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第10話

 梅雨が明けるとすぐに夏が始まった。強い日差しが照り付け、絡みつく風は不快なまでに暖かい。一歩外に出れば毛穴が開いて汗が噴き出す。汗で体がべたつくことが嫌いな涼一にとっては最も嫌な季節だ。  それでも平日の昼を少し過ぎた時間になれば必ず、いつものベンチに並んで座る真崎と涼一の姿があった。 「最近他の人に全然会わないです」  涼一が言うと、真崎はああともおおとも取れる返事をした。口いっぱいにほおばっている冷やし中華を数回噛んでから飲み込み、今度こそしっかりと返してきた。 「暑いからな。みんな日中は図書館とか商業施設とか冷房が効いてるとこに移動すんだよ。夕方になれば帰ってくる」 「そっか。普通はこんなに暑いと避難しますよね」 「鈴木さんとかタカオさんならたまにいるぞ」 「暑くないんですか?」 「暑いに決まってんだろ。でもあの人達のとこは扇風機も冷蔵庫もあるからな。死にはしないだろ」  興味なさそうな声を出し、真崎はズズっと冷やし中華をすすった。汁がかなり飛び散ったはずだが、アロハシャツの派手な模様のおかげで染みは全く目立たない。 「真崎さん。冷やし中華で大丈夫でした?」 「ああ。夏になると無性に食いたくなるからちょうど良かった」 「なら良かったです。母さんが食べたいからって買ってきてくれたんですけど、冷やし中華なんて麺を茹でて野菜を切るくらいしかやることないじゃないですか。手抜きしてるって思われないか心配だったんです」 「毎日メシ用意してもらっといて、そんなこと思うかよ」 「それなら良かったです」 「ああ」  涼一が真崎に昼食を作ってくるようになったのは、二人が体を重ねてからすぐのことだ。  真崎に喜んで欲しくて何か差し入れをしたいが家には何もない。買いに行くにしても、まだ普通の店で買い物する勇気はない。そんなとき、冷蔵庫に入っていた卵で卵焼きを作ることを思いついた。  家事を一切手伝わない涼一だが、卵焼きの作り方は昔調理実習で習った記憶がある。うろ覚えながら二十分もかけて作り上げた卵焼きは半分スクランブルエッグのようになっていて、今思えば味も全くしなかったはずだ。卵四個に対し、調味料は塩を一振りしか使わなかったのだから。  そんな失敗作だと言うのに、真崎は綺麗に完食してくれた。美味かった、初めてにしちゃ上出来だ、そう言って何度も頭を撫でてくれた。それ以来、涼一は母と自分の分も含めて食事を作るようになった。  材料は前日のうちに凉江に頼んで買ってきてもらう。メニューは凉江から買ってもらったレシピ本や栄養素の本を参考にして決める。そしてそれが村瀬家の朝ご飯から夕飯までになり、凉江の弁当や真崎への差し入れにもなる。  もっとも、可愛い息子の手料理がホームレスの胃袋にまで収まっているなんて、凉江からすれば青天の霹靂に違いない。涼一は「どうせ一日中家にいて暇だし」という理由しか凉江に伝えていなかった。  ジジジジ。近くで、遠くで、至るところでアブラ蝉が鳴いている。  夏だ。  真崎は筋肉質な体のせいか、涼一の倍以上も汗を掻いている。先週短く切ったばかりの髪はシャワーでも浴びたみたいにぐっしょりと濡れ、髭が綺麗に剃られた顎には汗の粒が光っている。触れれば落ちそうだ――そう思った直後、ポタッとハーフパンツの上に落ちた。涼一は「あっ……」と小さく漏らす。 「なんだよ」 「いえ」  涼一は汗ばんで赤くなった顔を背け、少し下がってきた眼鏡を指で押し上げた。真崎がタッパの蓋を閉める音が聞こえてきた。 「ごちそうさん」 「あ、もう――」 「行くぞ」  涼一の言葉を最後まで聞かず、真崎は涼一に箸とタッパを押しつけて立ち上がった。そのまま振り返らずに歩き出す。  涼一も慌てて荷物を纏めて後を追った。すぐに真崎に追いつき、二歩後ろを付いて歩く。 いつものことだ。  昼過ぎにいつものベンチで落ち合い、この暑さで痛んでしまわないよう先に昼食を摂る。それから二人が向かう場所はいつも決まっていた。  最近ではホームレスと思えないほど身綺麗になった服とは対照的にボロボロで靴底が剥がれかけている靴を眺めながら、涼一はそこへと向かった。  青い世界。青い、青い。とても青い。風が、青を震わせる。  晴れた日のここは、ブルーシートが光を透かして、眩しい青でいっぱいに囲まれる。涼一はそれを見て、ときどき海の中にいるような気分になる。  特に意識が朦朧としているとき。  怖いくらいの苦しさと気持ちよさで呼吸もおぼつかなくなりながら体を震わせているとき、涼一は自分がドキュメンタリー番組でよく見る海中の中にいるような気分になる。そしてそれは、溺れているという意味でなら、あながち間違いでもない。  真崎のテントの中。この世界の中でたった一つ、真崎と涼一が体を重ねることが許されている場所。真崎は食事を終えると必ずここに涼一を引きずりこんで抱く。甘い誘いの言葉なんて一つも無い。黙って涼一を連れ込み、黙って涼一の体を貪るのだ。  天国と地獄を行き来するような行為だ。  この時期、テントの中は文字通り地獄と化す。  真崎のテントは木陰に作られていて直射日光こそ当たらないが、夏場は空気自体が熱を持っている。テントの中は重苦しい暑さが充満しており、おまけに、通気性の悪いブルーシートに囲まれているせいで風はろくに入ってこない。テントの中に窓があるはずもなく、冷房設備だって当然ない。  唯一あるとすれば、入り口に垂らされた簾だ。いつもはブルーシートでしっかりと閉じられているのだが、真崎は涼一を連れ込んでセックスするときだけ、入り口に簾をかけて目隠しをする。  目隠しとしてはあまりにも心許ないし、簾のおかげでどれだけ風が入ってくるのかも不明だ。しかし、ブルーシートをしっかりと閉じてくれとは頼めない。そんなことをすれば間違いなく熱中症になる。だから簾を受け入れるしかなかった。  それでも暑いものは暑い。  少し前、涼一はデスク用の小さな扇風機を家から三つ見つけて持ってきた。微風程度の力しかないが、これなら乾電池式のため真崎の家でも動かすことができる。  それに、水道水を入れて凍らせたペットボトルや保冷剤、氷を入れて口を縛ったビニールも持てるだけ持ってくる。持ち運びは大変だが、それを扇風機の前に置くと冷たい風が送られてきて少しはマシになる。  真崎の布団は、二回目にこの家に招き入れられたときには変わっていた。あの汚く嫌な臭いのした布団はどこかに消え、今では一目で新品と分かる綺麗な布団が地面に敷かれている。枕も新しい物に変わっていた。  綺麗な布団の上で涼一は自分から裸になる。 真崎もそうだ。その間も、二人の間に会話はない。まるで声を出したら死んでしまう魔法でもかけられたように、このテントの中に入ると真崎は言葉をなくす。だから涼一も言葉は忘れたふりをする。  真崎が布団の上に横になると、涼一はその脚の上に跨がった。  目の前には真崎の股間がある。皮が向けた赤黒い肉の塊は、既に大きくそそり立っていた。涼一は根元を優しく握り、太い幹に舌を這わせた。  フェラチオと言う。その言葉が指す行為は真崎に教えられる前から知っていたが、されたいともしてみたいとも思ったことはなかった。排泄器官を口で愛撫するなど正気の沙汰とは思えない。  初めて真崎からフェラチオを求められたときも激しく躊躇した。その日、真崎は涼一をテントに連れ込むなり性器を取り出して顔前に突き付けてきたのだ。そして涼一の唇を何度も執拗に撫でてきた。  やはり無言で、それをどうしろとも言わない。けれども、そこまでされれば何を求められているのか分からないはずがない。  同じ男の、排尿を行う器官。汚くグロテスクで、これまで何人の女を犯してきたかも分からない……今では涼一を女のように犯すための生殖器。  真崎のそこの後ろには大きな陰嚢がぶら下がり、周りには濃く黒々とした陰毛が生えている。腰はがっしりと広く、太ももは硬い筋肉で膨らみ、そこにも濃い毛が生えている。  嫌悪と恐怖と羞恥で目眩がした。舐めることを想像したら吐き気がした。それでも唇を付けてしまった理由は今でも分からない。  初めは恐る恐る唇の表面だけで触れ、それから舌先でも触れるようになり、最終的には真崎の性器を頬張って口全体を使って愛撫するようになっていた。夢中で真崎の性器をしゃぶり、涼一は勃起していた。そして真崎が涼一の口の中に吐き出すと、それも全て飲まされた。口から溢れてしまったものまで舐めとらされ、そこまでして、ようやく後ろを犯してもらえた。  以来、二人の行為は必ずフェラチオから始まる。真崎が口淫を好むとうこともあるだろうが、きっとそれだけでなく、真崎は涼一にとって口を犯されることがどういう意味を持つのか気づいていたのだろう。  涼一にとって、フェラチオは後ろを犯されることよりもずっと重い行為だった。だから 初めてそこに唇をつけた瞬間から、涼一はもう真崎に許せないことなど一つもなくなった。自分の全てを真崎に捧げたのだ。  もう何度も舐めているから、どこを舐めれば真崎が喜んでくれるのかは分かる。口を精いっぱい開けて真崎を頬張り、裏側の筋を舐める。それから先の割れ目に舌を入れ込むように舐め、吸い付きながらまた裏筋を舐める。真崎のものは嵩を増し、口にしょっぱさが広がった。  真崎は体だけでなく性器まで大きい。すぐに口が疲れてしまい、仕方なく口を離した。  代わりに両手で優しく撫でながら、全体を舐め、吸い付くようにキスをする。顔を下にもぐすようにして、後ろの袋も舐めた。真崎のものも涼一の顔も唾液でだいぶ汚れてくると、真崎は涼一の頭に手を置いて軽く押した。もういいという合図だ。  体を起こし、ペットボトルの温い水で口の中を潤す。ほっと一息ついたのも束の間、待ちきれずにソワソワしていた真崎から、真っ白いタオルできつく口を縛られる。こうされるのは息苦しくて苦手なのだが、口枷をしないと声が外に漏れてしまうから仕方なかった。  準備は終わった。涼一は四つん這いになり、真崎に向かって尻を掲げて後ろを広げる。真崎が鼻から深く息を吐く音が聞こえた。  むわっと噎せ返るような空気が動く。  大きな手で尻の肉を掴まれた。強い力で、指が肉に食い込んでくる。  熱い塊の先端が穴に触れる。 「ふっ……!!」  涼一の体はビクンと跳ねた。  真崎の性器。欲しい。早く。もっと奥へ。  涼一は自分から穴を真崎に押しつけた。ヒクヒクと収縮する入り口が開き、太い塊がゆっくりと入ってくる。  真崎の性器だ。  ほっとした。直後。それは凶器に変わる。 「んぐぅうううっ……!!」  口枷でも抑えきれない声が漏れた。  一気に杭を打ち込まれたのだ。毎日抱かれているせいで真崎の形を覚えた体はあっさり開き、たった一突きで真崎の性器は全て涼一の中に入ってしまった。 「ん、うっ……、ふっ……う」  心臓がバクバクと鼓動を強め、口の中のタオルが水分を吸っていく。窒息してしまいそうだ。  涼一は項垂れ、なんとか呼吸を整えようとする。そんな努力も無駄だった。真崎が激しく腰を動かし、涼一の奥を叩きつけてくる。 「ふぅっ……!! ん、うっ、うぅ……!」  パン、パン、パン。肌がぶつかり合う。その音はとても大きく、隙間から光を通してしまう簾に向こうが気になった。  もしも誰かが近くを通りかかったら、もしも誰かに真崎との関係を知られたら。  怖い。  真崎を失うかもしれないことが怖い。  そのくせ、体はそんな意思に反して真崎を求める。  入り口の簾を眺めながら、涼一も滑稽なほど腰を振る。そうしないと気が狂ってしまいそうだ。  あっという間に高めさせられる。タオルを噛みしめ、涼一は大きく背中をのけぞらせた。 「ぃっ…………!!」  吐精すらない絶頂だ。  目の前がチカチカする。  体をビクビクと痙攣させながら長く苦しい絶頂に耐え、ようやく鎮まると横面を布団につけてぐったりした。  体が異様に熱い。汗が止まらない。  ブブブと微風を送る扇風機如きでは到底冷ませない熱だ。テント内の温度も三十度は越えているだろう。体を押しつぶして喉を塞いでくるような暑さに頭がクラクラする。――いや、感じすぎているせいかもしれない。いずれにしろ暑い。手を伸ばし、氷が溶けてほぼ水しか入っていないビニール袋を引き寄せた。そんな水でも冷たく感じた。  暑いのは真崎も同じだ。涼一の背中には真崎の汗がボタボタと落ちてくる。真崎は涼一が達している間ずっと動きを止めて待っていたが、落ち着いたとみると、腕で乱暴に汗を拭って動きを再開させた。 「ん……!! ふっ、ふっ、ふっ……!」  涼一は唾液を吸ったタオルを噛みしめた。  奥を乱暴に突きあげられる。その度に胃の中身を吐き出してしまいそうになった。  力をなくした涼一の体は真崎の激しい腰使いに合わせて前後に大きく揺さぶられる。真崎は涼一の腕を掴んで布団に押しつけ、更に突いてきた。骨が折れてしまいそうだ。  肉が擦れ合い、体の奥から無理やり快楽を引き出される。涼一はうつろな目でむせび泣いた。  涼一からのフェラチオ。涼一に自分から穴を広げさせること。アザができるほどの力で涼一を押さえつけること。達したばかりの涼一をまたすぐに快楽の海に引きずり込むこと。後ろからのセックス。涼一の中での吐精。  真崎が好むセックスだ。そしてそれは、涼一が好むセックスでもある。  突然、ひときわ強く奥を叩かれた。その弾みでビニール袋を押しつぶしてしまう。  薄いビニールの膜が破れた。中の水がビシャッとぶちまけられ、布団が濡れた。その瞬間、真崎も涼一の中にぶちまけた。 「っ……、は……」 「……んひっ、う……うぅっ……」  涼一は体を丸めて布団を掻きむしる。  息ができない。  溺れてしまった。  もう体に染みついてしまった、中に吐き出される感覚。真崎の精に溺れている。  涼一の中に全て吐き出すと、真崎は涼一の口からタオルを外してくれた。ようやく息ができる。涼一はだらしなく口を開け、吐き気がするほどの熱気を吸い込んだ。 「はっ……、はっ……」 「あっちぃ……」  真崎もぼやいた。このテントに入ってから最初に出たまともな言葉がそれだった。  真崎は汗でべとべとになった体で涼一の背中に抱きついてくる。  真崎の体は発熱しているように熱い。涼一の体も似たようなものだろう。暑いなら体を離せばいいのに。  しかし涼一はのろのろと振り返り、水でも被ったような真崎の頭を撫でる。真崎は気持ちよさそうに目を閉じた。 「……あっつい、ですね」  疲れ切った男の顔が、どうしようもなく愛しかった。  「俺は夏が一番嫌いなんだよ」  不動産屋の広告が入った団扇で裸の上半身を扇ぎながら、真崎はうんざりした顔をする。  さっき公園の水飲み場で蛇口の下に頭を突っ込んで水をかぶった真崎の髪は濡れて黒々と光っている。「僕もです」と答え、涼一は公園の水道水を汲んできたバケツにタオルを突っ込み、軽く絞ってから真崎の背中を拭いた。終わると体の前へ。厚い胸や腹をびしょびしょのタオルで拭いて体を濡らしていく。二人が敷いているレジャーシートにはポタポタと水滴が落ちていた。  真崎の家の前。さっきまでの行為など存在しなかったように、二人は仲良く涼んでいた。  少し前まではセックスを終えるといつものベンチに帰っていたのだが、最近ではこうして真崎の家の前でのんびり過ごすことが多くなった。人目を気にしなくて済むこの場所でなら、真崎に裸で過ごさせてやることもできるからだ。  テントは林の中にあるため、だいたいが木陰になっていて直射日光を浴びることはない。それでも葉の隙間を縫って降り注いで来る日差しもあるため、真崎はどこからか手に入れてきた遮光カーテンを物干し用のロープに張り、簡易的な日除けを作ってくれた。日除けの下にはレジャーシートを敷き、角には蚊取り線香まで用意されている。ここではさすがに涼一も帽子は脱いでいた。 「リョウ。大丈夫か?」  温くなったタオルをバケツの水に浸けて濡らしていると、真崎が涼一の方をパタパタと扇いできた。送られてくるのは熱気だけだが、少し息が楽になった気がする。 「僕は……はい。暑いには暑いですけど、アスファルトの地面じゃないだけマシです」 「アスファルトの上ならとっくにウェルダンだな」  真崎は冗談めかすが、その表情見るとだいぶ参っているようだ。今日は最高気温が三十二度という話だから当然だろう。気化熱を利用して少しでも冷やそうとさっきから体を拭き続けているが、真崎の額を流れる汗は休むことを知らない。服を着てせっせと働く涼一よりも汗をかいているようだ。それを見ていると、さすがに申し訳なくなってくる。 「僕たちもどこか図書館とかに行きますか?」 「いや。ここの方が俺も気が楽だ」  その言葉をどこまで信じていいのか不明だが、正直ほっとした。涼一は「すみません」と謝り、よく絞ったタオルで真崎の額の汗を拭いた。 「お前、最近どうなんだ?」 「何がですか」 「夏休み入ったろ。最近朝っぱらからラジオ体操してるし、平日の昼間でも子供の騒ぐ声がうるさいから――」  タイミングのいいことに、どこか遠くから子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。声の調子から言って小学生だろう。 「……ですね」    涼一は平静を装って笑った。  無意識のうちに止めてしまっていた手を動かそうとする。その手を掴まれ、厚い胸に抱き寄せられた。  服が濡れていく。真崎の体を濡らす滴を吸い取っているのだ。水は蒸発するときに温度を奪ってくれるはずだが、夏の暑さと二人分の体温で生温くなった水はただただ不快なだけだった。 「夏なんてさっさと終わればいいのにな」 「僕はもう大丈夫ですから」 「お前の大丈夫は信じねえよ」  ばっさりと切り捨てられた。  真崎は寸分の躊躇いもなく宣言した。 「お前が大丈夫かどうかは俺が決めてやる」  だとすれば、どれだけ幸せだろう。自分の意思を完全に捨てて真崎に全てを委ねるのは堪らなく魅力的に思えた。  だが、こんなところでホームレスをしている真崎に、そこまでの覚悟があるはずがない。  例えば涼一がテント暮らしでもいいから真崎と一緒に暮らしたいと言い出せば、真崎は間違いなくその要求を拒む。あるいはどこかに逃げてしまうに違いない。  こんな生き方をしていても真崎は大人だ。まだ子供の涼一なんかよりずっと、この社会の常識や現実を知っている。だから涼一との間に付きまとう面倒事や責任にも気づいているはずだ。そしてそれを背負うほどの覚悟は持ち合わせていない。  テントの中で何も言わないのが証拠だ。テントの外でも、真崎は絶対に涼一との行為について言葉にはしない。まるでそんな事実など存在しないように表面上は振る舞い、そのくせ涼一の体を手放そうとはしない。責任には背を向けるくせに、自分が涼一の所有者であるような顔さえしてみせる。  真崎は卑怯なのだ。弱くてずるくて卑怯だ。まだ取り返しのつかない年齢でもないのに路上生活を止めないのも、きっとそのせいだ。  だが、卑怯な本性の一方、真崎は涼一の弱さをそのまま受け入れてくれた。だから涼一も真崎の狡さはそのまま受け入れる。何も気づかない世間知らずの馬鹿な子供の振りを続けて真崎の傍にいる。そう決めた。 「本当は大丈夫じゃないです。小学生だけならまだマシなんですけど、最近僕と変わらないくらいの子もここに来るまでに結構見かけるから。高校も夏休みに入ったみたいです」 「なんならタクシー使うか? 少しなら出してやるぞ」 「本当にきつくなったら、お願いします」  涼一は苦笑し、真崎から体を離した。こんな場所でも絶対に人が来ないとは限らない。 あまりベタベタしない方がいいだろう。 「でも、おかげで毎日のんびりできるようになったんですよ」 「そういやお前、最近帰りが遅くなったな」 「前は小学生の下校時間前に帰ってたんですけど、もう気にする意味もないですから」  最近の涼一は十七時過ぎに公園から出ることが多くなった。そのくらいだと、帰ってからシャワーを浴びる時間を合わせても母の帰宅に間に合う。 「開き直ったってわけか」 「なんですかね。やっぱりまだすれ違うときとか隣に並ばれたときに緊張しちゃうんですけど、顔を上げないようにしてさっさと距離を取っちゃえば平気です」  それに、と涼一は思い出し笑いを噛み殺そうとする。嫌な予感でもしたのか、真崎は「なんだよ」と眉間に皺を寄せる。 「オールドソックス、思い出してると結構平気だし」  真崎は思いっきり嫌そうな顔をした。  少し前に真崎がオーソドックスと間違えて口にした単語だ。古い靴下……それを疑問に思う様子もなく真顔で言うものだから、涼一は腹がよじれるほどに笑ってしまった。 「どうせ英語もできねぇ留年ギリギリの高卒馬鹿だよ。悪いか」  開き直り……ではない。真崎は鼻息荒く腕を組み、涼一に背中を向けた。完全に拗ねている。  いつもは頼り甲斐のある広く筋肉質な背中なのに、こういうときだけは馬鹿みたいに可愛い。涼一はにやけそうになる口元を抑え、後ろから真崎の肩に頬を寄せた。 「真崎さん」  真崎はフンっと鼻から息を吐いただけだ。返事はない。  涼一は甘えて足下にすり寄ってくる猫のように「ねえ」と真崎の肩に頬を擦り付ける。 「僕なんか中卒なんだけど」 「……お前はアレだろ。なんか賢いって話だし、引きこもってからも勉強頑張ってんだろ」  拗ねてはいても涼一に対するフォローを忘れないあたりは律儀だ。だが濃い顔を不機嫌に顰め、涼一の方は一切見ないあたり、なかなかの頑固者でもある。 「僕、中学の時は学年一位キープしてました。塾は通ってないんで模試は受けたことないんですけど、全国学力テスト程度なら普通に満点取れます」 「…………」  真崎がようやくこっちを見て、何か言いたげな顔をした。実際に口にはしないが、言いたいことはだいたい分かっている。 「でも頭がいいってわけじゃないと思うんです。単に勉強が苦にならない性格とか、『こういう問題はこう解け』みたいな用意された筋道に疑問を持たずに受けいられるとか、そういう勉強向きな性格のおかげなだけなんです。だからたぶん社会に出ても役に立たないタイプです」 「そんなことねえよ。そういう素直な優等生タイプだって社会には必要だ」 「真崎さんは頭の良さは分からないけど、凄く優しいです。道で吐いてた見知らぬ僕のことも助けてくれたし、力が強くて頼りになるし、無人島に漂流しても生きていけそうなサバイバル力は感じます」 「んなもんあってたまるか。俺が路上生活者だから勝手にそう思ってるだけだ」 「でも住む家もないのに平然と生きていられるって凄い才能ですよ。それに真崎さんって結構格好いいし、体も大きいし、あと……」  頭の中で、あの青いテントの中で涼一を組み敷いてくる真崎の姿が浮かぶ。  熱に浮かされ、雄の本性をむき出しにする真崎――急に恥ずかしくなり、真崎から体を離した。  真崎はハーフパンツから出るすね毛を落ち着き無く引っ張りながら、「あと、なんだよ」と聞いてきた。 「たいしたことじゃないです」 「言えよ」 「……いい人だなって思います。僕みたいに人付き合いが下手なヤツにも付き合ってくれるし。優しくて格好良くて、僕の……」  迷った末、「憧れの人なんです」と言っておいた。それが一番、言葉には出せない真崎への想いを表現するのに近かった。  心なしか、真崎の眼差しが優しくなる。真崎は「来いよ」と脛を叩いた。そこに座れということだろう。拒む理由はない。  真崎の胸に背中を預けて座ると、がっしりとした腕が腹に回ってきて締め付けられる。嬉しかった。  だが、この距離はどうなのだろう。誰かに見られたとき、どう思われてしまうだろう。  不安になり、涼一は真崎の腕を二度叩いた。真崎はすぐに気づいてくれた。 「心配すんな。誰か近づいてきたら俺が気づいてやるから」  片手だけ下りてくる。ズボンの上から、涼一の股間を撫でた。 「なあ。今はまだ無理だけど、もう少し涼しくなったら一緒に日向に出て、ぼーっと空でも眺めて過ごそうぜ。一日中」 「……急にどうしたんですか?」 「なんとなくな。思い出した」  真崎の手は股間の上を滑り、涼一の股の奥のところを撫でてくる。  ついさっきまで真崎を受け入れていた場所だ。例えズボン越しでも、真崎に触れられてしまえば涼一の意思など関係なく反応する。  内側の肉がヒクつく。掻き出しきれていなかった精液が奥から垂れてきて、涼一は体を強張らせながら深く息を吐いた。 「っ……、真崎さん……」 「俺がホームレスになりたての頃の話だ」  その指の動きとはあまりにも裏腹な声。相変わらず、真崎の声だけ聞いていれば、涼一と真崎の間には特別なことなどまるで何も存在しないかのように思えてしまう。――きっと、それが一番正しい形だ。 「行く所はねぇし金はどんどん減ってくし、どうしたらいいのか分からなくて駅前のベンチでボーッとしてたんだ。目の前ではいろんなヤツが行ったり来たりしてんだけど、外国人でも頭がピンクのヤツでもよぼよぼの年寄りでも、みんな行く所とか帰る場所があるんだよな。そう思ったら、急に目の前の連中との間に絶対越えられない川みたいなのが見えてきた気がした」  覚えのある感覚だ。涼一は眉毛を越えて垂れてきた汗を手の甲で拭った。 「そんなとき、隣のベンチにやってきたホームレスのオッサンが人目も気にせず寝ちまったんだよ。それ見たら、律儀に座ってる自分がアホらしくなってさ。俺も真似して寝転がってみた。そしたらさ――空が見えたんだ。雲一つなくて、南国みたいな真っ青な空が」  真崎は顔を天に向ける。今二人が頭上に見ることができるのは、遮光カーテンに散りばめられた星の模様と木の葉の緑だけだ。それなのに、真崎の目にはその日見た真っ青な空が確かに映っている。そんな声で言った。 「あのとき、俺は本当の意味でホームレスになったんだ」  広い空を見上げて自分の小ささを思い知らされる……そんなフレーズは漫画やドラマなどで腐るほど使いまわされているが、真崎の場合はきっと違う。  人目も憚らず往来のベンチに寝転がり、真崎は解放されたのだ。真崎が全てを捨ててでも逃げ出したかった何かから。  涼一の場合はブルーシートの青い世界だ。 淡い青と真崎の腕に抱かれ、全てから解放された。  蒸し暑い空気と真崎の体温に挟まれ、全身の毛穴から汗が噴き出す。真崎はもっと酷いだろうと思って見上げると、やはり滝のような汗が流れていた。 「真崎さんはホームレスの人だったから、僕を見つけてくれました」 「そうだな」  真崎は涼一の方に顔を戻して笑う。 「俺がホームレスでもなきゃ、お前は俺から逃げただろうしな」 「そうですね」  真崎の指は涼一の弱いところから離れない。もう片方の手も、シャツの上から涼一の薄い胸をなで回す。  まだ誰もここへは来ないから、それも許されるだろう。お天道様の視線ですら、ここなら届かない。   真崎との時間は優しい時間だ。真崎は自ら底辺を選んだ人間で、その背中は本来歩むべき正しい道に向けられている。だから真崎は涼一に正しさを求めず、涼一も安心して正しくない人間のままでいられる。  ここ最近、公園の行き帰りの途中で同年代くらいの子供たちとすれ違う。  彼らは大声で笑い合い、はしゃぎ、目一杯肌を出してお洒落をしたり髪を染めたり、ヒリヒリと肌を焼く夏の日差しの下で短い夏を全力で生きている。  全身から溢れ出すのは生の匂い。輝く目が見つめる先は世界の美しい部分だけ。まだ本当の挫折を知らない。まだどうしようもない汚さも知らない。知っていたとしても、自分とは遠いところにあると信じている。その無邪気さ。若さという盲目。  忙しない蝉の声に駆られ、彼らは輝く未来に向かって走り出す。  涼一だけが動けない。小さく背中を丸めて俯き、ただ立ち尽くす。  エスカレートしたイジメが最後の一線を越えたあの日、涼一の足は歩みを止めた。  あのとき、涼一の動画を見た多くのネットユーザーが憤り、加害児童を潰そうとした。その怒りは加害児童の家族にまで及んだ。  だがあのとき義憤に燃えていた人間のうち、一体何人が今でもあの事件のことを覚えているだろう。あのときの怒りを忘れず、加害児童の今を追い続けているだろう。 ――答えは簡単だ。そんな人間は存在しない。  ネット上にある有名な巨大掲示板では、あの事件に関するスレッドが一日のうちにいくつも消費された。SNSでは涼一の事件に関する情報が光の速さで何万回もリツイートされた。しかし傍から見ている人間からすれば、そんなものは世の中に数ある事件のうちの一つ、消費物に過ぎない。  ネット上の正義や悪意は、数の力を持ってときに人の人生を狂わせる。そうしておきながら、狂わせた側の心は容易く他に移ろう。まるで畑を次々と食い荒らしては進むイナゴの群れのように。  時間を止めてしまったのは涼一だけだ。地面に膝を付け、歩き方を忘れてしまったのは涼一だけだ。涼一の傷だけが、今も膿んだまま癒えてはくれない。  しかし最近、あれから三年経ったのだと気がついた。あれから三年……そんなことさえも真崎と出会うまでは考える余裕がなかった。  濃い眉毛。そこから瞼まで深く窪み、くっきりとした二重に長い睫毛。高い鼻。少し厚めの唇。今はもう見慣れた、彫りの深い真崎の顔。 ――真崎がいる。涼一と同じく、歩くことをやめた真崎が。  それが救いだ。  歩くことはできなくとも、真崎と二人なら堂々と顔を上げて立っていられる気がする。  涼一は真崎の頬を伝う汗を舐めた。塩辛さが舌を焼く。真崎は顔色を変えずに涼一の胸から手を離し、近くに転がっていたペットボトルを取った。  透明な液体。中身は家で凍らせてきたミネラルウォーター。セックスの最中はまだ凍っていたが、とっくに溶けてしまった後だった。  涼一を見つめたまま、真崎は温くなったであろう水を口に流し込んだ。  音も立てず、ペットボトルが唇から離れる。しかし大きく膨らんだ喉仏は動かない。真崎は息も吐かずに涼一を待っていた。 「まさき、さん……」  喉が渇く。そのせいか、声が裏返ってしまった。  涼一は唇を開く。真崎の腕を二度叩く。真崎は何も言わずに涼一の開いた唇に唇を重ね、温いた水を流し込んできた。涼一の喉がごくりと動く。  ジジジジと夏を奏でるアブラゼミの声に交じり、どこか遠くで子供達が笑う声がする。遠い。とても遠い声だった。

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