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第12話
帰りのバスの中、黙って窓の外を見ていた涼一は、動く景色の中に見慣れた横顔を見つけた。その瞬間、ずっと沈んでいた表情を一転させて停車ボタンを押した。
ぎりぎりだったらしく、すぐに停車したバスから駆け下り、邪魔な帽子を手にもって走った。
「真崎さーん!」
ようやく見えた真崎の大きなシルエットに向かって、大きく叫ぶ。
真崎は顔を上げた。西日が眩しいのか顔を思いっきり顰めていたが、涼一を見つけた途端、表情が和らいだ。
真崎の他にも数人の歩行者が涼一の方を見たが、涼一の目には全く入ってこなかった。涼一は真崎に向かって大きく手を振り、残りの体力全てを出し切って真崎のところに駆けていった。
「まさっ……、き、さんっ……。ハっ……、今、バス、っから……」
「分かった分かった。とりあえず息整えろ。な?」
涼一はコクコクと頷いた。そしてすぐに深呼吸を始めた。
ほんの少し走っただけなのに、肺が潰れてしまいそうに苦しい。それなのに、目の前に真崎がいる、それだけで嬉しくて、胸の中から喜びがブワッと湧き出してくる。全身の細胞が歓喜の叫びを上げているのが分かった。
「そんなキツいのかよ。どっから走った?」
「そこっ……、バ……って……」
「いいから黙っとけ。――お前、ちょっと運動不足なんじゃないか? メシもちゃんと食ってないだろ? ゴミだの埃だのなんて気にしないで、もう少し肉付けろよ。成長期だろ」
「はい……」
涼一は少し息が落ち着いてきてから言った。
「真崎さんは、体力あります」
「まぁ、それなりにな」
「豚に、真珠。猫に、小判」
「いきなりどうした」
「無職に……体力」
真崎は神妙な顔で黙り込んだ。涼一は更に言った。
「無職に、マッチョ」
「うるせぇよ」
コツンと頭を小突かれた。痛くはない。
「お前はどんどん生意気になりやがって。もっと俺を立てるってことを覚えろ。俺を」
「真崎さん、限定……?」
「決まってんだろ」
真崎がニヤリと笑った。
しかしそれもほんの一瞬。真崎の視線が涼一の後ろに移り、スッと表情が消える。
「こんばんは、真崎さん」
新藤が追いついたのだ。新藤も少し息が上がっていた。
「新藤君か。一緒だったのか?」
真崎がちらっと涼一を見る。だが涼一よりも先に、新藤が「はい」と答えた。
「涼一君を家まで送ってる途中だったんですけど、途中で涼一君がバスから降りちゃって、俺も慌てて追いかけてきました」
「すみません……。急がなきゃって、焦っちゃって……」
「いいよ。気にしないで」
二人の会話を横から見ながら、真崎が不満げな顔をした。そして涼一の手から帽子を奪い、目深まで被せてきた。
「っ……!! ……真崎さん?」
急いでつばを上げたときにはもう、真崎は新藤に向き直っていた。
「新藤君。今日はリョウが世話になったな」
「いえ。涼一君とお話しさせてもらうのは僕も楽しいですから」
「それなら良かった。俺も今日は仕事でコイツの相手をしてやらなかったから助かったよ。――そんなわけで、悪いな。こんな格好でさ。新藤君に挨拶するなら、せめて髭くらい剃っときゃ良かったんだが」
「いいじゃないですかー。働く男って感じで格好いいですよ。ワイルドです」
新藤は笑顔で拳をグッと握る。一方の真崎は不気味なほどの無表情で腕を組んでいた。
それにしても――涼一は帽子のつばをあげて真崎の全身をしげしげと眺める。
今朝は髭を剃らなかったのだろう。だらしない髭面は、最近こそ見なくなっていたが、体を重ねる前にはよく見ていたから物珍しさはない。だが、今日の真崎は涼一が初めて見る真崎だった。
今日の真崎は作業着を着ている。色は濃いオリーブ色で、上は丈の短い長袖、その下には黒い丸首のTシャツを着て、ズボンは足首の辺りまでがダボッと広がったニッカポッカ。
頭には白いタオルが巻かれていた。
いかにも労働者という格好だ。しかも真崎の鼻の頭や頬の辺りは日に焼けて赤くなっていて、少し離れた距離にいても分かるくらいにツンとした汗の臭いが漂ってくる。
「格好いいもんか」
嫌そうな顔で吐き捨て、真崎は頭からタオルを取った。そしてそのタオルで顔を拭き、首にかけながら言った。
「コイツは綺麗好きだから、こんな小汚い格好してるとまた嫌がられちまう」
そんなことないと否定する前に、真崎は渋い顔で新藤に向き直った。
「新藤君は大学の近くに住んでるって言ってなかったか? 随分遠回りなのに、わざわざ送ってくれたのか?」
「どうせ暇な学生ですから。涼一君に何かあったら真崎さんにも涼一君の親御さんにも顔向けできませんしね」
「過保護だな。女子供じゃあるまいし」
「そんなの関係ありませんよ。何かあったら嫌だから送らせてもらってるんです」
「…………」
真崎は苦虫をかみつぶしたような顔をして黙り込み、数秒後、突然涼一の肩を抱いて自分の方に引き寄せた。
「わっ……!!」
「新藤君はモテそうだよな」
外国人じゃあるまいし、明らかに不自然な行動だ。しかし真崎は涼一の肩を抱いたまま、平然と新藤に訊ねた。
「告白とかよくされるんじゃないのか? 俺なんかと違って愛想も良くて爽やかだし、顔だって今どきのイケメンだもんな」
「そんなことないですよ! 俺なんて全然!」
「ははっ。謙遜しなくていいよ。新藤君は付き合ってる子がいるんだっけか?」
「いやー……、えー」
「好きな子はいないのか?」
「――内緒にしてくださいよ?」
ついに観念した。新藤は爽やかな顔を赤くし、照れくさそうに笑いながら、白状した。
「涼一君には百合川で伝わるよね。うちのサークルの髪の短い女子、分かります? 彼女と付き合ってるんですよ。二週間前から」
「付き合いたてか。良かったじゃないか」
涼一の肩から真崎の手が離れる。
新藤は見ているこっちが照れてしまいそうな笑顔で、「はい!」と元気よく頷いた。
「俺、色恋沙汰は疎くて。彼女ができるのも初めてなんです。でも百合川とはいずれ結婚したいなーとか考えてて」
真崎は呆れたような顔で「若いな」と笑う。
さっきまでの不機嫌な様子は消えていた。
「だったらコイツなんかに構ってないで、早く帰って可愛い彼女に電話でもしてやれよ。後は俺が引き継ぐから」
「じゃあバス停までご一緒させてください。方向一緒ですよね?」
「いいけど、童貞卒業の感想を根掘り葉掘り聞かせてもらうぞ」
ついには冗談まで飛び出した。新藤は「勘弁してくださいよー」と困ったような顔をしながら、それでも嬉しそうだった。
新藤がまだ童貞を卒業していないことまで聞き出し、新藤とはバス停で分かれた。
昼間はあんなに長いのに、夕焼けの時間はとても短い。涼一達の向かう先では空の底から藍色の闇が顔を出し、オレンジの空を塗り替え始めていた。
二つが混じるところは薄紫に、雲は薄ピンクに、様々な色が溶け合い、心地好い薄暗さが世界を包む夢のような時間だ。
「今日はお仕事お疲れさまでした」
涼一が言うと、真崎は足下を見ながら、「ああ」と答えた。
「今日は解体のお仕事なんでしたっけ?」
「そうだ。建物ぶっ壊して、出たゴミとか資材を拾い集めんだよ。だから暑い中やるし肉体労働だし、作業服って厚手で中が蒸れるから臭くなんだよな」
臭いをだいぶ気にしているようだ。確かに汗臭さはあるが……不思議と腰に来る匂いだ。
それに作業服にはスーツと違った肉体的な
力強さが見え、がっしりとした真崎の体によく似合っている。この服の下が汗で蒸れているのか……。涼一は想像した。
ムワッと立ち上る熱気と臭気。一日肉体労働をして疲れた男の体に抱かれてみたい。汚されたい。マゾヒスティックとしか言いようのない欲望が、頭の奥を支配していく。
「真崎さん。今日は母が飲み会で遅いんです」
嘘ではない。本当にそういう予定だった。
何かを察したように、真崎は「今日は冗談抜きで臭いぞ」と言った。
「でも……九時半くらいまでなら、僕大丈夫です。母は飲み会だと十時過ぎに帰るので」
「いや、マジで汚いんだって。この時間じゃ体も洗えないし……。まぁ銭湯行ってもいいけどさ。俺も嫌だってわけじゃないんだが、夜だと他の人達がうろついてるしな」
はっきりと言葉にこそしないが、真崎も涼一もセックスの話をしている。これまで頑なにこの話題を避けてきたのに、不思議だ。今はなんの違和感もなく、これからどうするのか相談し合っている。そのことが嬉しくて、背中を押された。
「いつもよりきつく口を縛ってください。そうすれば声は大丈夫だし……体は洗わなくていいです。汚くても臭くても、僕は真崎さんのなら……いつでも舐めれます」
「…………」
真崎はタオルで口元を抑えた。数秒後、思ってもみない反応を返してきた。
「……もしかして俺、普段から臭うか?」
「え!? あ、……い、いえ! そんなことは……!」
「いや、お前が来る日は一応、早起きして体洗ってんだけどな。……加齢臭とかさ。やっぱそろそろ来てんのかなーとか」
「違うんです! 今はちょっと臭いけど、いつもは全然臭くないです! 今のはただ、真崎さんが作業服の中が蒸れるって言ったから! 真崎さんって下の毛も濃いですし、中がどんなふうになってるのか想像したら、なんか凄くドキドキして――」
自分が何を言っているのかようやく気づいたが遅かった。さすがの真崎も、若干引いたような目で涼一を見つめている。
「お前、軽く潔癖じゃなかったか……?」
「~っ……!!」
真崎の言葉に止めを刺された。涼一は涙目になり、顔を隠してその場所にしゃがみ込む。
「馬鹿! そんなとこでしゃがみこむな! 危ないだろ!」
「僕なんてほっといてください!」
「なに馬鹿なこと言ってんだ! ほら、さっさと立て!」
「うるさい! 触んなよ!」
しかし無理やり立たされた。力では真崎に適わないのだから仕方がない。
すぐに真崎を見上げ、また視線を足元に逸らす。泣きそうになっていることは気づかれているだろうが、真崎の前で情けなく泣いてしまうのは嫌で、瞬きを我慢して涙が出ないようにした。
「……すみません。僕は真崎さんといると、凄くふしだらです」
「ふし――っ!? あ、あー……いや、まぁな……。ふしだらっつーかわりとアレだけど……いや、ふしだらか……。うん」
一人で納得しないでもらいたい。だが、今はそんな文句を言う元気もない。
いつまでも項垂れていると、ポンと軽く頭を叩かれた。顔を上げる。真崎は笑っていた。
「気にすんな。俺も含めて、ふしだらじゃない男なんかいねえよ」
「真崎さん……」
「ただ、やっぱ今日はダメだわ。――誤解すんなよ。すっかり忘れてたけど、今日はこれからみんなで焼き肉することになってんだ」
「公園でってことですか?」
「ああ。もしだったら、お前も来るか? 何も食わなくても、お前がいるだけでみんな喜ぶからさ」
どうしよう。どうせ帰っても今日は一人だ。断る理由はない。
少し考えてから、涼一は「みんな?」と聞きかえした。
真崎は思いっきり嫌そうな顔をする。涼一が何を言わせたいのか分かっているのだ。しかし黙って見つめ続けると、最後には観念したように言った。
「俺が一番喜ぶっつってんだよ。言わせんな、馬鹿」
公園に着く頃には、すっかり夜の帳が降りていた。
「こんばんは」と挨拶し、既に酒の匂いが漂っている宴会場に入っていく。隣にはずっと、真崎がいた。
ホームレス達は皆涼一を歓迎してくれた。我先にと争うように涼一の分の席を用意してくれ、あれを食え、これを飲めと次々に薦めてくれた。それをやんわりと断り、涼一は真崎に買って貰ったゼリー飲料にだけ口を付けた。真崎から事情を聞いているらしいホームレス達が気を悪くする様子はなかった。
「涼ちゃん。ほんとにそんなんで足りるんかい? なんか食べられそうなもんがあったらなんでも食べていいんだよ」
スーがソワソワしながら聞いてくる。スーが持つ箸の先は、今朝自分が釣ってきた魚をガスコンロで炙ったものに向いているから、自慢の戦利品を涼一に食べさせたくて仕方ないのだろう。
「ありがとうございます。あの、後で余裕があったらいただくかもしれないです」
「そうかい!? 早い物勝ちだからね、もし食べられそうなのがあったら早いとこツバ付けときな」
スーは自分の指をペロッと舐めてツバを付ける真似をする。鈴木が手を横に振った。
「スーさん、ダメだって。涼ちゃんは口が綺麗なんだよ。それに涼ちゃんの一番嫌いな食いもん、教えてやったろ?」
「あーあー、そういやそうだった」
ニヤニヤと笑う鈴木と一緒になって、スーモ目尻に深い皺を寄せてニヤニヤと笑う。他のホームレス達も同じ顔をして、全員が声を合わせた。
「目のある魚!!」
拍手と笑い声が一斉に湧き上がる。涼一は顔が赤くなるのを感じた。
「いやー、おっかしいねえ。涼ちゃん。魚ってのはみぃんな目があるもんなんだよ」
「そ、そうなんですけど、僕が言いたかったのはそういうことじゃなくて……!」
「今どきの子はみんなそんなもんなんかねぇ」
「そこはアレよ。ゆとり世代!」
「おいおい。ゆとりはもっと前だろ? それこそマサくらいじゃなかったか?」
その場の視線が一気に真崎へと集まる。
涼一の隣で、椅子には座らずに立ったまま肉を焼いていた真崎は、「違いますよ」と顔をあげた。
「ゆとりは俺らの何年か後ですよ」
「じゃあ今の子はナニ世代って言うんだ?」
「それは知りませんけど、最近の子は店で買うのが当たり前ですからね。俺らと違って、そこらの庭から野菜盗んで食うなんてしないらしいですよ。ほら、農薬とか衛生面とかいろいろあるでしょ?」
「それじゃあホームレスはやっていけねぇな」
「ホームレスなんてやってどうするんですか」
真崎の冷静なツッコミに、再び場は笑いに包まれた。真崎はガスコンロに置かれた網に視線を戻し、トングで肉をつまみ上げる。「タン焼けましたよー。あとこっちのフランスパンとモチもいいんじゃないですかね」
タン、モチ、パンとあちこちから競り合うような声が飛んできて、真崎は差し出された更に次々とリクエスト通りの物を置いていく。一人で四台のガスコンロを見ているためかなり忙しそうだが、しっかりと自分の分も確保しつつビールも既に四杯目に突入していた。
器用に隙を突いて四杯目のグラスを空にし、涼一に酌を頼んでから、網の上に再び食材を並べ始める。
「まあでも、コイツは特に綺麗好きですからね。今食ってるゼリーのやつだって、ここに来る前にちゃっかり石鹸で洗ってから来たんですよ。パッケージは誰が触ってるか分からないから汚いとかなんとか言って」
「なんで言うんですか!?」
案の定、また笑われてしまった。ゴミさえ拾うホームレス達からすれば、涼一の性癖は酷く軟弱に映るだろう。
特にツボにハマったらしい鈴木は、ヒーヒーとおかしな呼吸をしながらから言った。
「それじゃあ涼ちゃん、マサのとこなんか通ってらんないぜ。マサなんか便所から出た後、手も洗わねぇヤツだぞ」
「だから誤解ですって! あれはあの一回だけですから! コイツが来るようになってからは石鹸まで使って丁寧に洗ってますよ!」
今度は真崎が焦る番だった。しかしその焦りが面白かったのか、他のホームレス達も次々と口を開いた。
「そういやお前、前に酔っぱらって自販機の取り出し口にションベン引っかけてたな」
「冬場は寒がって一ヶ月も頭洗わねえよな」
「臭いが危ぇから止めとけって忠告も無視して、腐った弁当食ってすげぇ下痢してたこともあったしな」
「ちょっ……!! マジで、こいつの前でだけは勘弁してくださいって!」
ところが、真崎が必死になればなるほどホームレス達は盛り上がってくる。
「マサの秘密なら任せとけ」
酒井が皺だらけの手をスッと上げて言った。「マサは二穴三穴、アナル調教の文字がなきゃ興味を示さねぇ、生粋のケツ穴好きのド変態だ」
おおっと辺りがざわつくのと、頭を抱えた真崎がしゃがみ込むのは同時だった。
「そういうプライベートな部分は守るって話だったから酒井さんのとこからエロ本買ってたんじゃないっすか……」
真崎の呟きが聞こえてくる。いつの間に完全に趣旨が変わってたが、そのことにツッコム野暮な人間は誰一人としていない。
いつも仏頂面なタカオでさえ、酒で赤らんだ頬を機嫌良く緩ませ、「お前ら、マサにケツだけは見せないように気ぃつけとけ」と冗談を言った。笑い声どころか、なぜかヒューっと指笛まで響き渡る。
「おー怖。マサのはでけぇし、痔になるのは勘弁だからな。掘られないよう、寝るときは玄関に鍵かけとかな」
「言っときますけど、俺だって毛だらけの汚ないケツなんか興味ありませんからね」
「お前!! なんで俺のケツ穴がボーボーだって知ってんだ!? さては見たな!?」
「見てませんって……。興味もありません」
真崎はのろのろと体を起こした。頭の上がらない年長者達にからかわれ、だいぶ疲れた顔をしている。
しかし涼一の視線に気づくと、慌てたように弁解した。
「涼一。違うからな」
何がどう違うのかはともかく、真崎が涼一を抱くよりも前から肛門性交好きだったことは間違いないようだ。
どうりで――涼一は納得した。
言動から考えるに、真崎は普通だ。つまり、女性が性欲の対象となる男だ。涼一相手に勃起したことも、あれからずっと涼一を抱き続けていることも、実は密かに疑問だったのだ。 涼一は男臭さが薄い。体は細く、顔も母親似だ。しかも肛門を使っての性交にはすぐに慣れ、真崎の欲を拒絶するどころか、そこだけで達することもできる。何をやっても子供を孕むこともない。男を抱く……最初にして最大のハードルさえ越えてしまえれば、女に飢えた真崎にとって、これほど都合のいい相手はいないだろう。
そんな答えに行き着いても、涼一は良かったとしか思わなかった。
真崎がアナルセックスに興味があり、涼一も肛門を犯されて悦べる体だ。そのおかげで、二人はいつも繋がることができる。
少し考えた後、涼一は座っている椅子ごと真崎から距離を取り、尻を抑えた。
「僕もお尻ボーボーだから……」
「あ?」
「ほ……、掘っちゃ、駄目ですよ?」
「…………」
真崎はぽかんとする。
涼一は顔を真っ赤にして真崎から目を逸らした。
同じように目を丸くしたホームレス達の間から失笑が漏れ始めると、真崎の顔は真っ赤になった。
「……てめぇ!! チン毛も生えねぇ顔しやがって、何がケツ毛ボーボーだ! 見せてみろ! もし一本でも生えてるなら俺がむしり取ってやる!!」
背中側に回り込んだ真崎から、チョークスリーパーで首を固められた。かなり手加減してくれているようで苦しくはなかったが、涼一は「真崎さん!! ギブ!!」と腕をバシバシ叩いた。
「マサ! 涼ちゃんを固めるときはまずシャワーを浴びてからだぞ!」
「いいんですよ、コイツは! 前はあんなに大人しくて可愛げがあったくせに、どんどん生意気になりやがって!」
「お前が言うなってんだ!!」
そのツッコミを待っていたのだろう。真崎は涼一の首を絞めたまま、屈託のない子供のような顔で笑った。
その夜、「俺と歩いてるのを近所の人にでも見られたら悪いだろ」と真崎に三千円握らされ、無理やりタクシーで帰宅させられた。
家に着いたのは二十一時過ぎ。
凉江が帰ってきたのは更に遅く、二十三時を回ってからだった。
「たっだいま~」
不自然なほど上機嫌な声が聞こえ、涼一は自室から飛び出した。
「母さん、今何時だと思ってんの!? 心配して何回も電話したんだよ!」
「えー? ごめーん。気づかなったー」
上がりかまちに腰掛け、靴を脱ぎながら振り返る。母の顔はアルコールのせいで真っ赤だった。
凶器のようなピンヒールの靴が足からすぽっと抜けた。簡単に折れてしまいそうなほど細いというのに、凉江はそれを乱暴に放り投げた。もう片方は既に転がっている。
「もーヤだー。足ぱんぱーん」
拗ねたように言って、凉江はストッキングを履いた足を玄関に投げ出した。そのまま後ろ向きにバタッと倒れ込む。
こんなに泥酔した母の姿を見るのは初めてだ。なんだか見てはいけないものを見たような気がして、涼一はさりげなく目を逸らした。
「いつも十時には帰ってくるのに、何かあったの?」
「別にー。途中で抜けて一人で飲んできただけー」
「それなら連絡くらいしてよ。だいたい、そんなに酔うなんて危ないじゃん」
「涼くんだってお母さんに何も話してくれないじゃない」
そう言ったときの声だけは、アルコールの臭いのしない明瞭な声だった。
――いつの話だ?
涼一は全身から血の気が引いていくのを感じた。
昔イジメのことを隠していたときの話か? それとも……。
一瞬頭を過ぎった不穏な考えを振り払い、必死で平静を装った。
「外に出かけるようになったこと? 一通り近所を回って散歩したり、新藤さんに会っていろいろ相談してるだけだって」
「そーだけどー。涼くんがどんどん成長しちゃって、お母さん寂しいなー」
やはり杞憂だったようだ。涼一はほっと胸を撫で下ろした。
「一生引きこもりのままよりはいいでしょ。お母さん、そこで寝ちゃ駄目だから」
「涼くん起こしてぇー」
甘えるように腕を伸ばしてくる。涼一は仕方なく凉江の体の下に手を入れた。
「はい、頑張って起きて」
「んー……」
息子の助けを借り、凉江はなんとか上体を起こした。しかし体に力が入らないようで、ずっと涼一の腕や肩にもたれかかったままでいる。もし支えを失ってしまえば、再び硬い床の上で潰れてしまうだろう。
――どう考えても飲みすぎだよ。いい年してさ……。
絶対に口には出来ないことを考え、酒臭い息を吐く母の顔を覗き込む。同時に、凉江のトロンとした目も涼一を捉えた。
こんなに近くで見つめ合うのはいつぶりだろう。ずっと若くてきれいだと思っていた母の目じりと口元には、化粧で隠しきれない皺ができていた。そのことに、涼一は激しく動揺した。
「涼君、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだっけ? お母さんの中だと、まだまだ可愛い赤ちゃんのままなんだけどなぁ」
「……僕だっていつまでも子供のままってわけにはいかないよ」
「そっか。子供のままってわけにはいかないか」
なぜか凉江は泣きそうな顔をした。目を細めたせいで、目尻のしわが一層深くなった。
「涼くん、最近はいっぱい外に出かけられるようになったもんね。お母さんが触っても嫌な顔しなくなったし」
潤んだ目から涙が押し出されそうになる。
零れる。そう思った次の瞬間、凉江は涼一の首に抱きついてきた。その細い腕のどこからそんな力が出てくるのか不思議になるほどの強さだった。
「お母さんね、涼くんが生まれてきてくれたとき、本当に嬉しかったんだよ。涼くんを初めて抱きしめたときにね、この子を産むためにお母さんは生まれてきたんだって思えた。仕事だって、涼くんを食べさせていくためだって思えば苦しいことなんて一つも無かった。お母さん、涼くんが一番大切なの」
「…………」
無性に泣きたくなった。
いつも真崎に抱かれている涼一には、凉江の体は驚くほど華奢で小さく感じられた。
女性なのだ。そんな当たり前のことが、涼一の中にすっと溶け込んでいった。
凉江も母である前に女性で、いつの間にか、涼一は母を小さいと感じられるほど大人に、そして男になっていた。
「だからね、涼一」
凉江は涼一を抱きしめる腕の力を緩めた。
体を離し、濡れた目を真っ赤にして、皺ができたスカートの上で拳を握る。
「お母さんに教えて。また誰かにいじめられてない? 脅されたり嫌なことはさせられてない? つらいことや苦しいことはない? 今度こそ全部話して。お母さん、もう絶対に涼一の嫌がることはしないから。今度こそ絶対に涼一を守るから」
泣きたかったが、泣かなかった。泣いていけないと思った。懸命に堪えた。
母の目に浮かぶ涙。その理由を涼一は知っている。
以前涼一の動画が騒がれて凉江にまで連絡が言ったとき、凉江は学校や加害者家族を訴えると言って弁護士を頼んだ。だが一刻も早く人々の記憶から消えたかった涼一は、そのことで母を酷く責め立てた。
今から思えば、あれは完全に八つ当たりだ。凉江が涼一を必死で守ろうとしていたことは分かっていたのに、あのときの涼一は誰かを傷つけなければ立ち行かなくなっていた。そうしなければ胸の奥に堪った澱に押しつぶされてしまいそうで、自分を守るために最も大切な人を傷つけてしまった。
あれから時間も経ち、真崎と出会い、涼一の傷は少しずつ塞がってきている。だが、凉江はどうだ?
涼一の傷は、涼一ひとりの傷ではない。涼一を心の底から愛してくれている凉江にだって、傷は深く刻まれている。あれはそういう出来事だった。
それを涼一は、勝手になかったことにしていた。凉江が一度だって涼一を責めることや弱さを見せることをしなかったから、忘れたふりをしていた。だけど傷は、いつも親子の間に存在していた。
たぶん向き合うべきときが来ているのだ。
凉江とのことも、真崎とのことも。
自分の脚で立とうと思うのなら、現実から目を逸らし続けることはできない。
「母さん……、僕……」
「なあに? 涼くん」
「ごめんね。ずっと」
涼一が謝ると、凉江は一瞬怯えたような目をした。だがすぐに泣きそうな顔で、「何言ってるの」と微笑んだ。
「謝らなくていいの。涼くんはなんにも悪い事なんてしてない。お母さん知ってるよ」
「そんなことないよ。僕が悪かったんだ。……僕、あのとき、お母さんを傷つけるつもりで酷いことばかり言ったんだ」
「…………」
「あのときの僕は自分のことでいっぱいいっぱいで、凄くつらくて、どうして自分ばっかりって……自分のことしか考えられなくて、全部、誰かのせいにしないとやってられなかった。だからお母さんが傷つくようなことばっかり言って、自分のつらさから逃げたんだ」
凉江の肩から力が抜ける。何か言いたげな顔をして、けれども何も言わず、静かに首を横に振った。
分かっていた。凉江はいつもそうやって息子のすることはなんでも許してくれるのだ。そういう母親に、涼一はいつも甘えていた。
「あのとき言ったこと……全部嘘だから。僕、昔からずっとお母さんのことが一番大好きだったよ。お母さんはいつも優しくて、仕事もできて格好よくて、一番大好きだった。だから僕……これまでいろいろあったし、お母さんが自慢できるような子供じゃないと思うけど……でも僕……お母さんの子供で良かったよ。……お母さんが僕のこと産んでくれて……生まれてきて良かったって、本気で思うよ。そう、思えるような――」
出会いがあった。
真崎と出会えた。
本当は誰よりもそのことを凉江に伝えたいのに、涼一と真崎の関係は、凉江にとてあまりにも残酷な秘密を抱えてしまっている。
だから少し考え、言葉を変えた。
「――余裕が出てきたから。……今はまだ人並みには戻れてないけど、それでも僕なりに幸せなんだ。だからもう、そんなに心配しな
いでよ。僕はもう大丈夫だから」
「涼一……」
凉江は目を見開いた。
細く描かれた眉をぐしゃっと下げ、唇をわなわなと震わせた。そして項垂れ、感情を必死に押し殺そうとしているように静かにむせび泣いた。
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