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第14話

 昼どき。マンションのエントランスから出ると、ひんやりとした風が吹き付けてきた。まだかじかむ程ではないが、顔や手の露出した肌がじわじわと冷やされていく。  涼一は羽織っただけだったパーカーのファスナーを首元まで上げた。そして帽子のつばを掴もうとしたところで空振りし、恥ずかしくなって苦笑した。  帽子を被らないで外出するようになってからもうだいぶ経つのに、未だに外に出るとときどき帽子のつばを掴もうとしてしまうことがあった。  帽子だけじゃない。眼鏡もやめた。髪も耳が出るくらいまで短くし、以前は目にかかっていた前髪も今では眉毛より高い位置で切り揃えられている。  堂々と顔を出し、下を向かずに歩き、涼一が通う場所はもうあの公園ではない。  かつて毎日通っていた道の途中で方向を変え、涼一は公園と反対の方に歩いて行った。 「いらっしゃいませ」  常連のお婆さんに軽く頭を下げると、お婆さんは「あら」と嬉しそうに顔をほころばせた。そして空のカートを押して涼一の傍にやってきた。 「こんにちはー。なんだか急に涼しくなって」 「そうですね。夜はもう結構寒いですよね」 「そうなのよー。私なんかもう寝るときに湯たんぽが手放せなくって。主人から早すぎって笑われちゃうの」  おほほっとお婆さんは口に手を当てて笑う。 涼一も愛想笑いし、少しだけ会話に付き合った。切りの良さそうなところで強制的に会話を切り上げ、バックヤードに戻った。 「お疲れさまです」  声をかけながら事務室に入ると、パソコンの前に座っていた店長が「お疲れー」と返しながら椅子を回転させて振り返った。 「村瀬君、今日も捕まっちゃったね。すっかり佐藤のお婆ちゃんのお気に入りじゃない?」 「えっと……昨日と全く同じ会話をしました」 「ははっ。お年寄りってのはそういうもんだよ。村瀬君だっていつかはそうなるんだから覚悟しておきなよ」  店長は突き出た腹を揺らして笑い、また椅子を回転させて事務机に向き直った。体の向きこそパソコンに向かっているが、視線が向かうのは机の端に置かれた二台のブラウン管テレビだ。画面には監視カメラの映像が四分割で映し出されている。 「店長。アイスの入れ替えは終わったんですけど、次はどうしますか?」 「お菓子の検品よろしく」  指示した直後、店長が困ったように呟いた。 「あ。まーたあの客だ」  正直興味は湧かないが、こういうときは聞き返すことがコミュニケーションなのだと涼一も頭では理解している。「クレーマーですか?」と聞いておいた。  思った通り店長は嬉しそうな顔で振り返り、涼一に手招きする。そして一台のテレビの左上画面に映し出された客を指で示した。 「分かる? この人ホームレスなのよ」  ドキッとした。思わず画面に顔を近づける。  画像は粗く、ハッキリとした顔は確認できない。しかし、真崎やあの公園のホームレスでないことは間違いない。画面に映るホームレスは、胸まで届く立派な髭を蓄えていた。 「ときどき来るんだよね。あっちの商店街の公園にいっぱいいるでしょ? たぶんあそこのホームレスじゃないかな」 「あの公園の人ではないですよ」 「そうなの? よく分かるね」 「あ、いえ……。別の……河川敷のところで家に入っていくのを見かけた気がするので」 「どこにでもホームレスって棲みつくね」  店長は感心したように何度も頷いた。 「まぁどこに住んでてもいいけどさ、うちの店の弁当目当てで、結構ホームレスが通ってるみたいなんだよ。困っちゃうよなぁ」 「何か駄目なことでもあるんですか?」 「言っちゃ悪いけど、臭いじゃない? それに汚いし」  店長は顎をしゃくってテレビ画面を示す。ホームレスは画面右下に移動していた。 「一応これでも飲食物を扱う店だからさぁ。これまで何度か苦情も貰っちゃってて」 「苦情? わざわざ?」 「それが結構いるのよ。ホームレスが触った後はお惣菜を全部入れ替えてくれとか消毒してとか。さすがに無茶だっちゅーね。でも確かに凄い臭いをさせながら商品をペタペタ触るから、気持ちは分からなく無いんだよね」 「……でもホームレスの人も買い物できないと困りますよね」 「そ。だからうちは、店内で刑事事件でも起こさない限りは基本的にウェルカムだよ」 「そうなんですか」 「臭いさえなければホームレスもそこら辺にいるおじさんもたいして変わらないからね。かくいう俺もおじさん」  店長は自分を指さして笑う。 ――こういう冗談にはどう返したらいいのだろう。考えても分からなかったから、涼一は「それじゃあ、倉庫にいます」と事務室を後にした。  少しだけ、胸がドキドキしていた。  最近ではコンビニや大手チェーン店に客を取られて、個人経営のスーパーは軒並み潰れていると聞く。しかしこの『いずみやマート』は、近所の老人や常連客のおかげでなんとか生き残っている貴重な個人スーパーだ。  涼一は今、この店でバイトをしている。  週に五日、時間は午後一時から午後六時までの固定。給料は最低賃金ちょうどで、仕事内容は品出しや倉庫の整理が中心だ。レジ打ちのような接客をする必要はない。  給料の安さを除けば、ここは理想的なバイト先と言える。従業員は主婦が中心で、若い人は女子大生や専門学生が数人だけ。客も近所に住む年寄りや主婦が中心で、中高生が買い物に来るようなことは少ない。  真崎と喧嘩別れのようになったあの日から、もう一ヶ月以上が経っていた。あれから公園には一度も行っていない。  真崎や他のホームレスがどうしているかは分からないが、少し前、新藤と電話で話した。  新藤は涼一が公園に来なくなったことを真崎以外のホームレス経由で知ったらしい。また自分が余計なことをしたのではないかと心配していたから、新藤のせいではないときっぱり否定した。遅かれ早かれ、こうなる運命だったのだ。 「今回の卒業認定試験は間に合わなかったから、来年の春に受けようと思ってるんです。それに受験勉強も始めないとですし、今ちょっと忙しくて。でもまたすぐ遊びに行くので、皆さんや真崎さんにもそう伝えてください」  新藤は納得し、必ず伝えるよと約束してくれた。  それだけだ。まるで夢でも見ていたようなあの日々とは、それだけ。  前に進むことを拒んだ真崎を残し、涼一は一人でこの場所に戻ってきた。楽しいかつらいかで言えば、正直、つらいことの方がずっと多い。  働き始めてすぐの頃は挨拶の声が小さいとか下を向くなと何度も叱られ、今でも顔見知りではない客から声をかけられると緊張してうまく対応できないこともある。パートの主婦やアルバイトの学生ともまだ打ち解けられていなくて、学校に通っていた頃のような居心地の悪さを覚える。ときどき制服姿の中高生を見かけては、自分はなんでこんなところにいるのだろうと劣等感を抱いて苦しくなる。  つらいことばかりの毎日だ。毎日、あの公園に逃げ出すことばかり考えてしまう。  だけど、もう逃げない。  決めたのだ。苦しくても、また立ち直れないほど傷つくことになったとしても、涼一は前に進む。  真崎が一緒に歩んでくれなくたっていい。一人でも前に進むと決めたのだ。  ひんやりとした空気に包まれた倉庫の中、積み上げられた段ボールを崩し、箱を開けては中身の確認をするだけの単調な作業を黙々と続ける。  少し疲れてきたところで顔を上げて、壁にかけられたカレンダーに目を遣った。  六日後……この店の給料日。だが涼一にとってはもう一つの意味を持つ。  誰が決めたわけでもない。自分で勝手に決めた約束な日。採用が決まった日から一日に何度も確認し、毎日着実に近づいてくるその日だけを頼りに生きてきた。 ――もうすぐだ。  涼一は微笑み、肩の力を抜いた。  しかし、その日は予想外の形でやってきた。  翌日、涼一は体調を崩した学生の代わりに閉店時間まで働くことになった。いつもなら凉江に心配をかけるため夜のバイトは断っていたところだが、その日に限って凉江は出張先の名古屋で一泊してくるということになっていた。少しでも給料を増やしたい涼一は、母に内緒で夜九時までの勤務を引き受けた。  無心で働いているうちに二十時を過ぎた。閉店時間まではもう一時間もない。  生鮮食品には次々と値引きシールが貼られ、それ目当ての客で、店内は今日最後の賑わいに包まれる。そんな中、涼一は人気の少ないカップ麺コーナーで商品の補充をしていた。  在庫が少なくなったカップ麺を倉庫から捜し出し、業務用カートに積んで店に運ぶ。手前にある商品を出して奥から詰めていると、足音がまっすぐこちらに向かってきた。そして、涼一のすぐ真横で止まる。 「いらっしゃいませー」  まだ作業の途中だったが、客の邪魔にならないようカップ麺を抱えて立ち上がった。そのときだ。  暴力的なほどの強さで肩を掴まれ、無理やり相手の方を向かされる。 「痛っ……!」  抱えていたカップ麺がドサドサっと床に落ちた。 「あの、何――」  しかし相手の顔をみた瞬間、涼一は言葉を失った。  ボサボサで脂ぎった頭。伸び放題の髭。服は皺だらけで、体からはなんとも言えない悪臭が漂ってくる。  初めて会ったときよりも更に酷い状態になっているが、間違いない。真崎だ。  真崎は短くなった涼一の前髪に触れ、苛立ったように言った。 「なんだ、その頭?」  怒っている。目も、声も、不機嫌を隠そうともしない。きっと他に誰もいないような場所だったら、問答無用で押し倒されていただろう。そういう顔だ。  しかし、なぜ――。 「眼鏡もどうしたんだ? つーかお前、こんなとこで何してんだ?」 「バイト……です」 「そんなの見りゃ分かんだよ! 俺が聞いてるのはどうしてお前がバイトなんかしてるかってことだ!」  真崎はいきなり声を荒らげ、涼一の腕を強く掴んできた。  その直後、涼一達のいる通路にサラリーマンが入ってきた。 「っ……」  真崎は涼一から手を離した。 「何時だ?」 「え?」 「バイト終わんの。何時だ」 「九時には……一応」 「分かった。外で待ってるから声かけろ」  真崎は床に落ちたカップ麺を拾い上げ、業務用カートに乗せた。 「逃げられると思うなよ」  薄汚れた真崎の姿が消えた後も、しばらくの間、涼一はその場に立ち尽くしていた。  我に返ったのは、さっきのサラリーマンが邪魔くさそうに涼一の周りをうろつき初めてからだ。  横に退いて場所を譲り、サラリーマンが商品を選び終わるまで近くの棚を整理して待つ。機械的に手を動かしながらも、頭の中には真崎のことしかなかった。 ――真崎さん、だった……。  一ヶ月ぶりに会う真崎。最近ではいつも清潔にしていてくれたのに、久しぶりに会う真崎は、自分がホームレスであることを全身で主張するような姿だった。しかし紛れもなく真崎だった。  意識した瞬間、全身の産毛がブワッと逆立つ。  真崎がいる。真崎が今、外で待っていてくれている。  たった今突然の春を迎えて冬眠からたたき起こされた生命のように、全身の血液が俄に沸き立った。  別に、会えなかったわけじゃない。涼一が自分の意思で会いにいかなかっただけだ。涼一から会いに行かなければ会えない人という、それだけだった。  なぜ真崎がここにいたのか、なぜ怒っていたのか、そんなこともどうでもいい。 ――真崎さんだ……。  全てを投げ出し、一分一秒でも早く、真崎の元に駆けだしてしまいたかった。    結局最後まで我慢できず、閉店十分前の音楽が流れ始めるとすぐにあがらせてもらった。  バックヤードでエプロンを外し、ロッカーの鏡でさっと髪を整え、荷物を持って従業員用出口から飛び出す。その間、一分もなかったと思う。  従業員用出口は店の裏側にあり、店の外壁とフェンスで囲まれた細い一本道で駐車場まで繋がっている。  灯りは出入り口頭上に付けられた照明と遠くに浮かぶ半分ほどに欠けた月だけ。そのため、明るい店内から出たばかりだと、先の方が暗くてよく見えない。  涼一はもう一度髪を整えながら、その暗い道を走って通り抜けようとした。しかし、暗闇の先で壁に寄りかかっていた影がのっそりと体を起こして立ち塞がった。 「随分急いでんな」  皮肉げに笑う低い声。闇の中で、影の輪郭が真崎に変わっていく。 「やっぱこっちで待ってて正解ってことか。なあ、リョウ」 「真崎さん!!」  涼一は走って真崎の胸に飛び込んだ。 「っ……! おい!」 「真崎さん……! 真崎さん、真崎さん!」  話したいことはたくさんあったはずなのに、もうそれ以外言葉が出てこない。真崎の背中に腕をまわし、がむしゃらにしがみつく。  真崎の胸からは、胃が不快になるような饐えた臭いがする。けれどもそこに、強い石鹸の匂いも感じた。やっぱり真崎なのだが当たり前のことを思い、真崎の胸に顔を押しつけて肺いっぱいに息を吸い込んだ。 「真崎さん……」 「お前な……。場所を考えろ」  首根っこを掴まれ、無理やり引き剥がされた。 「あっ……」  まだ足りない。しかし、涼一にもようやく周りが見えるようになってきたところだ。 「す、すみません……」  顔を真っ赤にして項垂れる。  真崎は涼一の頭頂部をしばらく見下ろし、困ったように頭を掻いてから、涼一の手首を掴んだ。 「近くまで送ってく」 「近くって、どこの近く?」 「お前の家。場所わかんねから案内しろよ」  そのまま涼一を引っ張り、大股で歩いて行く。涼一もほとんど小走りのようになりながら、真崎の後を付いていった。  駐車場から出て少し歩くと、真崎は涼一の腕を離した。真崎の手はとても熱かったから、急に手首が寒くなったような気がする。 「真崎さん」 「…………」 「お久しぶりです。……お元気でしたか?」 「気になるなら自分の目で確かめにくりゃ良かっただろ」  苛立ちを隠さずに言いながら、真崎は振り返る。  頭一つ分の差がある涼一を見下ろす。その瞳の奥に、激しい怒りが見えた。理由はすぐに理解できた。 「……会いに行こうと思ってました。あと五日したら……」 「は? なんだよそれ」 「あと五日で給料日だったんです。だから、ちゃんと給料を貰ってから真崎さんに会いに行こうと思ってました」 「意味わかんねぇよ」  涼一は財布からカードを出し、「これ、真崎さんに貰ってほしくて」と渡した。  真崎は怪訝そうな顔でカードを受け取る。街灯の明かりで、カードは小さく煌めいた。 「なんだこれ。キャッシュカードじゃねえか」 「今はまだ口座を作るときに入れた一万しか入ってないんですけど、給料日になったら六万は入るはずです。暗証番号は僕と真崎さんが初めて会った日で、〇、五――」 「待て待て待て。こんなもん他人に預けんな」  乱暴に突き返されたが、涼一は受け取らなかった。カードはカランと音を立てて地面に落ちた。 「拾えよ」  言われたとおりに拾い、真崎の手を掴んで無理やり握らせた。真崎の顔が険しくなる。 「まさかお前、俺に貢ぐために働き始めたとか言わないよな」 「貢ぐとか、そんなつもりはないです」 「じゃあどんなつもりだよ? お前さ、金さえ出せば俺をどうとでもできると思ったか? 人を舐めるのもいい加減にしろよ」  相変わらず、こういうときの真崎は涼一の言葉に少しも耳を貸してはくれない。それが悔しくて、涼一も強い口調で言い返した。 「真崎さんは僕にセックスしました」 「お前、急に何言って……」 「いつもいつも、真崎さんは黙ったままだった。僕にしていいかなんて聞かないで、いつも当たり前みたいにセックスした」  夜とはいえ、決して人が通らないわけではない往来だ。植木の向こうにある道路でも、車が結構な頻度で走っている。こんな話をしていい場所じゃない。  分かっていたが、抑えられなかった。 「でも僕、嫌だったことなんて一回もなかった! フェラチオだって、させてもらえて凄く嬉しかった! 真崎さんが教えてくれることなら、なんでも嬉しかった!」 「……やめろ、涼一」  低い声で制止され、涼一は言葉に詰まった。そこから徐々に興奮が落ち着いてゆき、最後に残ったのは、途方もない虚しさだった。 「僕は……真崎さんのものでしょ?」  真崎はそうだとも違うとも返してくれなかった。ただ、険しい顔のまま涼一を見下ろすだけだ。 「こんなに……真崎さんが好きなんです。それで、真崎さんは僕の意思なんて関係なく僕を好きなようにして、それって僕は真崎さんのものっていうのと同じで……だから、僕の物も真崎さんの物だ。僕が稼いだお金なら僕のだから、真崎さんのなんです」 「……言ってることが無茶苦茶だ」 「無茶苦茶かもしれないけど……僕、やっぱり真崎さんにはホームレスでいてほしくない」  真崎と出会ってから、ずっと視界に入らないように避けてきたホームレスについて、たくさんのことを知った。たくさん可愛がってもらった。  涼一はあの公園に住む人達が好きだ。真崎もあの人達を好いているのは分かる。けれどもやはり、荒んだ生活でボロボロになった肌や歯、汚れた爪、そして何より、蝉の死骸を優しく手に包んで明るく笑っていた鈴木の笑顔……あれを真崎の未来にはしたくない。 「真崎さんは働かなくていいし、僕とのことも責任なんて感じなくていいから……だからせめて、暑さや寒さをしのげるところで眠ってください。栄養のあるものを食べて、病院にだってちゃんと行ってください」 「そんなこと、俺が一度でも頼んだか?」 「だから、僕が勝手にやってることなんです。……僕、真崎さんに言われて気づきました。僕は真崎さんと二人で前に進みたかったけど、それは僕の勝手な気持ちでしかなくて、結局真崎さんの行動を決められるのは真崎さんだけなんだって」  そして、真崎は涼一のためであっても自分の意思を曲げることはない。過去がそれを阻むのだ。 「悔しいけど、僕にできることは、僕の行動を決めることだけなんです。だから僕は一人でも前に進むって決めました。自分のためです。僕が……真崎さんのことが、好きだから」  真崎は涼一から目を逸らした。「馬鹿だぞ、お前」  そして、覆い被さるように涼一を抱きしめ、肩に顔を埋めてくる。  大きい体の全体重をかけられ、涼一は後ろに向かってよろけた。何歩か下がり、倒れそうになったところで、後ろにある駐車場のフェンスに背中がぶつかった。ガシャンっと、フェンスは大きく揺れた。  ゆく先の闇をヘッドライトで照らしながら、真崎の背後を、何台もの車が通り過ぎていく。  光、長い闇、光、光、闇。  不規則な明滅を、涼一は瞳の表面に映していた。 「……俺に期待すんな」  大きな体を小さく丸め、真崎は言った。 「無理なんだよ。誰かを好きになったり誰かのために生きたり、コイツだけは絶対に幸せにしてやるって思ったり……俺にはもう無理だ。お前の性別がどうこうってのは別にしても、もうそういうのはしないって決めたんだ」  それは恐らく、かつて愛した女性を幸せにできなかった負い目のせいだろう。  たった一人、愛した人のために――心のどこかで分かっていたはずなのに、息ができなくなるほど胸が苦しくなった。  けれども涼一は、真崎の頭に頬を寄せ、「大丈夫です」と言った。 「真崎さんができない分、真崎さんと僕の二人分、僕が幸せにするし、好きになります」  だから大丈夫。  涼一は真崎の頭を撫でた。真崎は深く息を吐き、涼一の体を壊そうとするように強く抱いた。 「……なんで……」  絞り出すような声で吐き出した言葉は、最後まで続かなかった。そして長い沈黙の後、「三十四」と奇妙な数字に形を変えた。 「何ですか、それ?」 「……歳だ。この前、三十四になった」  ジジイだろ、と真崎は自嘲する。  涼一の倍以上の歳だ。親子としてもあり得ない年齢差ではない。  まだ若いと励ましていいのかどうか考えていると、真崎は体を起こし、鼻先のぶつかりそうな距離から涼一の顔を覗き込みながら、「嫌になったか?」と聞いてきた。だとしても仕方ないと諦めたような目をしていた。 「嫌にはならないです。年齢以前に性別とかホームレスとか、もっといろいろありますし。それより」 「なんだ?」 「今日の真崎さん、結構臭いです」  冗談っぽく言うと、真崎は一瞬呆気にとられた後、「うるせえな」と気まずそうに涼一から体を離した。  あの公園に通っていた頃から随分と見た目を変えたつもりでいたが、炊き出しのときにホームレス達と親しくしていた涼一と、今のすっきりした涼一が同じ人間だと気づいたホームレスがいたらしい。真崎は涼一がどこかのスーパーでバイトしているという噂を酒井経由で入手し、この辺りのスーパーを総当たりで巡回していたそうだ。  そんな話を、帰る道すがらしてくれた。涼一もバイト先のことを話して、今日は母が出張のため家に帰っても一人だということを話した。そして真崎に「お風呂に入っていきませんか?」と聞くと、「そうだな」と答えた。その後はなんとなく気まずい空気が流れたが、その空気がお互いに同じ事を考えているのだと教えてくれた。  真崎と涼一は家中で体を重ねた。まず玄関のところで体を重ね、次は風呂場。体を洗いあいながらセックスし、それからリビング、キッチンと移動して、最終的に涼一の部屋のベッドにたどり着いた。疲れ果て、小さなシングルベッドに二人で眠った。  翌朝、ノックの音で目を覚ました。  返事がないと分かると、もう一度。そしてドアの向こうから、聞き慣れた声が聞こえてきた。 「涼一。まだ寝てるの?」  お母さんだ――寝起きのぼんやりした頭で考える。  まだ起きたくはなかった。狭いベッドの中で身を寄せ合うようにして一緒に眠る男の体温が、肌が、あまりにも気持ちよすぎる。  涼一は真崎の太ももの間に脚を差し込んだ。片腕で涼一を抱きしめていた真崎も、脚を擦り付けて応えてくれる。  しかし。 「涼一。入るからね」  ドアが開き、甘い空気が動く。そこには、出張に行っているはずの凉江が立っていた。 「おわっ!? なんだ!?」 「お、お母さん!?」  涼一と真崎は飛び起きた。  捲れた布団はかろうじて下半身を隠している。上半身は裸だ。  先に状況を理解した真崎が布団を引っ張り上げて涼一の体を隠しながら凉江に頭を下げ、その後で、「親はいないんじゃなかったのかよ」と耳打ちしてきた。 ……そのはずだった。凉江はこれまでにも出張で家を空けたことがあるが、予定よりも早く帰ってきたことなんて一度もなかった。涼一自身にも、何がなんだか分からない。  答えたのは凉江だった。 「相手方の都合で今日の商談がなくなったので、朝一の新幹線で帰ってきました。せっかくなので今日は午後出社にしたんですよ」  凉江の口元にはよそ行きの微笑みが浮かんでいる。  息子のベッドに見知らぬ中年男がいることも、息子とその男が裸で眠っていたことにも驚いた様子はない。昨夜ここで起きたことをを示すような臭いの残る部屋に顔色一つ変えずに入ってきて、勉強机の上に綺麗に畳まれた服の山を二つ並べた。 「涼一。服は洗って乾燥機にかけておいたから、着替えたら朝ご飯を食べにいらっしゃい。橘さんも――」  そう言って真崎を見た一瞬、凉江の顔から完全に表情が消えた。しかし瞬きの間に艶然とした笑みを戻し、ほつれ毛を耳にかけながら、部屋のすみにある本棚に視線を移した。 「髭剃りでも用意しておけば良かったんですけど、何分急だったものですから。そのままでも構いませんので、準備ができたら息子と一緒に来てください。ご挨拶もまだでしたでしょ?」  そして部屋を後にした。  まだ頭が現実に追いつかない。けれども、まずいことになったのだけは分かる。  涼一は真崎を見上げた。真崎は険しい顔で、無精髭と呼ぶには長すぎる髭を撫でていた。 「真崎さん。どうしよう……」 「どうしようもねえだろ」  あっさり言って、真崎は涼一を残して勉強机の前まで行った。そして凉江が置いていった下着を手に取って振り返る。 「ほら、アイロンまでかけられてる。……俺の名前も知ってたし、もう全部分かってんだろ、お前のお袋さんは」  昨夜、真崎と涼一は家中で体を重ねた。壁や床に飛び散った汚れは、朝になったら掃除すればいいとそのまま放置していた。服も一緒で、廊下に脱ぎ捨てたまま放置して眠ってしまっていた。  凉江が真崎と涼一の服を洗って持ってきた。その事実が意味することを、真崎は暗に告げているのだ。 「こうなった以上は腹括るしかないだろ」 「でもお母さんは僕が男の人を好きだってことも知らないんです。ホームレスだって嫌いだし、不潔な男の人も嫌いだから……」 「俺は不潔かよ」  真崎はハッと鼻で笑い、下着を履いた。  なぜそんなに落ち着いていられるのだろう。このまま切り捨てられるのではと思い、涼一はますます慌てた。 「僕は嫌だ。こんなことで真崎さんと離れたくない」 「馬鹿だな」  着替えを済ませると、真崎は涼一の着替えを持って戻ってくる。 「そう簡単に離せるくらいなら、朝から晩までお前探してスーパーハシゴするかよ。無職だってそこまでヒマじゃねえっての」  真崎はベッドの横でしゃがみ、涼一の鼻をギュッと摘まんだ。 「っ……!」 「お前の二倍は生きてんだ。もっと頼れよ」  鼻を離される。「でも……」と反論しようとすると、唇に軽いキスをされた。そして真崎は、キスした場所を指で撫でながら優しく言った。 「こういうとき、どうしろっつった?」 「……分かんない」 「お前、俺よりずっと賢いんだろ? 考えんの放棄すんな。ほら、答えてみろよ」  本当は分かっていた。ただ、どうしようもなく怖くて泣きそうだった。  まだ泣いてもいないのに、真崎の指は涼一の目元をそっと拭う。「ん?」と首を傾げながら顔を覗き込まれると、もう駄目だった。  涼一は真崎の首元に抱きつき、大きな背中をトントンと二度叩いた。「心配すんな」と、真崎も涼一を抱きしめ返した。 「塀の中ぶち込まれても離すかよ。絶対……」  真崎の低い声が空気を震わせる。  涼一を抱きしめる真崎の指は、涼一の白い肌を赤く染めるほどに強く食い込んでいた。    凉江は昨日涼一と真崎が汚したキッチンに立っていた。こびりついて固まっているはずの汚れはない。リビングに入る前に確認したが、廊下や洗面所も綺麗になった。一通り掃除してくれたらしい。 「おはよう、涼一」  声をかけてくる母を直視できず、俯いて「おはよう」と返す。直後、隣にいた真崎が凉江に向かって深く頭を下げた。 「ご挨拶が遅れてしまって申し訳ありません。私は橘マサキという者です。ご挨拶もしないうちから勝手にお邪魔させていただく形になってしまい、すみませんでした」 「村瀬凉江です。いつも息子が――」  言葉が途中で途切れた。  コンロの上では、昨日涼一が作った野菜スープの残りが沸騰してコトコトと音を立てている。凉江は深く呼吸しながらゆっくりと火を止め、改めて真崎に向き直った。 「――橘さんには、感謝したらいいのか責めたらいいのか分かりませんね」 「……本当に申し訳ありませんでした」 「とりあえずその話は後にして、まずは食事にしましょう。あまり遅くなると息子の生活リズムにも影響が出てしまいますから」  朝食は一切会話の無いままに終わった。  テーブルが綺麗になると、凉江は真崎と自分にはコーヒーを、涼一には煎茶を淹れて戻ってきた。  リビングのローテーブルを挟んで三人で向き合う。凉江は一人、涼一は真崎と隣に並び、直接床に座った。  凉江は腰を落ち着けるなり、前置きもなく切り出した。 「失礼ですが、橘さんにはすぐにでも性病検査を受けていただきたいと思います。費用はこちらで持ちますので」 「やめてよ、母さん!!」 「あなたは黙っていなさい」  ぴしゃりと一蹴された。怒鳴られたわけでもないのに、あまりにも冷たい声に、それ以上何も言えなくなってしまった。 「この通り、世間知らずな子供ですから。まずは橘さんの方で受けてください。その結果何か問題があれば息子にも受けさせますので。検査機関もこちらで指示させていただきますから、連絡先を教えてください。――服を洗濯するときにポケットから携帯が出てきましたが、まだ使えますよね?」 「大丈夫です」  そう言って、真崎は十一桁の番号を告げた。涼一の携帯にもまだ登録されていない番号だ。 凉江はすぐに電話をかけ、連絡先の交換が完了する。更に真崎は、財布から出した免許証をテーブルに置いた。 「必要があれば、こちらもお控えください」  真崎の免許証――涼一も覗き込んだ。  来年の十二月二日まで有効となっている免許証の住所には、隣の市の住所。氏名の欄には、「橘正樹」という見知らぬ男の名前が書かれていた。それが真崎の本名のようだ。  凉江は「結構です」と免許証に目もくれず、コーヒーを口に運んだ。カップから唇を離すと、縁のところに赤い口紅の色が残った。 「息子のことが心配で探偵を入れましたから。その際に橘さんのことも知り、少し調べさせていただいたんですよ。ホームレスではさすがに素性は分からないかと思ったんですけど、最近の探偵は凄いですね。橘さんご自身のことは勿論、熊本のご実家やそちらを継いでいらっしゃるご兄弟のこと、以前ご結婚されていた女性のことまで一通り分かりましたから」  言いながら、凉江は真崎と涼一の顔をそれぞれ探るように見ていた。真崎が逃げても周囲の人間に連絡を取ることができるのだと遠回しに脅しをかけ、それと同時に、涼一がどの程度真崎のことを知っているのか探っているのだろう。  真崎は免許証を無言で片付けると、額と手を床に付け、深々と頭を下げた。 「息子さんのことは、本当に申し訳ありませんでした」 「やめてください。あなたのように、路上でも平気で寝られる人間の土下座なんて全く価値もありませんし」 「それでも……申し訳ありません」 「おまけに一回り以上も年の離れた子供に手を出すなんてね。異常ですよ、あなた」 「…………」  真崎は床に額をつけたまま、じっとその言葉に耐えているように見えた。  凉江が真崎にここまでの言葉を吐く理由は分かっている。凉江が本気で涼一を愛してくれていることも、涼一を守ろうとしてくれていることも、痛いほど分かっているつもりだ。  だが今は、激しい怒りを気丈に抑え込もうとしている母の姿より、大きな体を丸めて土下座している真崎の姿が耐えられなかった。  涼一は意を決し、真崎の背中に手を当てて、体を寄せた。 「母さん。真崎さんは確かに大人だけど、最初に誘ったのは僕だから……」 「黙ってなさいって言ったでしょ。これはあなたが口を挟むようなことじゃないの」 「だけど真崎さんと僕のことじゃん! ――真崎さんも体を起こしてください!」  背中を揺すっても真崎は顔を上げない。「真崎さん!」と強く引っ張ると、ようやく体を起こし、大丈夫だとでも言うように涼一の膝に手を置いてくれた。涼一はその大きな手を、上からぎゅっと握りしめた。 「……橘さんもご存じかもしれませんけど」  凉江の視線が、テレビ台の隅に置かれた写真立てに向いた。写真を六枚まで入れられる大きな写真立てには、涼一が赤ん坊だった頃から小学校を卒業するまでの写真が入っていた。 「息子は、父親をほとんど知らないんですよ。正式に離婚したのはだいぶ後なんですけど」 「伺っております」 「あの男は息子がお腹にいた頃から全く家に帰ってこなくなって、私は実家にも頼れない事情があって……。だから息子の身近には、頼れる大人の男性がいなかったんです。それでも母親さえいれば平気だと半ば思い込むようにしてここまでやってきたんですけど」  そこまで言って、凉江はやっと真崎と涼一の方に顔を戻した。いつの間にか、化粧でも隠しきれないほど、目元が赤くなっていた。 「断言しますが、息子があなたを慕うのは、本来子供が父親に向ける愛情を勘違いしただけですよ。あなたとの行為に流されるのも、それが愛情行為だと勘違いしたか、初めての肉体的な刺激に依存してしまっただけです。思春期の子供の錯覚です」 「違う!! なんで母さんが勝手にそんなこと決めつけるんだよ!!」  しかし真崎は、「分かっています」と静かに答えた。 「分かっていたのですが、人からゴミみたいな目で見られるようになった俺を必要として……こんな俺にも懐いてくる涼一が可愛くて……欲望を、抑えられませんでした」  まるで犯罪者のような言い訳。涼一との関係も、性的なものでしかないと言っているように聞こえた。  ショックだった。心臓の鼓動がどんどん早くなり、目の前が歪む。しかし顔には出さないように、口の内側を噛みしめ、無理やり耐えた。 「最初に手を出したのも、涼一が誘ったからじゃありません。過去を俺に知られたことで弱っているところに、俺がつけ込みました。それからもずるずると……」  凉江の顔が怒りで真っ赤になる。だが凉江は深く息を吸い、震える声で、ゆっくりと吐き出した。 「――息子はあなたみたいな人間のいいようにさせるために産んだんじゃありません」 「申し訳ありません」 「確かに私も完璧な母親にはなれなかったけど……この子から父親を奪って、この子の……この子の一番辛い時期に、余計に傷つけることしかできなかったけど……。だけど私なりに全力を注いで育ててきたんです! 必死で、涼一のことだけを考えて……!」 「……申し訳ありません」 「なのにあなたみたいな人間に――」  凉江の語気が荒くなっていく。突然、真崎がそれを遮った。 「それでも今は俺のもんです」  真崎は涼一の腕を掴み、強引に抱き寄せる。 「錯覚だろうがなんだろうが、こいつは自分で俺を選んだんです。もちろん俺も本気ですから。村瀬さんが俺たちのことを否定するのは当然ですけど、例え村瀬さんが親として当然の権利を行使したとしても、俺は涼一のことだけは絶対に諦めませんよ。どんな手を使ってでも探し出して、必ず捕まえに行きます」 「なんで……!? どうして涼一なんですか!? もっと他に、歳の近い相手とか女性とか、なんでもいいから、涼一じゃない相手を探してくれれば良かったのに!」 「いないんですよ! こいつ以外いらねぇんだ!」  ついに真崎も声を荒らげた。凉江は唇をきつく結び、無言で天井を見上げて目を瞑る。  沈黙の時間が続いた。  涼一が生まれて初めて抱いた感情が……涼一の行動が招いた結果だ。  涼一はもう口を挟むこともできず、テレビ画面の向こうのできごとを眺めるように、目の前の光景をぼんやりと瞳に映していた。  いくらか興奮を鎮め、真崎は強引に捲し立てた。 「なるべく早く、住むところを見つけます。正社員の仕事も探します。涼一とはいずれ一緒に生活するつもりなんで、年内は無理でも、来年中には必ず、きちんとした形でご挨拶できるようにはさせていただきます」 「……そうですか」  あっさりした反応だった。  凉江は目を開き、真崎の方に顔を戻した。鼻の頭と目の周りが赤い。しかし、泣いてはいない。ただ諦めたように微笑み、ほつれた髪を細い指で耳にかけた。 「以前は機械関係の営業職ということでしたよね? 具体的な仕事内容や経験をお聞きしないとはっきりしたことは申し上げられませんけど、いくつかご紹介できると思いますよ」 「は? いや、でも……」 「住むところについても、初期費用と当面の生活費くらいでしたらお貸しさせていただきます。保証人や現住所が必要でしたら、そちらもご協力は可能ですから」 「――どんな条件を積まれても、コイツから手を引く気はありませんよ」  真崎は警戒しているようだ。凉江はゆるゆると首を横に振る。 「そんなつもりはありませんよ。別に一言だって、あなたと会うななんて息子に言ってないでしょ?」  そう言われても、真崎は警戒を緩めない。  無理のない話だ。凉江の態度は、さっきまでとあまりに違いすぎる。  凉江自身も分かっているようで、「親としては、恨み言の一つや二つ言いたくもなりますよ」と、本気とも冗談ともつかないことを口にした。真崎は言い訳も反論もしなかった。 「これでも、息子よりもあなたよりも人生経験を積んでいますから、どうすることが正しいのかは分かっているつもりです。息子のためだからこそ、心を鬼にしなくてはいけないときがあることも……。ですけどね、客観的に見た正しいことが、必ずしも涼一にとっていいことだとは限らないんです。――私は以前、そう学びました。だから橘さんとのことは全て息子に任せるつもりでいます。親として最低限の口出しはさせていただきますけど」 「……申し訳ありません」 「その代わり、一つ約束してください。涼一はこれから社会に出ていって、様々な出会いを経験するはずです。中学の頃よりもいい出会いが、もっとたくさんあるはずなんです。そうしていくうちに比較対象が増え、大人と変わらない目で冷静に橘さんを見ることができるようになるはずです。それでもし、息子が橘さんとの関係を清算したいと思うようになった、そのときは――」  何かを予感したように、真崎は「はい」と、ゆっくり瞬きした。凉江は躊躇も見せず、はっきりと言った。 「この子の人生から綺麗さっぱり消えてください。そして、二度とこの子の前に現れないでください」 「約束します。必ず」  真崎は迷わず答えた。しかしその腕は、涼一を強く握りしめてくる。そのときが来ても絶対に離さないとでも言うように。 「橘さん。もう一ついいですか?」  凉江は足を崩し、疲れたように微笑む。心なしか、空気が軽くなったような気がする。 「その子に、あまり乱暴に触らないでください。痛いとかつらいとか、なかなか口にできない子なんですから」 「あ……。悪い、リョウ」  真崎の手が、パッと離れる。  涼一は「いえ……」と答え、真崎に握られていた腕を押さえて俯いた。まだじんじんしている。服越しに感じていた真崎の手の熱さとじっとりした湿り気も、まだ残っていた。 「もっとも、あなたになら言えるのかもしれませんけどね」  凉江はテーブルに手を付き、少しよろけながら立ち上がった。 「少し……汗を掻いたので、席を外させてもらいますね。涼一。橘さんの飲み物がなくなったら、またコーヒーを淹れてあげて。できるでしょ? お母さん、ちょっとお化粧を直してくるから。もしかしたら時間がかかるかもしれないけど、お願いね」  涼一の返事も待たず、凉江は部屋から出て行った。  真崎と二人きりになる。今度こそ真崎は、包み込むようにそっと涼一を抱きしめ、大きな背中を丸めて涼一の肩に顔を置いた。 「かっこ悪ぃなぁ……。俺。お前に偉そうなこと言っといて、結局パニックになって逆ギレしてんだからさ。ほんと最悪だ」 「そんなこと――」  ない、と言うつもりだったのに、言葉が最後まで出てこなかった。  張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。  突然、涙が溢れ出してきた。 「……あれ? ごめんなさい……僕……」  涼一の異変に気づき、真崎は顔を上げて涼一を見た。 「リョウ……。どうした? 緊張したのか?」 「違うんです。なんか……ごめんなさい」  涙を拭う。拭いたそばから、また次の涙が溢れてくる。涼一の涙は、その後もずっと止まらなかった。

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