崎の口の周りを撫でながら、その指は鼻孔の周りや上唇の山にも触れていた。  真崎の唇は厚くて幅が広い。見るからに柔らかさとは程遠く、表面が乾いてガサガサになり、ところどころ皮が剥けている。  この荒れた唇で、きっと真崎はこれまで幾度となく女性とキスをしてきた。……キスだけじゃない。もっと凄いこともしてきたはずだ。女性の唾液や体液を受け、この唇も、きっとそのときだけは濡れてしっとりとした柔らかい感触に変わったのだろう。  想像する。女の肌と、真崎の濡れた唇。  腹の底が、燃えるように熱くなった。  涼一は真崎の唇の上に指を滑らせた。思った通り、酷い触り心地だ。  そういえば、真崎は給料が入ったら風俗店に行くと話していた。もう行ったのだろうか? どこまでのサービスをしてもらったのだろうか? 真崎の唇は、女のどの部分にまで触れたのだろうか。このかたく引き結ばれた唇は――。 ……引き結ばれた?  涼一は慌てて手を引いた。体も離す。  真崎は相変わらず眠っているように見えたが、よく見れば、捲れ上がっていたはずの瞼はしっかりと閉じられていた。 「まさっ……あ、ぼく……」  つい今し方までとは違った意味で心臓が破裂しそうだ。間違いない。真崎は目を覚ましている。  思った通り、真崎はのっそりと頭を持ち上げた。くすぐったそうにボリボリと髭を掻き、涼一を見た。戸惑っているようだが、その目にこの前のような拒絶の意思は見えない。 「……石鹸、使うか?」  真崎の口から出た音が頭の中で言葉として意味を持つまで、数秒の時間がかかった。 「い、いえ……」  涼一はカクカクと不自然に首を横に振った。 「リョウ……」  真崎は顔を顰めた。睨むような表情なのに、なぜか真崎の方が傷ついているように見えた。 「……悪い。そんなつもりじゃ……」 「髭、が……」 「ん?」  怪訝そうな視線を感じる。だがここは、なんとしても嘘を突き通さなければならない。 「髭が……僕、まだ生えてなくて……。お、お父さんも……いないし。親戚も、いないから……。興味が、ありました。普通に……」 「……そうか」  ぎこちなかったが、真崎は信じてくれたようだ。もう一度「石鹸いるか?」と聞かれた。今度は自然に首を横に振った。  鞄から除菌ティッシュを取り出して指を拭く。ゴシゴシと念入りに拭くのは、真崎に見せるためのパフォーマンスだ。 「便利なもん持ってるな」 「僕が外に出るようになったからってお母さんが――あ、母がです」 「あのさ、涼一」  改まったような声だった。涼一は俯いたまま、手を熱心に拭きながら耳を傾けた。 「最近悪かったな」 「……いえ」 「俺といても楽しくないだろ。正直」 「……そんなこと、期待してません」 「だったらなんで――いや、悪い」  また謝った。最近真崎の謝罪ばかり聞いている気がする。 「どんな理由でお前がこんなとこに通ってんのかは分からないけど、俺は……」  そこで言葉を止め、次の言葉を探すようにしながら、真崎は言った。 「俺はお前のことが嫌いなわけじゃない。いい大人なのにうまく付き合ってやれなくて悪いとは思うが、そんなに怯えるな」 「怯えてなんか……」  ない、と続けた。その声は微かに震えていた。それがどんな感情からくるものかは涼一自身にも分からない。ただ、胸の中に引っかかっていた何か嫌なものが全て消えていく気がする。それに、目の奥から溢れてきたもので視界がジワジワと歪んでいく。 「そっか」  真崎の声には笑いが混じっていた。  涼一はまだ手を拭っていた。真崎の言葉に頷くと、眼鏡の上に小さな滴がポツポツと落ちた。  慌てて眼鏡を外し、除菌ティッシュで拭く。レンズには濡れた白っぽい跡ができた。  汚れた眼鏡は鞄の上に置き、濡れた目元を手の甲で拭く。それからその手を除菌ティッシュで拭いた。 「涼一」  トントン、帽子のつばを軽くノックされる。 「忘れんなよ」 「……なに?」 「合図だ。何かあったら、俺が守ってやるから。絶対だ。だからちょっとでもヤバイって思ったら、何でも俺に言えよ。な?」  そんなことを言わないで欲しい。涙なんか見せたくはないのに、もっと泣いてしまいそうになる。  唇を噛みしめ、しゃくり上げそうになるのを必死で堪えた。ほとんど息を止めていた。だが声は抑えられても、肩の震えまでは抑えられない。 「涼一……」  真崎は少し笑っているようだ。涼一がこんなふうになってしまうのは真崎のせいなのに、どうしてそんなふうに優しく笑うのか。  腹が立った。だから拳を広げ、真崎の太い脚をバシバシと叩いた。真崎はやはり笑っていた。 「馬鹿。せっかく綺麗にしたのに、また汚れるぞ」  無視して、またバシバシと叩く。そのまま真崎の脚の上に手の平を置いていても、真崎は何も言わない。だからもう一度バシバシと叩いた。 「……嘘つき」 「なんでだよ」 「気づけよ……!」  さっきまでより強く、本気の力を出してバシバシと叩いた。 「あ……」  ようやく気づいたようだ。涼一は真崎の脚の上で拳を握った。 「どうした、涼一。なんかあったか?」  慌てて涼一の顔を覗き込もうとしてくる。  今さら遅い。そう文句を言ってやろうかとも思ったが、本当はどれだけ遅くても気づいてくれただけで嬉しかった。だから文句は言わないでおいた。 「新藤さんに、ボランティア、誘われたから」 「そうか。いつだ?」 「明日。……でも、一人だと不安で……」 「俺がいるだろ。一緒についてって、ずっと傍にいてやる。だから思いっきりボランティア手伝って、思いっきり吐いてこい。な?」 「……はい」  頷くと、涙が零れた。 「涼一。少し触るぞ」  真崎は二人の間にあった微妙な距離を詰め、片腕で涼一のことを抱きしめた。  分厚い胸につばがあたり、帽子が落ちそうになる。真崎はそれを押さえ、そのまま、涼一の頭に手を置いて抱き寄せる。  濃い石鹸の匂いがする。汗の匂いがする。真崎の匂いだ。  真崎の胸に顔を押しつけ、深く息を吸い込んだ。 「石鹸……」 「ん? 欲しいのか?」 「真崎さんの匂い。いつも、します」 「ああ。洗濯するとき、石鹸で手洗いするからな。たまに乾いた服にカスみたいな白いのがこびりついてるのが見つかるから、たぶんそのせいだろ」 「不潔だ」  涼一は笑った。帽子越しに、真崎がぽんぽんと頭を撫でてくる。 「うるせえな。石鹸なんだから別にいいだろ」 「……風俗も行ったじゃん」 「急になんだよ」  驚いたようだが、真崎は「そんな気分じゃなかった」と言った。  そうか――ほっとした。ここ数日、真崎の唇は女に触れていない。真崎の唇に触れたのは涼一だけだ。  肩の力を抜き、下を向く。真崎のズボンの股間部分が不自然に膨らんでいるのが目に入った。  ずっしりとした質量を感じさせる膨らみは、生々しい熱を感じさせる。それがうつったように、涼一のその場所も同じ熱を持った。 ……同じ熱。  しかしまだ、そんなあやふやなものに全てを委ねるのは怖い。たぶん真崎も同じだ。いくら普通の道から外れた生き方をしていていも、男という根源に関わるその普通からだけは外れる勇気がない。  それなのに体を離すことはできず、犬連れの老人が近くを通るまでの間、涼一と真崎は途方にくれたように体を寄せ合っていた。

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