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第11話
昼食とセックス、残りの時間は暑さにもめげずに体を寄せ合って一緒に過ごす毎日をくり返し、そうしているうちに日中見かける子供の数はぱたりと減った。代わりに夕方になると制服姿の学生を多く見かけ、涼一は夏休みが終わっていたことに気がついた。
夏休みが明けても、涼一が帰宅時間を戻すことはなかった。一緒にいられる時間ぎりぎりまで真崎といた。そのことについて、真崎は一度だけ「無理すんなよ」と言ったきり、もう何も言わなくなった。
暑さはまだ続いている。蝉の鳴き声もまだうるさいが、息が苦しくなるほど暑い日は減った気がする。天候が悪い日なんかは涼しく感じることもあり、そんな日はだいたい誰かしら真崎以外のホームレスと遭遇した。
最近、涼一の家でも変化があった。長年封印されていたテレビがついに解禁されたのだ。
「一年違いなんでしょ? だったら前後のどっちかに一個ずれるはずだから――」
「違うって。そんないい加減な答えなわけないじゃん。曜日の計算だからツェラーの公式使って、余りが二だからこの場合は月曜日」
涼一が答えた傍から、名門大学の学生が「月曜日」と自信満々に答える。司会のタレントが「正解です」と言って、会場中が拍手で包まれた。
「ほらね。ただ式に当てはめるだけなんだから、こんなの幼稚園児でもできるよ。レベル低すぎ」
「こんなの習った? お母さん教えてもらった覚えないんだけど」
「普通に数学の本に書いてありますー」
問題の解説が始まった。その間、涼一は足で挟んでいたクッションを空中に蹴り上げて遊んだ。しかし次の問題が始まると、すぐにソファーから身を乗り出してテレビ画面を食い入るように睨み付ける。
隣に座る鈴江は息子の姿を横目で盗み見、嬉しそうに目尻を下げた。
涼一はクイズ番組が好きだ。その中でも特に学問に特化したクイズが好きで、他には動物関係のバラエティー番組が好きだ。旅番組と料理番組も見る。
その後も漢字と英語の問題を二問連続で正解したところでCMが入った。テレビ画面には最近流行りのアイドルグループが映しだされる。涼一は足下からクッションを拾って胸に抱きしめ、背もたれに寄りかかる。
「最近のCMってなんの商品を宣伝してるのか全然分からないし。CMの意味ないじゃん」
「涼くん。腕のところ、痣ができてるんじゃない? どうしたの?」
「痣?」
涼一は凉江の視線を追った。
しまった――咄嗟に腕を隠そうとして、そんなことをすればかえって不自然だと思い直し、すんでのところで堪えた。
凉江の言うとおり、涼一の二の腕には軽く内出血の痕がある。楕円のような形のものが四本。セックス中に真崎に掴まれた痕だ。
真崎は興奮してくると力が抑えられないらしく、これまでもときどき痣やひっかき傷を作られてきた。いつも家に帰ってから体をチェックして目立つ傷があれば長袖のシャツを着ていたのだが、今日はうっかり見過ごしてしまっていたようだ。こうなれば誤魔化すしかない。
「なんだろ? どっかにぶつけたのかな?」
だが、ぶつけたくらいでこんな痕ができるだろうか。これはどう見ても指の痕ではないだろうか。
不安になったが、凉江は髪を耳にかけながら微笑んだ後で言った。
「そういえば、昔から涼くんは痣ができやすかったんだっけ。ちょっと待ってて」
凉江は立ち上がった。一度リビングを出て、少ししてから戻ってくる。
「はい。これ塗るとすぐに痣が消えるから塗っときなさい」
「薬? 大袈裟だよ。痣なんてほっとけばいいんだから」
「いいから塗っときなさい。せっかく綺麗な肌なのに勿体ない」
「女子じゃあるまいし、そういうの止めてよ」
ぶつくさ言いながらも受け取った。凉江の過保護なところはときどき鬱陶しくも感じるが、その表情を曇らせたくはない。。
薬はチューブタイプだった。蓋を外して指に出そうとして、手を止める。凉江に薬を突き返した。
「母さんが塗って」
「何? 急にどうしたの?」
「だって手が汚れちゃうじゃん。母さんが塗れって言うんだし、塗ってよ」
困惑している凉江に無理やり薬を握らせた。そのときに手が触れた。いつも触れている真崎の手と比べてずっと小さな母の手は、少しひんやりしていた。
なんとも言えない違和感が手に残ったが、涼一は何事もなかったかのように「早くして」とクッションを抱いてテレビ画面に顔を戻す。いつの間にか最後の問題が終わり、優勝者の発表と共にスタッフロールが流れていた。
最後の文字が流れ、番組は終了する。その頃になってようやく、凉江は指に薬を出した。
ベタッとしたクリームが腕に触れる。撫でるように優しく、凉江は真崎が涼一に付けた痕をなぞった。
「この夏の間に少し日焼けしたんじゃない?」
「ほとんど毎日出歩いてるからね。少しくらいは焼けるでしょ」
「日焼け止めはちゃんと塗ってる?」
「塗ってる。でもベタベタしててあんまり好きじゃない」
「だったら日傘にする? お母さんので良ければ貸してあげるけど」
「無理。男が日傘とか気持ち悪いじゃん」
「そう? たまに見かけるけど――はい、終わり」
凉江の指が離れた。なんとなく腕がくすぐったいような気がする。「ありがと」と凉江に顔を向けると、凉江は目尻を下げて笑っていた。鼻の頭が少し赤い。
「散歩は楽しい?」
「それなり」
「そっか……」
なんとなく気まずくて、涼一は話を変えることにした。
「そういや新藤さんって覚えてる?」
「最近仲良くさせてもらってる大学生の子でしょ?」
「そう。その新藤さんからメールが来て、今度ゼミの見学に来ないかって。新藤さんが教授に話を通してくれたみたい」
「本当!? 凄いじゃない!」
「別に凄くないし……」
照れ臭くて、つい生意気な態度を取ってしまった。しかし凉江は嬉しくて仕方ないというようにニコニコしていた。
「いつ頃? 菓子折でも買ってこようか? あ、お洋服! 新しいの買わないと!」
「いいって! 余計無いことしないでほっといてよ!」
そもそも、まだ誘われただけだ。行くと決めたわけじゃない。
けれども、そんなふうに喜ばれると、気持ちは傾いてくる。
「……でも、服選ぶときは一緒に選んでよ」
「当然でしょ!」
涼一はそっぽを向く。凉江の目が赤くなっていることには、気づかないふりをした。
「来週の金曜か……。それなら俺も仕事だから、どのみちお前の相手はしてやれないな」
「知ってます。真崎さんがそう言ってたから、どうせ暇になっちゃうならいいかなって新藤さんにお願いしたんです」
「しかしまぁ、新藤くんねぇ……」
何か不満でもありそうな声だ。ずっとゲーム機の小さな画面を睨み付けていた真崎は、ようやく涼一の方に顔を向けてくれた。
「っていうかお前、大学なんてお前と年が変わらないようなガキが山ほどいるんだぞ。大丈夫なのか?」
「まだ夏休み中らしいですよ」
「夏休みなのに授業があんのか?」
「新藤さんの所属しているゼミは長期休暇の間もゼミ活動があるそうです」
「新藤君のとこが授業してるんなら、他のとこも授業してんじゃないか? いざ行ってみたら学生だらけでしたってんじゃ洒落にならないだろ。本当に大丈夫かよ?」
真崎の眉間には皺が寄ったままだ。やはり不満らしい。それとも心配してくれているだけなのか。
昨夜遅く、涼一は新藤にゼミ見学をお願いしたいという旨のメールを送った。半ば勢いだ。あれから何度も激しい後悔に襲われもしたが、涼一のささやかな成長をきっと喜んでくれるであろう凉江や真崎の顔を思い浮かべると眠れないほど興奮もした。
しかし蓋を開けてみればこれだ。涼一の高ぶっていた気持ちも一気にマイナスに転じる。
「……やっぱりやめておいたほうがいいですよね。新藤さんに迷惑かけても悪いですし、後でメールで断っておきます」
「待て待て待て。そういう意味で言ったんじゃねえよ。そんなしょげた顔すんなって」
「でも真崎さんが……」
「俺の意見なんてどうでもいいだろ。つーか、俺は止めとけなんて一言も言ってねぇし。本当に大丈夫かよく考えろってことだよ。俺は傍にいられないんだし」
そうは言われても、早速出鼻をくじかれて弱気になってしまっている。涼一の情けない顔を見て、真崎は後ろ頭を掻きながらため息を吐いた。
「悪かったって。せっかくなんだし行ってこいよ。お前、最近は大学進学も考えてんだろ? だったらちょうどいいじゃないか」
「……行ってきていいんですか?」
「だから俺に伺いを立てるなよ。……まあ、ほら、アレだ。どうせ新藤君だろ? 余計なことしてくれた恨みもあるし、気持ち悪くなったら思いっきりゲロぶっかけてやれって」
頭をガシガシと撫でられた。乱暴すぎて頭が左右に揺れる。「それはダメですよ」と涼一の顔にも笑みが戻った。
仲直り――と言うとなんだか違う気がする。より正確に表現するなら「新藤の謝罪を受け入れた」とするべきか。ともかくあの出来事のあとすぐに、新藤からは直接謝られた。
真崎も付き添ってくれた。公園の入り口近くにあるベンチに、強引に割り混んできた真崎を真ん中にして三人で腰掛け、新藤は頭を深く下げて涼一と真崎に謝罪した。
新藤はゼミ活動の一環でイジメの体験談や目撃談を集めていたときに知人からあの動画を入手し、初めて涼一に会ったときも、なんとなく背格好が似ていると感じたらしい。
そして二度目に会ったとき、新藤は涼一の仕草や横顔からあの動画の生徒が涼一だと確信を持った。まずは真崎に相談することに決め――後は涼一も知っての通りだ。
新藤は土下座でもしかねない勢いで、何度も涼一と真崎に向かって頭を下げてくれた。涼一が「もう気にしてませんから。新藤さんも気にしないでください」と言ったときには、ほっとしたのか涙目になり、「ありがとう」と「本当にごめんね」をくり返していた。その姿があまりにも必死すぎて、涼一は初めて、彼を好きになれる気がした。
それからは新藤とメールのやり取りをするようになり、流れで進路の相談をしているうち、高卒認定試験を受けることを薦められた。
高卒認定試験は資格だ。合格したところで高卒の学歴を得ることはできないが、高校を卒業したのと同等の学力があると公的に認めてもらうことはできる。つまり、就職や進学で求められる「高卒と同程度」の基準をクリアできるようになるのだ。
涼一も試験の存在は知っていたが、新藤と話すまで、そんな選択肢はこれっぽっちも頭になかった。
ずっと、一つの道だけが正解なのだと思っていた。中学を卒業したら高校、高校を卒業したら大学か専門学校。そんな「普通」だけが涼一にとっての正解だった。
しかしどうやら、世間には涼一が思う以上に多くの道が用意されているらしい。視野を狭めた涼一が、勝手にその道を「道」と認めなかっただけだ。
「なあ涼一。アイツどうなった?」
いつの間にかゲームを再開していた真崎に聞かれ、涼一は鞄からゲーム機を取り出した。
「連れてきましたよ。ちょっと待っててくださいね」
「おう。悪いな」
ゲームを起動し、スタートボタンと○ボタンを連打して通信機能まで急ぐ。
「えーっと、ディアールのレベル一ですよね。……いました。そっちからは適当にいらないのを送ってください」
「了解。行くぞ」
「はい」
ピッピッピッとお決まりの電子音が流れ、真崎と涼一がそれぞれの機体で選択したモンスターが交換される。交換完了の文字が出ると、真崎は「よっしゃっ!」と嬉しそうな声を出した。
「名前もちゃんとマサになってんな。よーし、コイツのレベル上げまくって、お前のこと守ってやるからな」
「僕っていうか、僕の名前を勝手に付けたミズノスケですよね?」
「なんでもいいだろ。とにかくあのちびっこいのがいたぶられてるの見るとすげームカつくんだよ」
「だったら早く進化させればいいじゃん。もうレベル二十越えてるのに……」
「うるせーな。俺には俺のやり方があんだよ」
真崎の指が小さなボタンをカチャカチャと押す。元は涼一が使っていたゲーム機だが、真崎の手に握られているのを見ると、やけに小さく見えるから不思議だ。
涼一は自分のゲーム機を鞄に片付け、真崎の肩に頭を預けて画面を覗き込んだ。小さな画面の中では、マサと名付けられたモンスターが早速バトルに挑んでいるところだった。
まだ涼一が真崎の体に触れられなかった頃、真崎は黙々とゲームをする涼一に向かって「そんなのの何が面白いんだ?」と聞いてきたことがあった。真崎はアウトドア派で、昔からテレビゲームは一切プレイしたことがなかったらしい。
そんな真崎だが、涼一が新藤に進路のことで頼るようになってから、やたらと涼一が遊んでいるゲームに興味を持つようになった。そこで涼一が家に余っていた同機種のゲーム機を貸してやったところ、予想以上にはまったらしい。近頃は涼一よりもずっと夢中になってプレイしている。
バトルは真崎側の勝利で終わった。マサはレベルが一気に四もアップし、まだ最弱のマサと途中で選手交代した『リョウ』と名付けられたモンスターもレベルが一あがった。
「結構上がりましたね」
「もうちょい上げないと安心して戦闘には出せないけどな。――って、コイツまでレベルアップしたじゃねえか」
画面が切り替わり、リョウの体が光に包まれる。進化の合図だ。
真崎はすかさず×ボタンを連打した。光が消え、『進化がとまったぞ!』とメッセージが表示される。リョウの姿は前と変わらない。
「なんで進化させないのかなー。進化させた方が絶対強いのに」
「進化させるとゴツくなるだろ? 他のモンスターならなんでもいいけどさ、コイツだけは最初から連れ歩いてて愛着が湧いてるから、あんまし変えたくないんだよ」
「そういうものですか?」
「そーゆーもんだ」
抗議のつもりか、真崎は涼一の方へ勢いよく頭を傾けてきた。
ゴツン、と頭がぶつかり合う。痛くはなかったが、そのまま頭を預けられて重たかった。「真崎さん。重いんですけど」
「リョウ」
さっきまでふざけていたような真崎の声が、急に真面目なものに変わった。
「今のままでいいじゃねえか」
どう答えたら良いのか分からず、涼一は真崎の膝に手を置いた。
蝉が鳴いている。ツクツクボウシだ。
その特徴的な鳴き声にしばらく耳を傾けていると、草を踏み分けて近づいてくる足音が聞こえてきた。
体を離し、帽子を被り直す。木の間から鈴木が現れた。
「お。今日も涼ちゃんいたな」
鈴木は涼一達が休んでいるレジャーシートの前まで来ると、その前でしゃがみこんだ。
「暑いってのに毎日ご苦労さん」
「こんにちは、鈴木さん」
「はいよ。――おいマサ。毎日こんな汚ぇテントの前でゴロゴロしてないで、たまにはどっか連れてってやれよ」
「いいんですよ。コイツは汚いテントとそこに住む汚いホームレスが大好きで通ってきてんですから」
「本当にそうならお前も毎朝早くからせっせと体洗わなくてすむのにな」
鈴木にからかわれ、真崎は露骨に嫌そうな顔をした。ちらっと涼一を睨むような目で見てくるから、涼一は何も聞こえなかったふりをして眼鏡を指で押し上げた。
「そうそう。今日は涼ちゃんに土産があんだ」
鈴木は手に提げていたコンビニの袋を広げて見せた。そこにはウイスキーの瓶とタバコ、アイスが一つずつ入っている。どちらが涼一への土産かと言えば、当然アイスの方だろう。
「涼ちゃんは外でメシを食うのが苦手って言ってたけど、これくらいなら構わねぇだろ?」
「えっと……それなら大丈夫です。チューブタイプで中身が露出してないので」
「困った性分だな。俺なんか地蔵さんに供えてある饅頭でも拾って食うってのによ」
カッカッと大口を開けて笑った鈴木は、真崎に向かってコンビニ袋を数度揺らした。そこから真崎がアイスの袋を取り出して封を破り、むき出しになった中身を涼一に向ける。
「鈴木さん、ありがとうございます。いただきますね」
礼を言ってからアイスを引っ張り出した。
シャーベット状のアイスを詰めたチューブが二つくっついている。切り離し、鈴木のぎょろっとした目を見る。鈴木がニコニコして頷くから、片方を真崎に渡した。
「真崎さん、半分どうぞ」
「ああ。鈴木さん、ごっそうさんです」
「おめぇにやるつもりはなかったけどな」
指先が冷えていく。封を切ってアイスを吸い込むと、口の内側から胃までが一気に冷えていく。
「冷たっ……」
「当たり前だろ。腹冷やすなよ」
真崎はチューブを口にくわえながら涼一の腹を裏拳で軽く小突いてきた。涼一は小突かれた腹を押さえて頷く。
「相変わらず仲いいねぇ」
鈴木は草むらに腰を下ろした。レジャーシートの上に座らないのは、恐らく涼一に対する配慮だろう。真崎には触れられるようになった涼一だが、未だに他のホームレスと触れ合うには抵抗があった。ここのホームレス達はその辺りの事情を分かってくれているようで、いつもさりげなく涼一に気を遣ってくれている。粗野に見えても優しい人ばかりだ。
鈴木はタバコを一本取り出し、「いいか?」と聞いてから火を点けた。味わうように深く息を吸い、紫煙を吐き出す。
「東さんが羨ましがってたぞ。家がなくても若けりゃ可愛い通い妻が手に入るんだなって」
「何馬鹿なこと言ってんすか」
「毎日せっせと弁当作ってきてくれてんだから可愛いじゃねえか。ウチのかあちゃんなんかバナナ一本で終わりだったぜ。――でよ、それ聞いたヤっさんがなんて言ったと思う?」
「知りませんよ。ヤスさんならどうせ酒のことでしょ」
「違ぇよ。すっげぇ真顔で、穴さえありゃあなって」
ガハハっと下卑た笑い声が響く。涼一は顔を真っ赤にした。
「いいよなぁ。俺も久々にオメコしてぇなぁ」
「鈴木さん。リョウの前でそういう話はやめてくださいって」
「あー、そうだったか。悪ぃな、涼ちゃん」
本当に悪気がないと分かっているから、「……いえ」と小さな声で答えておいた。
ここにいる人達は悪い人ではないのだが、下ネタ好きばかりなのが玉に瑕だ。
「それより鈴木さん。シケモク卒業ですか? 景気いいじゃないですか」
「おうよ。今日はお宝見つけてな。洒落たカップのセットが五千円で売れて大もうけよ。引き出物だかなんだか知らねえが、ありがたいこって」
そう言いながら、鈴木は皺だらけの汚れた手を重ね合わせて拝む真似をした。
鈴木は廃品回収や捨てられた雑誌の転売で生計を立てるホームレスだ。空が明るくなると仕事に行き、駅や公園のゴミ箱、ビルや住宅街のゴミ捨て場を漁ってまわり、売れそうな物を探してまわる。そうして集めたゴミは馴染みのリサイクルショップに買い取ってもらい、自分の懐にいれる。もちろん、立派な犯罪行為である。
「それで今日は早く切り上げて帰ってきたんですか」
「いんや。寝違えたのか首が痛ぇんだ。それで今日はもういいかって思ってな」
「大丈夫なんですか? 体が資本なんですから気をつけてくださいよ」
真崎は残りのアイスを一息に吸い込んだ。チューブが空になると、それを涼一に向かって放り投げる。
「ちょっと。なんで僕に渡すんですか」
「そこら辺に投げとくとお前がうるさいからだろ。――鈴木さん。こんなとこでタバコ吸ってないで、休んだらどうですか?」
「俺を追い出そうったってそうはいかねえぞ。どうせお前ら暇だろ? 一勝負付き合えや」
「俺は暇じゃないですけどね」
真崎の文句も鈴木は聞いていない。タバコを咥えながら立ち上がり、キョロキョロと辺りを見回した。
「他に誰かいねえのか?」
「さあ。いないんじゃないですか」
「だったらサンマだな。行くぞ」
促されて涼一が立ち上がると、真崎も渋々立ち上がった。だがやはり気乗りしないようで、面倒臭そうにボリボリと頭を掻く。
「っていうか鈴木さん。将棋ならともかく、麻雀なんてリョウには無理ですよ」
「無理なもんかい。この前俺とタカオさんとスーさんでみっちり教えてやったもんな?」
「あ、はい。その節はどうも」
一応礼を言っておいた。その瞬間、真崎はもの凄い勢いで振り向いてくる。
「おい。俺は聞いてねえぞ」
「え? 言わなきゃだめでしたか?」
「当たり前だ。何俺のいないとこで勝手してんだよ」
「……すみません。前に真崎さんが夕方まで帰って来られないかもって言ってたとき、家にいても暇だったから遊びに来たんです。そしたらタカオさん達が声をかけてくれて」
「それならそれで、なんで報告しなかった?」
「だって……」
「だってじゃねぇだろ。ここの人達に構ってもらうのはいいが、俺には報告する。あと、あんまし変な遊びまで覚えんな」
変かどうかはどうやって判断すれば良いのだろうか。涼一が悩んでいると、横からハッハッと豪快な笑い声が割り混んできた。
「こりゃあどんでもねえ過保護だ。涼ちゃん。通う男は選べよ」
「誰のせいだと思ってるんすか」
不機嫌そうだったが、真崎は「行くぞ、涼」と言って、スリッパでも履くように、踵の潰れた靴に足を突っ込んだ。
涼一も靴を履き、ついでに靴紐を結び直す。
頭上から二人の会話が聞こえてきた。
「でも良かったじゃねえか。サンマならお前でも勝ち目はあるぞ。今のうちに涼ちゃんに年上の威厳ってやつを見せてやれよ」
「なんか俺の方がリョウよりも格下みたいな言い方じゃないですか」
「当たり前だろ。お前は頭を使うってことを知らねえからな」
なんだかんだで楽しそうだ。
靴紐を結び終え、涼一は体を起こした。
歩き出す前、二人の背中に声をかける。
「あの……麻雀をするってことでいいんですよね? 秋刀魚がどうとか聞こえたんですけど、僕、目が付いている魚は苦手なんですよ。それでも大丈夫ですか?」
真崎と鈴木は同時に振り返り、蝉にも負けない声で笑い出した。
翌週の金曜日。真崎の心配は杞憂だった。
夏休み中のキャンパスは人がまばらで、新藤の所属する学部棟に入るともう人とすれ違うことはほとんどなくなっていた。
十人にも満たない学生と一緒に授業を受け、
終わると少し学内を見てから学食に移動した。
新藤が「キャンパス内の移動用に自転車を置いてる人もいるみたいだよ」と言うだけあって、大学内はとても広い。食堂も全部で三つあり、涼一達はその中でも唯一夜まで営業している学食に入った。十五時を過ぎて他の二つは閉まっていたからだ。
「カフェもあるんだけど、そっちは結構人が集まるんだよね。その点、この時間の学食はガラガラだから結構穴場なんだ」
新藤は少し離れた席で熱心に勉強している男子学生を目で示した。
広い学食には他にも学生らしき人がまばらに座っているが、まともに食事をしている人は見当たらない。一人でいる人は勉強、グループでいる人はお喋りに興じているのがほとんどだった。
「勉強するなら図書館の方がいいんじゃないですか?」
「図書館は飲食禁止だから」
それから三十分ほど、新藤と大学についての話をした。話がだいたい終わってくると、今度は自然と共通の話題に流れていく。つまり、真崎についてだ。
「前から不思議だったんだけど、涼一君はどうやって真崎さんと知り合ったの?」
「真崎さんから聞いてませんか?」
「涼一君から懐かれてるみたいなことは言ってたけど、どうしてそうなったのかまではね。真崎さんって俺が涼一君の話を振ってもさりげなーく話を逸らしちゃうんだよなぁ……。でも涼一君は引き籠もりだって前にぽろっと漏らしてたから、余計にどうやって知り合ったのか気になったんだけど――って、引きこもりなんて言い方してごめんね」
「いえ。事実ですから」
今となってはもう隠すようなことでもない。涼一は真崎と出会ってから公園に通うようになるまでの経緯を新藤に軽く説明した。
「――そっか。涼一君は真崎さんに助けてもらったんだね」
軽くといってもそれなりの長さになる話を聞き終えた後、新藤は感慨深そうに呟いた。
「涼一君は自宅から出るのが困難で、真崎さんは家を持たない公園暮らし。本来なら出会うはずもない二人が偶然出会って、その結果、涼一君は今ここにいる。……なんか運命って感じだね」
運命……大袈裟すぎる言葉だったが、涼一は「そうですね」と認めた。
「俺ね、思うんだよ。一度足を止めてしまった人が再び歩き出せるようになるには、たぶん一人じゃ駄目なんだ。人が歩き出すには、たぶん、誰かの存在が必要なんだよ」
「……だから新藤さんはボランティアを?」
「そんなところかな。でも、ホームレス相手のボランティアって、子供とか障がい者相手とは周りの反応が違ってさ。ホームレスなんて自業自得なんだからほっとけとか、餌付けしてるだけで意味がないとかね」
それはほんの少しだが、涼一も思っていたことだ。ギクッとしたのが顔に表れたのだろう。新藤は「いろんな考えがあるからね」と首を傾げて笑った。
「でも俺は、そんな単純な話じゃないと思うんだ。一度全てを捨ててしまった人が元の生活に戻るのは簡単なことじゃない。住所がない、お金がない、人間関係もリセットした……その状況から仕事を見つけて住む場所も見つけるってのは容易じゃないよ。まして、ホームレスでも死なない程度に生きられるってことを知ってしまったら」
新藤は言った。ホームレスの中には、問題を抱えて社会からはみ出してしまった人も多い。酒で仕事や家族を失った者、軽度でも知的だったり精神だったりに障害を抱えて挫折した者……勿論そうでない人間もたくさんいるが、それぞれが何かしらの問題を抱えて普通の生活から外れ、惰性のように路上で生きるようになり、そのうち抜け出せなくなってしまう。
「俺たちは平気で捨てられるくらい物に囲まれているでしょ。だから分け合う。すぐそこに困っている人がいるから……例え意味がなくても、焼け石に水だとしても、その水がなければ困る人がいる。だからやるんだ」
「凄いですね……」
「凄くなんてないよ。――っていうか、俺は真崎さんにとって、涼一君がそういう存在になるんじゃないかって少し期待しているんだ」
「僕が?」
新藤は真剣な顔で頷いた。
「真崎さんはまだ若いから、ホームレスの生活から抜け出すなら今なんだよ。今のまま生活を続ければどんどん泥沼にはまっていくよ」
どう答えたらいいのか分からなかった。しばらくして、涼一はテーブルの上で組んだ手を見ながら、「今のままでもいいじゃないですか」と答えた。
「本当にそう思ってる?」
「だって……」
言葉は最後まで続かなかった。新藤はそれを、涼一の迷いだと受け取ったようだ。テーブルの上に身を乗り出し、言い聞かせるようにゆっくりと言った。
「涼一君だってあの生活の大変さは知ってるよね? 毎日きちんと栄養を取れる人は少ないし、ホームレス狩りに合うこともある。冬の寒さや夏の暑さは命取りで、テントの中で死体で発見される人もいる。アルコールにやられる人も多い。病院にだって倒れるまで行かない人も多い。あの公園の人達は楽しそうにしているけど、ホームレスの暮らしは俺たちが思う以上に過酷だよ」
「でも、真崎さんが今の生活を望んでるんだからしょうがないじゃないですか」
「望んでいるんじゃなくて、消去法とか惰性でそうなっているだけじゃないかな?」
そうかもしれない。だが真崎にホームレスをやめてと頼んだところで、聞いてはくれないだろう。それに涼一だって、真崎にホームレスをやめてもらいたいとは思っていない。
「貯金、年金、社会経験……大人にとってのブランクは大きいよ。特に男なら」
「……そんなのなくても真崎さんは大丈夫ですよ」
「だけど、真崎さん達だっていつまであの公園にいられるか分からないんだよ」
「どういう意味ですか?」
思わず顔を上げた。初めて、新藤と正面から目が合った。
「あの公園のことは昔から住んでいる人にはわりと受け入れられている。だけど公園の周りって、最近新しくマンションとか分譲地が作られてるでしょ? 新しく引っ越してきた人達からは役所にクレームが行ってるらしい」
「でも先にいたのは真崎さん達ですよ? 後から来た人が追い出すなんて変です」
「順番は関係ないよ。引っ越してきた人達はきちんと家賃や税金を納めている人で、真崎さん達は公共の場を不法に占拠している人なんだから。水道を私的に使うのだって、本来は立派な窃盗なんだよ」
「だって……追い出されたら、真崎さん達はどこに行くんですか?」
「今は公園自体ホームレスを追い出す方向にあるからね。居を構えるなら河川敷が多いかな。そうじゃなければ毎日寝床を探して回るとか、お金があれば簡易宿泊所やネットカフェを転々とするって方法もある。なんにせよ、ホームレスの人は身軽だから。その気になればどこにだって行けるよ。だから定住できる場所を失えば、また居心地のいい場所を探して移動するだけだ」
確かにそうだ。真崎はあの公園に住めるから住んでいるだけで、あの場所自体に執着があるわけではない。普通の人間と違い、家族の意向を気にしたり職場からの距離を気にしたりする必要はないのだ。
その気になれば、真崎はいつだって、どこへだって行ける。……涼一を切り捨てさえすれば。
そんな当たり前の現実を突き付けられ、涼一は血の気の引いた顔で項垂れるしかできなかった。
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