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第13話

 翌朝ケロッとした顔で起きてきた凉江は、目が腫れていると朝から大騒ぎし、遅刻ぎりぎりの時間に仕事に出かけていった。  昨夜のことには一切触れてこなかった。もしかしたら忘れてしまったのではと思うほど、凉江の涼一に対する態度はいつもと変わらなかった。  その日、涼一はいつもより三時間も早く家を出た。  真崎に会いたかった。会って話がしたかった。  真崎自身のこと。涼一のこと。二人のこと。 二人のこれからのこと。真崎からたくさん聞きたいし、自分からもたくさん話したい。ずっと目を逸らしてきた二人の間にある現実に、今なら触れても許される気がした。     いつも通り帽子を被り、眼鏡をかけて顔を隠す。いつもと違い、用意した弁当は二つだ。真崎用の大きな弁当箱の上に自分用のおかずを入れた小さなタッパを置くと、なんだか雪だるまみたいに見えた。そんな小さな事にも、自然に頬が緩んだ。  よく晴れた日だ。雲一つない快晴で、空には淡い青がどこまでも続いていた。  まだ日差しはきついが、風はいくらか涼しくなった。今日はセックスが終わったら真崎を誘って日向に出てみよう。太陽の光の下で見る真崎も格好いいに違いない。  そんなことを考えながら公園の手前まで来たところで、見覚えのあるずんぐりとした男の背中を見かけた。鈴木だ。  声をかけようと思ったが、鈴木の前には見たことのないスーツ姿の男が立っている。声をかけるのも素通りするのも躊躇われ、しばらく二人の会話が終わるのを見守った。  立ち話は三分もせずに終わった。スーツ姿の男は鈴木に向かってペコペコと頭を下げ、涼一がいるのとは反対側へ歩いて行く。涼一は鈴木に駆け寄った。 「鈴木さん! おはようございます!」  鈴木は振り返り、「おう、涼ちゃんか。おはよう」と強面の顔を破顔させた。 「昨日はありがとうございました」 「いいよいいよ。むしろ毎度ジジイの汚ぇツラばっかだったのが涼ちゃんのおかげで華やかになったよ。しっかし、どいつもこいつも涼ちゃん涼ちゃんってデレデレしやがってな。どうしようもねぇ」  反応に困った涼一は苦笑いした。 「さっきのスーツの人はお知り合いですか?」 「ああ。ヤツは役所の人間だよ。最近よく来んだよな。公園から出てけって」  ここ出てどこ行けっつうんだよな――冗談めかし、鈴木は生臭い息を吐きながら笑った。 「……大丈夫なんですか?」  ようやく言えたのはそれだけだった。 「心配かい?」  鈴木はウエストポーチを開き、メイド喫茶の広告が入ったポケットティッシュを出しながら言った。 「そういや涼ちゃん、今日はやけに早いな。マサならまだテントの辺りにいると思うぞ」  ティッシュを一枚だけ出し、残りはポーチに片付ける。  鈴木は涼一に断りをいれることもなく歩き出した。方向は公園の入り口の方だ。涼一もすぐに後を追いかけた。  隣に並ぶとすぐ、鈴木は続けた。 「アイツ、いつも昼頃まではあの辺りでぐだぐだしてて、十二時になるとベンチに行って涼ちゃんを待ってんだ」 「そうなんですか。――あの、そのティッシュは?」 「仏さん」  ごま塩頭ならぬごま塩髭が少し先の方を示す。しかし涼一には意味が分からない。ようやく理解したのは、鈴木が歩道に落ちた蝉の死骸の前にしゃがみ込んだときだ。 「蝉ですか」 「ああ。蝉だってこんな固ぇ地面より柔らかい土の上で死にたいだろうよ」 「優しいんですね」 「よせよ。そんなんじゃねえっての」  見るからに肌理の粗いティッシュでひっくり返った蝉を包み、鈴木は体を起こした。 「同病類哀れむ……ってな」  聞こえてきた呟きの意味は分からなかった。 「公園の入り口にでも埋めてやるかな」 「鈴木さんはお家に帰るところですか?」 「いや。俺は仏さんの埋葬が終わったらまた出かけるよ。涼ちゃんはゆっくりして行きな」  ということは、公園の入り口までは一緒に歩くということだ。  入り口はもう見えている。ほんの少しの間だが、せっかくの機会だから思い切って訊ねてみた。 「真崎さんを公園に連れてきたのって鈴木さんなんですよね」 「そうだよ。マサが言ってたのか?」 「いえ。酒井さんが前にそんなことを」  初めて炊き出しに行ったときのことだ。偶然会った酒井は、真崎が鈴木に拾われたと言っていた。  鈴木は納得したというように何度も頷く。 「懐かしいな。最初に拾ってきたときは、どうせすぐ音を上げて逃げ出すと思ってたんだよ。それが音を上げるどころか、今じゃすっかり根を下ろしちまったんだもんな」  上手いことを言ったつもりか、鈴木はボロボロの口の中を恥じることもなくニヤっと笑った。  涼一もとりあえず笑っておいて、それから肝心のところを聞き返した。 「拾った……ですか?」 「ああ。駅前のベンチでな。服や靴なんかはそうでもないんだが、髪は脂ぎって髭も伸びきって酷いもんよ。そのくせ何か悟った見てぇな気味の悪い目しててさ、さすがに見過ごせなくて声かけたんだ」 「公園に誘ったんですか」 「ああ。いや、それは最後にな。俺だって最初は実家に頼れとか言ってやったよ。だってアイツ、どう見てもまだ若いだろ? 服なんか見てもずっと貧乏暮らししてたって感じもないし、頼れる人間はいたはずなんだ」 「真崎さんはなんて?」 「親は死にました。身よりも友人もいません。 警察の世話になって仕事を辞めたから前の職場にも頼れません。有り金は全部女房に渡しました。女房は自分のせいで狂ったから頼れません。……ってな具合だ」  一瞬、頭の中が真っ白になった。  真崎の過去について、多少の覚悟はできていたつもりだった。  だがこんなことを――しかもこんな形で聞くとは思っていなかった。ただほんの少し、鈴木の口から真崎のことを聞きたかっただけなのだ。  いつの間にか、二人は公園の入り口前に到着していた。鈴木は足を止め、蒼白になった涼一の顔を哀れむように見つめた。 「アイツにガキがいるって話も聞いてねぇわけか」  首を縦に振る。それが精一杯だ。 「俺はてっきり、分かり合って付き合ってるもんだと思ってたんだがな」  鈴木はウエストポーチの上に蝉の死骸を置き、ポケットから煙草を出して火を点けた。  吸い口を咥え、眉間に皺を寄せてゆっくりと煙を吸い込む。そして乾いてひび割れた唇から煙草を離し、白い煙と一緒に吐き出した。 「こんな子供をいいようにしといて、自分のことは何一つ教えてやらねぇなんてな。アイツも本当にろくでもねえ野郎だ」 「え……?」  緩慢に瞬きをして、鈴木の目を見つめ返す。  逆に、鈴木はパッと涼一から目を逸らした。 「あんなとこであれだけアンアンパンパンやってりゃ嫌でも気づくって。つっても、俺以外じゃタカオさんくらいしか気づいてねえだろうけどな」 「……ち、違うんです。真崎さんは……」  しかし鈴木は、「あー、いいいい」と面倒臭そうに首を横に振った。 「頼むからやめてくれよ。俺はカマとか男同士がどうのってのが気色悪くてな……。頼むから何も言わないでくれ。俺はアイツのことも涼ちゃんのことも嫌いたくねぇんだ」  涼一は黙って頷いた。それ以外、どうしたらいいのか分からなかった。 「……涼ちゃん。ちょっと聞いてくれるかい」  涼一の返事も待たず、鈴木は話し出した。「俺にもさ、一応孫がいるんだよ。歳どころか顔も性別もわからねえんだけど」  煙草をふかし、鈴木はハッと笑った。 「絶縁されたんだよ。女房と娘に」  大口を開け、皺だらけの顔を更に皺だらけにして、鈴木は笑う。まるで世の中の嫌なことなど全て吹き飛ばそうとでもしているような笑顔だった。 「まあ当然だわな。自分たちを捨てた親父が十年近く経って薄汚ねえ浮浪者になって帰ってきたんだからさ。向こうはとっくに離婚手続きもして新しい家庭作ってんだ。もう顔見せんなって大泣きで万札叩きつけてきてさ、塩まいて終わりよ」  そう言いながら、煙草を口に咥えて塩をまく真似をした。あまりに大袈裟すぎたせいでポーチから蝉の死骸が落ちると、「おっと。仏さん落としちまった」と笑ってのんびり拾い、またポーチの上に置いた。伸びすぎたせいで先が丸くなり、指に食い込みそうになっている分厚く黄ばんだ爪が嫌でも目に入る。 「俺たちはこの蝉と同じよ。最期は誰にも看取られねえで、ようやく厄介者が消えたなんて思われながら、固い地面の上で死ぬんだ。そういう生き方を自分で選んだんだよ」  抜け出せないのではなく、選んだ。それが本当なのかは分からないが、自分で選んだ生き方だと言うことは、鈴木の最後のプライドなのかもしれない。 「まぁ、なんだ。俺なんかといつまでも話してないで、マサのとこに行ってやりな。俺はコイツを埋めてから行くからさ」  涼一は鈴木に向かって頭を下げ、公園の中に入っていった。  真崎は昨日宴会が行われたのと同じ場所にいた。  昨夜並べられていたアウトドア用の大きなテーブルは撤去され、いつもの小さなガーデニングテーブルが戻っている。そのテーブルを、真崎とヤスと東が囲んでいる。 「涼ちゃーん!」  一番に気づいたヤスがカップ酒を持った手を掲げる。振り返って「おう!」とニコニコする東の手にもビールの缶がある。二人とも赤ら顔だ。椅子から立ち上がった真崎だけが酒を持っていなかった。  涼一が軽く頭を下げている間に、真崎は大股で歩いて涼一を迎えに来た。 「早かったな。どうした?」  真崎の顔はすっきりしている。今日はきちんと髭を剃り、体も洗ったようだ。少しも汗臭くない。  真崎を見上げ、涼一は真崎にだけ聞こえるように言った。 「真崎さんに会いたかったから」 「…………」  真崎は顔を顰めて腕を組む。  そんな真崎を置いてヤスと東のところに行き、挨拶ついでに少し話をした。途中で真崎がやって来て、涼一の背中に触れた。 「すみません。それじゃ俺、コイツ連れてきますんで」  少し歩き、奥まったところにある真崎のテントが見えてきた。  今日は洗濯物が干してある。  テントの傍に張られたロープ。そこにカラフルな洗濯ばさみでつるされた作業着、シャツ、下着、タオル、靴下。ときどき吹く風で微かに揺れている。  遮光カーテンで作った日よけの横を通り過ぎ、真崎の後に続いて中に入る。少し空気がこもっていたが、以前のように蒸し焼きにされてしまいそうなほどの熱気はない。呼吸しても苦しくないというだけでもかなり過ごしやすい。  真崎は入り口のビニールを捲ったまま固定し、目隠しとして簾を下ろした。  薄暗くなる。ブルーシートの青い世界。風で優しく波打つ簾の編み目から漏れてくる光だけが白く眩しい。  相変わらず言葉もなく布団のところに行こうとする真崎の手を、涼一は強く握った。 「真崎さん。奥さんとお子さんがいるんですか?」  真崎が振り返る。その目に浮かんでいたのは、はっきりとした拒絶だ。 「それがどうした」  手を振り払われる。真崎は涼一に背を向け、ちゃぶ台の前にどかっと座りこんだ。  涼一も真崎の後ろに腰を下ろしたが、いくら待っても真崎は何も言わない。振り返ってもくれない。  真崎の大きな背中を見つめ、二度叩いた。返事はない。しばらくしてから涼一は言った。 「……僕、一人も友達がいないんです。小学校の頃はたまに遊ぶやつが二人いたんですけど、中学はお母さんがマンションを買って引っ越したから離れちゃって。それでもメールはしてたんですけど、あの動画が出回ってすぐ、友達から連絡が来たんです。僕の動画がアダルトサイトに貼り付けられてるって」  真崎の体が微かに動く。  涼一は目を閉じ、真崎の背中に寄りかかった。 「虐められてることは、友達には絶対知られたくなかったんです。でも知られちゃいました。しかも、アダルトサイトに貼り付けられてるってことまで……。だから僕、一方的に友達と連絡を絶ちました」  面白半分ではなかった。涼一の友人達は、涼一の動画のことを知り、動画や画像を消し去る手伝いができればということで片っ端から調べてくれたのだ。ただ、涼一のプライドがそれを許せなかった。 「でも、僕にも悪いとこがあったんです。僕は人付き合いが本当に下手で、時間をかけないとなかなか打ち解けられないんです。だから本当は友達と同じ中学に行きたかったけど母さんにはそんなこと言えなかったから、周りを見下して憂さ晴らししてたんです。実際に全然クラスに馴染めなかったし……酸っぱい葡萄っていうか……馬鹿ばかりだから付き合わなくていいって壁を作ってたんです」  勉強だけは出来た。だから余計に、それを免罪符にして、随分鼻持ちならない態度を取ったと思う。嫌われても当然だ。 「もちろん嫌いだからってあそこまでされたのは納得できないけど、そうなる要因の一つを僕が作ったことも事実なんです。それにに僕は神経質だから、仲良くしてくれようとする子に触られて、振り払ったことがあるんです。そこからイジメが酷くなりました。……でもあの日は、あいつら、母さんの弁当をゴミみたいって馬鹿にしたんです。……母さんが僕のために選んでくれた弁当箱もサッカーボールにされて……許せなかったんだ。母さん料理が好きじゃないのに、毎朝忙しいのに、僕のために一生懸命お弁当作ってくれてたの、知ってたから」 「もういい」 「僕、我慢できなくて、掴みかかったんです。そしたらそいつが大袈裟に転んで……。周りもみんな見てたくせに、僕が一方的にそいつに殴りかかったって責めて……騒がれたら、母さんに迷惑かかっちゃうから」 「やめろ。もういいって言ってんだろ」 「訴えない代わりに、全部脱いで触れって言われた。女子も男子もいて、みんな笑ってスマホを構えてた。でも、言うこと聞かないと母さんが悲しむことになるって思って……」 「やめろって!!」  勢いよく振り返った真崎に、力の限り抱きしめられた。つばを押されて帽子が脱げ、床に落ちた。 「……んなこと俺に言うなよ。……俺にどうしろって言うんだよ……」 「……真崎さんのことも知りたい」  真崎は黙り込んだ。黙す真崎に、涼一は一方的に捲し立てた。 「僕は真崎さんのことが知りたいです。なんでホームレスになったのかとか、なんでいつまでもホームレスを続けてるのかとか、家族のこととか本当の名前とか……真崎さんが今何歳なのかってことすら、僕教えてもらってないんですよ」  どれだけ待っても、真崎からの答えは返ってこなかった。……それほどに、それほどまでも頑なに、自分のことを教えたくないのだ。 残酷なのは、そのくせ涼一を離してくれないところだ。  真崎の腕は身動きでないくらい涼一を締め付け、指は背中の薄い肉に食い込んでくる。まるでその心に潜む痛みを押しつけるように。きっとまた、涼一の肌には指の形がくっきりと痣になって残るだろう。  痛い――。  口に出してもいいと、真崎が教えてくれた言葉だ。  今死にたいくらい痛いのに、涼一の口から出てきたのは全く別の言葉だった。 「僕は……真崎さんと向き合いたいです」  言葉と一緒に涙が漏れてしまいそうになる。真崎の胸に顔を押しつけ、涙を抑えた。しかし声が震えるのだけは抑えられなかった。 「ちゃんと向き合って、もし真崎さんにつらいことがあるなら、一緒に乗り越えたいです。……そのせいで、真崎さんと一緒にいられなくなったとしても」  そうだ……。そうだったんだ。  涙は勝手に溢れてくるのに、胸がこんなに痛むのに、涼一は笑い出しそうなった。  本当はずっと気づいていた。でもその事実と向き合いたくなくて、気がつかないふりをしていた。  真崎と涼一の関係が成り立つのは、ここが特殊な世界だからこそだ。  涼一は普通の世界からはみ出し、普通に生きられる人間を拒み、他人との接触がない代わりに誰からも傷つけられない世界に閉じこもった。けれども本当の意味では一人になれなくて、ずっと誰かを求めていた。  傷口に触れてこない誰か。もし傷口に気づいても、そこから目を逸らしてくれる誰か。そして都合のいい温もりをくれる誰か。それが真崎だった。  真崎も同じだ。涼一にとっての真崎がそうであったように、真崎には涼一だったというだけのことだ。  真崎とは歳が近いわけでもない。話が合うわけでもない。最近でこそ真崎も涼一と同じゲームを始めたが、二人の間に共通する物はそれくらいだ。性格も似ていないし、未だに話が途切れることはよくあって、特別相性がいいようにも思えない。今はお互いしかいないから、こんなにも離れられないだけだ。  だからきっと、真崎が普通の世界に戻れば、涼一は必要なくなる。  満足に人間関係を築けない涼一と違って、真崎ならすぐに人の輪に溶け込んで友人を作るだろう。顔だって悪くないし、もし妻子のところに戻らなくても、すぐに新しい恋人ができるに違いない。。  涼一でなくともいいのだ。  真崎は元々女性だけが対象だったようだから、普通の生活に戻れば、きっと嗜好も本来の正しい姿に戻る。それだけのことだ。むしろ涼一を相手にしていたのが異常だったのだ。  心のどこかで分かっていたから、涼一はいつまでも真崎と二人で立ち止まったままでいたかった。  だが、もう決めた。 「どんな結果になるとしても、僕は前に進みたいです。真崎さんと二人で」  涼一を抱く腕から力がなくなっていく。  離れる。  腕が。体が。  そして感情をなくしたような目が涼一を見て、逸れ、真崎はポケットからスマートフォンを取り出した。  慣れた様子で操作し、涼一に渡してくる。その画面を見た瞬間、言葉が出なくなった。  写真だ。  教会を背景にして、グレーのタキシードを着た男がウエディングドレス姿の女をお姫様抱っこし、女は男の首に腕をまわしている。  二人は笑っている。  男は無邪気に、女は少し照れくさそうに。頭をくっつけ合わせ、眩しいほどの笑顔で笑っている。  男は真崎で、女は涼一の知らない女性。真崎が永遠の愛を誓って子供まで作った女性だ。  心の準備はできていたつもりだったのに、いざそれを目の前に突き付けられると、どんな言葉も出てこなくなった。  真崎と相手の女性のことも、それを眺める自分のことも、どこか遠い他人のように思えてしまう。   画面の上に真崎の指が降りてきた。軽く滑り、写真は切り替わる。今度は普通の民家で撮られた家族写真だ。  先ほどの女性と、女性よりも一回り以上老けた男女。  老けた女性は真崎の結婚相手にそっくりな顔立ちだから、恐らく真崎の義両親だろう。  雑煮が置かれた食卓を囲み、女二人は笑顔でピースサインを作り、男は少し不器用そうな笑みを浮かべている。  映っているのは三人だったが、食卓の空いた席の前に置かれた箸と雑煮、何よりもカメラに向けられた表情が、もう一人の存在を物語っていた。  それで終わりだった。真崎が画面をタップすると、画像フォルダに戻った。サムネイルは今見た二つしかなかった。 「結婚したときのやつと、その年の正月に嫁の実家に帰ったときに撮った写真だ」  真崎は淡々と言った。そして涼一の手からスマートフォンを取り返してポケットにしまう。涼一はのろのろと顔を上げ、さっき見た写真よりもいくらか頬がこけて目つきが悪くなった真崎の顔を眺めた。  真崎があの二枚の写真しか撮らなかったとは思えない。だから、いくつも撮った写真の中から、あの二つだけを残しておいたのだろう。何か理由があって残しておいたのか、それともどうしても捨てきれなかったのか。  しかし、一つだけ気になった。  真崎が愛した女性。その女性の両親。……一人足りない。 「――お子さんの写真はないんですか?」 「流産だ」  答えを聞いた瞬間、自分がどれだけ無神経な質問をしたのか気がついた。だが真崎は相変わらず淡々と説明した。 「稽留流産って言って、腹の中で死んじまうんだ。俺なんか流産って聞くとえらいことに思えるけど、妊娠初期だとそうめずらしくもないらしい」 「……すみません」 「気にすんな。俺だって一度も悲しいって感情が湧かなかったんだ」  ようやく真崎は笑った。自嘲するような笑みで、ちゃぶ台に肘を置き、ブルーシートの壁を眺めてどこか遠くを見るような目をした。 「できたって聞いたときは相当嬉しかったんだけどなぁ……。けどさ、なんか現実感がないまま流れちまったんだよ」  そんなものなのだろうか。子供を作ることなど考えたことすらない涼一には分からなかった。 「嫁は俺を可愛がってくれてた上司の一人娘でさ、上司の家に招かれたときに一目惚れして、やっとの思いで口説き落としたんだ」 「……綺麗な人でしたね」 「ぱっと見は地味だけどな。よく見ると美人だろ。性格も大人しくて控えめで、男は俺が初めてだった。今どき珍しく結婚するまではセックスもNGで、結婚してからも普通じゃないのは絶対無理って言って、フェラすらしないようなヤツだった。お前と違ってな」  嘲るような眼差しが涼一に向けられる。その視線に耐えきれず、涼一は体を縮こまらせて俯いた。 「で、何から話せばいいんだ? あー、そうそう。仕事を辞めたのは、俺が実家に帰った嫁にストーカーしてるって話が会社に行って、自主的に退職してくれって話になったからだわ。辞めた後は毎日家でゴロゴロしてて、貯金は嫁側に全額渡したから家賃も払えなくなって追い出されて、ぶらぶらしてたところを鈴木さんに拾ってもらった」  真崎の言葉は投げやりだった。出会ったばかりの頃の態度にも似ている。だがあのとき以上に攻撃的でもあった。  たぶん、涼一を傷つけたいのだろう。かつて涼一が母親にしたように、そうせずにはいられないのだ。 「嫁が出てったのは、俺が家庭を顧みなかったからだ。嫁の父親を尊敬してた俺は、嫁の父親の真似をして毎日残業までして仕事を増やした。そうすることでアイツを幸せにできると思ってた。だけどアイツは小さい頃から仕事人間だった父親に複雑な思いがあったみたいで、自分は母親と違って幸せな家庭を築くって……理想みたいな……そういうのが自分の中に強くあって、現実との違いに悩んでたみたいだ。おまけに子供も流れちまって、張り詰めてた糸が切れたんだろうな。――あの日、俺が帰ったとき、アイツは便器の前で呆然と座ってた。便器の中は真っ赤で、何があったかなんて、聞くまでもなかった」  真崎の子供として生まれてくるはずだった胎児が、そこにいたのだろう。  妊娠や流産なんて話は、涼一にはまだ早かった。流産したことを聞かされた真崎の気持ちは全く想像もつかない。ただ、真崎は相変わらず冷めた表情で、明日の天気の話でもするように続けた。 「それ以来、アイツは鬱病みたいになっちまった。俺も義理の両親も流産が原因だって思い込んでたんだが、それから少しして、アイツが消費者金融から金を借りてることが分かったんだ。……まぁ、少し気をつけていれば分かったことなんだけどな。押し入れの中いっぱいに馬鹿高いベビーグッズが押し込まれてたり、家にあるタオルとか食器なんかが全部新しくなってたんだからさ」 「流産する前からだったってことですか?」 「ああ。母親と同じになるようで怖かったんだろ。プロポーズしたときの約束で、毎日愛してるって言うのだけは欠かさなかったんだ。それでもアイツには足りなかったんだろうな」 「…………」 「嫁の買い物依存が発覚してからすぐ、嫁は実家に連れ戻された。そっからは嫁の母親にガードされて一度も話せずじまいだ。一方的に離婚を切り出されて、粘ったらストーカー扱いだ。おまけに上司からはめちゃくちゃなじられてさ……。俺たちの離婚と並行して、上司も離婚を切り出されたんだってよ。嫁の母親もずっと仕事人間の上司に不満があって、それが俺と嫁の件で爆発したんだとさ。『お前と結婚させなければ良かった』って血管がちぎれんじゃねえかってくらい顔を真っ赤にして泣いてたあの人の顔が、今でも忘れらんねぇんだ」  真崎はふうっと息を吐く。  疲れたような顔で。その顔は、人生の何もかもを諦めた男の顔だった。 「俺は生涯でもうコイツしか愛さないって決めた女をボロボロにして、そいつの家庭も壊して、尊敬する人の人生まで壊しちまった男なんだよ。情けないクズなんだ」 「真崎さんはクズじゃないです。今からでも、ちゃんとやり直せば――」 「何も分かってねえくせにいい加減なこと言ってんなよ」  真崎の声は地を這うように低く、涼一を傷つけるための刃となって絡みついてくる。 「だいたいお前、人に何か言えた立場か?  学校にも通わないで親のすねかじって生きてるお前に、俺の何が分かる? 俺の生き方に文句があんなら、もう来んな」 「なんで……」  涼一は目を見張った。  その大きな目が、滲んできた涙の膜で揺れる。しかし零れないよう懸命に感情を殺し、 歯を食いしばった。  数秒遅れ、真崎も自分の言葉を後悔するように顔を顰め、静かに項垂れた。だが一度だって、言葉を撤回はしてくれなかった。  どうやってテントから出たのかも思い出せない。帰るときに真崎に何か一声かけたのかも思い出せないまま、涼一は歩き慣れた帰り道をフラフラと歩いていた。  太陽が眩しかった。俯いて歩いているのに目の奥が痛むほどで、少し歩いてから、帽子を真崎のテントに忘れてきたことに気づいた。  車のエンジン音。漏れてくる音楽。すぐ傍をすり抜けていく自転車が風を切る音。  賑やかなのにどこか物足りなさを感じるのは、蝉の鳴き声が聞こえないからだ。蝉の季節はもう終わってしまったのだろうか。  涼一が見つめる先にあるスニーカーの丸い靴先は、落としきれない汚れとゴムの削れでだいぶくたびれた印象になっていた。   涼一はセルフレームの眼鏡を外した。度は入っていないため、視界が悪くなることはない。何も変わらない。  深く息を吐き、顔を上げる。  道路。標識。車。電信柱。家。――ただの住宅街。  ごく普通のありふれた景色の中に、涼一はいる。  他の人と同じように、顔を上げ、立っている。普通の場所で、普通に息をしている。  真崎がいなくとも、生きていられる。  そのことが、どうしようもなく悲しかった。

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