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第8話

 あいにくの雨により、炊き出しは河川敷の橋の下で行われることになった。  集まった大学生は六人。新藤も含めて男性が五人と、女性が一人。  男子学生達は本格的なレインコートを着て、離れたところにある駐車場から荷物を運んだり、配膳用のテーブルを設置したりしていた。  一方、涼一は唯一の女子学生と一緒に土の上にブルーシートを敷いてまわった。ホームレスの食事場所だそうだ。それが終わるとゴミ袋などの準備をした。要は簡単で力を使わない仕事を任されたということになるが、恐らくここに一人だけ女子学生がいるのも、涼一にそういった仕事を任せるために新藤がちょうどいい人を用意してくれたのだと思う。将来は特別支援学校の教諭になりたいと教えてくれた彼女はさっぱりした性格をしていて、一緒にいてもあまり苦にはならなかった。 「アタシもうちのサークルには新藤に誘われて参加したんだけど、ホームレスの人って想像してた感じと全然違ってさ。意外と楽しかったから、今は子供相手のボランティアとは別に、ときどきこっちも手伝ってんだ」  あらかたの作業も終わり、涼一と百合川は忙しなく動く男子学生を尻目に、のんびりと備品の仕分けをしていた。プラスチックスプーンや紙皿を袋からだし、いざ配膳の段になったときに使いやすいよう仕分けするだけの仕事だ。そのせいか、さっきから百合川の口は、手よりも動く。涼一の返事があってもなくても構わず、好きなことを好きなように喋っていた。 「――ってかさ、ふふっ」  百合川は耳が出るくらいの短い髪を揺らして笑った。 「仲いいねー。マサキさん、雑誌読んでるフリしてるけど、いつ見ても涼一君のこと目で追ってるじゃん。ほんと和むわー」  涼一は首を大きく縦に振った。それから、ボランティアの邪魔にならないすみの方で週刊誌を読んでいる真崎に視線を送った。真崎はすぐに涼一の視線に気づいて顔を上げた。  だって約束したし――涼一は誇らしいような気持ちになり、少し照れながら、真崎に小さく手を振った。真崎も不器用な笑みを浮かべ、週刊誌を軽く掲げてみせた。 「お前は授業参観に来た父親かよ!」  横から飛んできたよく分からないツッコミは聞き流すことにした。 「あの、百合川さんも――」  新藤と仲が良いようだ。そう指摘しようとしたが、百合川がこっちを見たのを感じたせいで、言葉が喉のところにつっかえてしまった。しかしどうやったのか、百合川は涼一の心を読んで笑った。 「新藤?」 「あ、はい」 「ま、それなりにねー。ってか、涼一君って新藤苦手でしょ? 隠さなくっていいよー」  コロコロと話が変わる。しかも鋭い。涼一はどうしたらいいのか分からず、プラスチックスプーンを持ったまま肩を強張らせた。 「アタシも最初はそうだったからね。いいヤツで真っ当すぎんだよね、アイツ」  確かに悪い人間ではないのだと思う。涼一もそれは認める。 「ただそこが悪いとこでもあってさ。善人で育ちもいい分、正しすぎるんだよね」  雨の中、段ボールを抱えた新藤が橋の下に戻ってきた。レインコートは水が滴るほどびしょびしょだ。すぐに他の男子学生達が新藤の周りに集まり、からかうように笑い合う。  仲間達から慕われているようなその様子を優しく眺めながら、百合川は言った。 「ボランティア始めたばっかの頃さ、アイツ、ホームレスの人怒らせちゃって。凄い熱血教師みたいに、社会復帰した方がいいとか諭そうとしたのよ。あと一歩で警察沙汰だったよ」 「警察沙汰……?」 「あ、もちろんセーフね。でも、今のままじゃマズイなんて大半の人が分かってんのよね。それでもやっぱ、どうしようもない人っているんだよね。普通の社会を忘れて今の生活に浸かりきったり、挫折をくり返しすぎてもう立ち上がる気力もなくしたり……そういう人に『正しく生きましょう。あなたはこれこれこうすればいいんですよ』なんて言ってどうにかなると思う? 分かってるんだって。分かっててもできないんだって。それがアイツにはいまいちピンと来ないんだよ」  そう。誰も彼もが正しく普通に生きることなんてできない。  涼一だって通信制高校に入学した当初は、頑張ろうと思っていた。母をこれ以上悲しませないためにも頑張ろうと。  だが無理だった。  頭ではなんとかしなければと思っていた。毎日吐くほど自分を責めた。それでもどうすることもできず、気持ちはどんどんと狭い部屋の中に閉じこもっていった。  このままでは本当に部屋から一歩も出られなくなる。そう思ったからこそ、悩み抜いたあげくに帽子と眼鏡で顔を隠して週に一度だけ外出することを決めた。  ただ、それは最後の勇気だった。  あとほんの少しでも挫折していたら――例えば真崎と出会ったあの日、真崎が現れてくれなかったら……ボロボロになった涼一は、もう週に一度の外出すらできなくなっていたかもしれない。  そんな状況で、涼一の努力や苦しみを何も知らない人間から分かりきった正論を振りかざされる。……それは善意という名の暴力だ。 「ただ、新藤の場合、いつだって本気で相手のためを思って行動してるんだよね。悪気が無い分たちが悪いとも言えるけど、アイツはそういうことがあると自分のどこが悪かったか考えて素直に反省できるから。それはアイツの魅力だと思う」  そのとき、新藤が涼一達の方に向かってくるのが見えた。あまりのタイミングの良さで、まるで陰口を聞かれてしまったような焦りを覚えた。 「お疲れさま」 「お疲れー!」  しかし百合川は明るく返した。さっきまでの会話など忘れてしまったように、涼しい顔をしている。 「楽しそうだね。何話してたの?」 「ヒミツ~。それよりだいぶ集まってきたね」 「そうだね」  新藤は腰に手を当てて振り返る。その視線の先、広い河川敷には傘を差したホームレスの列ができていた。列整理などしていないのにきちんと二列に並んで端に寄っている辺り、どれだけアウトローになっても日本人として培ってきた習性は消せないようだ。 「ついでに第一陣も到着だ」  今度は土手の方を目線で示す。そこには大きな鍋を運んでくる大学生達が見えた。  近くの小学校を借りてでカレーを作っていたグループだ。彼らが運んできたカレーをここで温め直して提供するのが、このサークルの炊き出しスタイルだそうだ。 「まだ少し早いけど、雨も降ってるし始めようと思う。涼一君には配膳を手伝ってもらいたいから一緒に来てくれる?」 「はい。――あ、百合川さんは?」 「アタシは裏方。大丈夫。ファイト、涼一君」  百合川からビニールの中にまとめられたスプーンを渡される。新藤も両手に持ちきれないほどの皿を半ば無理やり持たされた。それを配膳用のテーブルに持って行き、ビニールから出してテーブルに並べる。そうしながら、新藤は嬉しそうに笑った。 「百合川と仲良くなれたみたいだね。やっぱり涼一君を誘ってみて正解だった」 「あ、いえ……」  涼一は俯き、無意識のうちに帽子のつばを掴んでいた。なんだかやけに顔のあたりに視線を感じる気がする。 「……たいして役に立てなくてすみません」 「いいよ。初めてなんだし、楽しんでくれるのが一番だ。そういえば真崎さんのとこの公園の人達もみんな来てたよ」  新藤が顎で示した先を見ると、ホームレスの行列の中に鈴木とタカオ、スーの姿が見えた。人の陰になって見えないだけで、他のホームレス達もどこかにいるのだろう。 「全員集合するなんて初めてだよ。特にタカオさん。炊き出しには滅多に顔なんか出さないんだけど、涼一君が気になって来てくれたのかもね」 「……たまたまだと思います」 「なんにせよ、今日は真崎さんと涼一君が二人で来てくれて本当に良かった。無事に仲直りできたんだね」  どういう意味だ、と思い、涼一は新藤の喉のあたりを見上げた。 「喧嘩したんでしょ? 涼一君が公園に来なくなるかもって、真崎さん、凄く落ち込んでたんだよ」  つまり真崎から聞いたと言うことだ。  しかしどちらかといえば、真崎は個人的なことを人に話したがらないタイプだと思っていた。愚痴や悩みを口にしているところも想像できない。  そうでなくとも今回の涼一との不和の根底にあるものは、真崎としても積極的に人に話したいことではないはずだ。それを新藤に話した理由。ホームレス仲間ではなく、あえて新藤に話した理由。  漠然とした不安が、もやのようになって涼一の胸に襲いかかってきた。涼一は帽子のつばを何度も指で触る。  新藤によって後から合流してきた調理担当の女子学生達と引き合わされ、涼一は彼女たちと一緒に、使い捨て容器にカレーをよそってホームレスに配ることになった。  カレー鍋の蓋をあけ、おたまを握る。雨の臭いをかき消すように、食欲をそそるカレーの匂いが一気に広がった。ホームレス達のざわつきも大きくなる。  ざっと百人はいるだろうか。ホームレス達の列が動き始める。そして涼一の不安を余所に、炊き出しが始まった。  真崎の姿が見えないことに気づいたのは、後片付けが始まってしばらく経ってからのことだった。  賑やかな三人の女子学生に囲まれてガチガチに緊張しながら掃除をしていた涼一は、そのことに気づくとすぐに、女子学生達に真崎の行方を訊ねた。 「え? ほんとだぁー。あの人、どこにもいないみたいだね」 「さっきまで他の人達と盛り上がってなかった? みんなないから、一緒にどこか行ったとか?」 「大丈夫だよ。すぐ戻ってくるって」  聞くだけ無駄だった。ずっと涼一と行動を共にしてあれこれ話しかけてきた彼女たちが、涼一が持っている以上の情報を持っているはずがない。  涼一は頭を下げ、声をかけやすそうな人を探すことにした。ちょうどいいことに、百合川が駐車場から戻ってきたところだった。 「……すみません。真崎さん知りませんか?」 「マサキさん? 涼一君について回って――って、いないねぇ。ちょっと待って。誰か見てないか聞いてくるから」  百合川は大荷物を運ぼうとしている男子学生達に声をかけに行った。男子学生達は、首を横に振ったり、何か身振り手振りを交えたりして百合川に答えているようだった。 ……邪魔をしてしまっただろうか。不安になるが、それ以上に、真崎がどこにもいないことの方が不安だった。  片付けに入るまで、涼一は真崎と一緒に公園のホームレス達が集まっているところで休憩をしていた。真崎は食事だ。配膳の途中で新藤が仕事を変わってくれ、涼一はそのまま休憩に入ったのだ。  多くのホームレス達が雨の中どこかに去って行くに連れ、公園のホームレス達も一人、また一人と去って行った。残ったのは真崎の他に鈴木と酒井だけで、三人はボランティアの学生達が撤収準備を始めても気にせず堂々と居座っていた。……それが最後に見た真崎の姿だった。あのとき、真崎は涼一の視線に気づき、鈴木や酒井と一緒に軽く手を上げてくれた。しかし今は三人とも消えている。鈴木と酒井に連れられてどこかに行ったのだろうか。ずっと傍にいてくれると約束していたのに、忘れてしまったのだろうか。  そんなことを考えていると、百合川が男子学生を連れて小走りで戻ってきた。「なんかマサキさん、新藤とどこか行ったって!」  後ろの男子学生も付け足した。 「さっきあそこにいた若い人だよね。あの人だったら、一緒にいたホームレスの人達が帰ってからすぐ、部長が声をかけてたのを見たよ。その後二人で土手の方に上がって行ったと思う。向こうだから、たぶん公園の方」  キーンと耳鳴りがする。心臓がバクバクと不自然に鼓動を早め、全身から嫌な汗が噴き出してきた。 「あの辺りだと仮設トイレがあったはずだけど、さすがに連れションってのはないか」男子学生の冗談は、少しも笑えなかった。  頭上の橋を叩きつける激しい雨の音が、胸の中に生まれた不安をかきたてる。  二人でどこかに行ったのが見間違いでないとするならば、新藤と真崎には、何か二人きりで話したいことがあったということになる。他の誰かに聞かれてもいい話なら、真崎は絶対にこの場所で用事を済ませてくれたはずだ。  しかし、そうできなかった理由。ずっと涼一の傍にいてくれるという約束を。真崎が破るほどの理由――。  百合川と男子学生はまだ何か話していたが、最後まで聞いていられる余裕は無かった。涼一は弾けるように走り出した。 「涼一君!?」  後ろから聞こえてきた声を振り切り、橋の下から飛び出る。  傘を忘れた。気づいたのは、その直後だった。  一気に雨音がうるさくなった。  バケツをひっくり返したような雨が直接全身を叩きつけ、一瞬のうちに服がぐっしょりと濡れる。  気持ち悪い。だが、引き返している暇はない。  土手に向かって走る。  雨粒が、涼一に襲いかかってくる。 ――前が……。  見えづらい。  激しい雨。眼鏡のレンズに飛び散る雨粒。ただでさえ、帽子のつばが視界の上半分を隠しているのだ。  涼一は剥ぎ取るように帽子を脱いだ。すると、今度は眼鏡が水浸しになって目の前がぼやけた。眼鏡と目の隙間から雨も入ってきて、涼一は目を細めた。  土手だ。一気に駆け上ろうとする。  泥で、足が滑った。 「うわっ……!」  ビチャッ! 顔面から地面に倒れ込んだ。  すぐに立ち上がる。顔は咄嗟に腕で庇ったおかげで無事だったが、全身が泥まみれだ。おまけに帽子も手から離れてしまった。  泥で汚れた眼鏡を手に持ち、立ち上がって走り出す。  はっ……はっ……自分の荒い息の音が、この激しい雨の音以上に聞こえてくる。  土手を上りきった。並木道だ。  涼一の体力は限界だった。胸が押しつぶされたように苦しくて、まともに呼吸もできない。脚だってもう持ち上がらない。 「はっ……、まさきっ……、さ……」  真崎――本名かも分からないその名前だけが、壊れそうな涼一を限界の先まで動かす。  唇を伝って口に入ってきた雨粒を吐き出し、 並木道を突っ切る。そこから少し走ると、東屋のある公園にたどり着いた。  キョロキョロと辺りを見回す。  傘を差して散歩していたカップルが、泥だらけの涼一を見て驚いた顔をする。それだけだ――いや。  東屋。  遠く離れた東屋の屋根の下、こちらに背を向ける陰が二つ見える。  背の高い男が二人……真崎と新藤。 「まさきさんっ……!」  叫んだつもりだった。けれども声はかすれ、激しい雨音に邪魔されて真崎には届かない。  泥濘んだ地面に足を取られながら、無我夢中で走る。  バシャバシャバシャ、足下で泥が跳ねる。  近づいて見えた。真崎の手にはスマートフォンがある。真崎と新藤は向かい合い、小さな画面を覗き込んでいる。  新藤の指が画面に触れた。 ……頭の奥で何かが弾けた。 「真崎さんっ!!」  悪い魔法が解けたように声が出ていた。  真崎と新藤は驚いた顔で同時にこちらを向く。涼一は東屋に転がり込んだ。 「涼一……」  真崎が呟く。その瞬間、涼一の足は止まった。世界中の時間が止まり、あらゆる音が止んだ。  涼一を見る真崎の目。驚愕に見開かれ、そして細められる。  困惑、動揺……憐れみ。  再び世界に音が戻った。ザーッと降り続ける雨の音。その向こうで、機械から発せられる不自然な音が響いた。 『シーコーれ! シーコーれ!』  少年達の囃し立てる声。  バラバラな手拍子。  男女入り交じった笑い声。 『うわっ!! こいつマジでシコった!』 『ウッソ!? やだ、キモー! マジ死ねよ!!』 『はーい!! 学年一位の優等生、村瀬涼一君のオナニーショーが始まりましたぁー! みんな拍手ー!』 『何が拍手だよバーカ! おい、ゴミ箱』  そこで音は止まった。動画が終わったのではなく、真崎か新藤が動画を止めたのだ。  だが涼一には、その後の展開が手に取るように分かる。  同級生十人に囲まれて黒板の前に立たされた全裸の男子中学生の前にゴミ箱が運ばれてくる。運んできた生徒は、そこに男子中学生の制服と下着を捨てる。ただ捨てるだけでなく、傾けたゴミ箱に足を突っ込んで奥の奥まで押し込むのだ。そうして男子中学生の服がゴミの中に埋まると、笑いながらゴミ箱から離れる。  カメラは徐々に全裸の生徒から離れていく。 他の生徒達も一緒に離れ、遠巻きに全裸の生徒を撮影し続ける。  少しの間沈黙が続き、全裸の生徒が泣きながらゴミ箱を漁り出すと、どっと笑いが起きるのだ。『汚ねー!』『潔癖症のくせにゴミ箱に手を突っ込んでもいいんですかぁー!?』そんなふうにからかって。  耐えきれなくなった全裸の生徒は、ゴミを漁ることもやめてゴミ箱の陰で泣き崩れる。……その生徒は、三年前の涼一だ。 「涼一」  固まってしまった涼一に、真崎が一歩近づいて来た。涼一も一歩下がり、いやいやと首を横に振る。 「涼一、大丈夫だ……」  真崎がまた近づいてくる。視界が濡れ、その顔がぐにゃりと歪んだ。 「ごめん! 俺が真崎さんに見せたんだ!」  新藤の声は耳を通り抜けていく。  すぐ目の前に迫った真崎が、涼一の目元に恐る恐る手を伸ばしてきた。 「涼一」  昨日抱きしめ、頭を撫でてくれた。その手が唯一の救いだった。誰よりも大切な母親にすら触れられることに抵抗のある涼一でも、真崎の大きな手だけは許すことができた。そんな人に、初めて出会えた。 ……それも終わりだ。  真崎は知ってしまった。涼一が決して見せたくなかった惨めな傷を、真崎は知ってしまった。  もう一緒にはいられない。 「僕じゃない!!」  叫び、真崎の手をたたき落とす。 「っ……! お前……」 「僕じゃない!!」  もう一度叫んだ。そして真崎を突き飛ばした。  しかし、突き飛ばしたつもりになっていたのは涼一だけだった。真崎のがっしりした体は揺るがず、ボロボロになった涼一の方がよろけて転んでしまった。  ズザッと地面の上に転がる。 「涼一!」  真崎は慌ててしゃがみ込み、涼一の肩に触れてきた。 「触んな!!」  思いっきり手を振りかぶった。その手は真崎の口元に直撃し、真崎は顔を顰めた。 「痛ってぇ……」 「涼一君!! 落ち着いて!」  新藤の声。  うるさい。お前が全部ぶち壊したくせに。 涼一は立ち上がり、東屋から飛び出した。 「待て! 涼一!!」  すぐ後ろから真崎の声が追いかけてきた。逃げたが、泥を跳ねて走る足音はすぐに追いついてきた。  腕を掴まれ、無理やり振り向かされた。咄嗟に振りほどこうとして、逆に、大きな体に抱きすくめられた。 「涼一……!」 「離せよ! 触んな!!」  必死に逃れようとして暴れ、真崎の胸を叩き、顔に爪を立てる。 「離せよ!! 僕じゃないって言ってんだろ!!」 「分かってる。お前じゃない」 「うるさい!! 見んな! 触んな!! お前なんかホームレスの癖に、なんで……!!」 「大丈夫だ、涼一。お前じゃない。分かってるから。大丈夫だ」  真崎は涼一を離さなかった。壊すような強さで押さえつけてくる。涼一の頭を撫で、何度も何度も大丈夫だとくり返し続けた。  雨が二人の体を叩きつける。服はぐっしょりと濡れ、肌に貼り付いていた。  肌の上を這い回る雨は涼一の体から体温を奪っていく。けれども、真崎の体だけは異常なくらい熱かった。まるでこの世界の中で、真崎だけが温度を持っているようだ。 「うっ……」  熱が移る。喉が熱くなり、鼻が、目の奥が熱くなる。そして目の奥から、熱が弾き出された。 「うぁ……、ああっ、あぁ……」  止まらなかった。涙があふれ出し、止まらない。  どうして見た? どうして知らないままでいてくれなかった?  もう終わりだ。何もかも。あんな惨めな過去を知られて、これ以上一緒にはいられない。 「あぁあああ!! なんで!? なんでぇ!?」  泣き叫びながら、真崎のぐっしょりと濡れたシャツに拳を叩きつけ続けた。それでも真崎は、ずっと涼一を抱きしめたままでいた。

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