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三、

翌日。やはり昼過ぎまで寝ていた父は、お天道様が高くのぼってくだり始める頃に起きた。そうして我が物顔で食事をとり、山へ行く支度をする。……当然、ハチヤが食べられるのはこの後であった。 「おおい! ハチ!」 庭先で道具をいじっていた父が、変わらず怒鳴るように息子の名を呼ぶ。囲炉裏の灰を整えていたハチヤは、その声に肩を震わせながらも、不自由な脚を懸命に動かして戸口へ向かった。 「(ざる)か篭、持ってこい」 「ざ、笊……?」 「こりゃ、近いうちに狸汁が食えるぞ! 足跡があちこちついてら!」 そこでハチヤはこめかみから頬にかけてひりひりするような緊張感を覚えた。きっと、あの狸の足跡なのだろう。ハチヤが糸車を回すのを真似して楽しむような、茶目っ気のある狸――父はその痕跡を見つけて、罠を仕掛けようとしているに違いない。 「だ……けど、いま使えるようなものは……」 「ああ!? それが骨折って狸汁食わせてやろうとする親にする物言いか!? てめえじゃ飯もろくに食えねぇくせに」 「ひっ、ごめんなさい! いま探しますから……!」   父が激高し、荷車に積んだ鉈に手をかけたのを見て、ハチヤは飛ぶように室内へ転がっていく。そして腕の力を使って身を這わせながら板床を移動し、狸を捕まえられそうな入れ物を探す。 しかしなかなか満足な罠になりそうな物はなく、あったとしても調理に使う笊やらで、さすがにこれを差し出してしまったら、あとあと食事の用意を出来ずにどうなるか分からない。 「早くしろ!」 庭では父が叫んでいる。焦るハチヤの額にじっとりとした汗がにじむ。床を這う腕が痺れてきた。しかし休む暇などない。 「……あ」 ハチヤの視線が、綿花を入れる篭にぶつかる。気が付きたくなかった。けれどこの大きさや深さは……罠にするには丁度よいのだろう。 すぐにでも篭を隠したい衝動に駆られたが、そんなことができる訳もなく肩を落として、中に詰めた綿を取り出していく。床に真白な綿がぽろぽろと転がった。どうしようもない悲しみが胸に満ちる。 床に転がる綿は、ハチヤの涙粒のようだった。 (どうか、どうか。あの狸が罠にかかりませんように) やがて、綿花を入れるための篭は、狸を生け捕りにするための罠へとその役目を変えてしまった。  ◆ ◆ ◆ その日からハチヤは、庭に仕掛けられた罠をちょくちょく気にかけた。密かに篭を捨ててしまおうかとも思ったが、そんなことが知れたら、どうなるのか。やはりハチヤには何も出来ず、ただ見守るだけだった。いっそ父のいない時間にかかってくれれば、素知らぬ顔で逃がせるのだが……現実は、そう甘くないのだ。 泥酔した父が、相変わらずウシガエルのようないびきを立てているころ、庭から獣の悲鳴が響く。 「あ……!」 ハチヤは焦った。父が嬉々として起きてくるかもしれない。けれど、今は罠を確かめておきたくて、ハチヤは障子を開けると濡れ縁に右膝を立てた。 「キュウゥー、キュッ」 やはり、目の前に仕掛けた罠の中には狸の影がある。ハチヤは「大丈夫だよ」と努めて小声で呼びかけた。 そして濡れ縁を伝って、右膝と両手の力で転がるように庭へ降りると、篭を外してやる。パッと狸が飛び出して、荒れた畑の方へ走っていった。やはりあの狸だった。 さて、これで問題は一つ片がついたものの、もう一つの父の方とは言うと。恐る恐るハチヤが室内へと戻ると―― 「ったく! うるせぇーんだよ!」 怒鳴り声が響き、ハチヤの体から力が抜けていく。見つかってしまった。こうなっては、もう犯されるだけでは足らないかもしれない。ハチヤは頭皮がピリピリと痛くなった。 「ああ、なんだと……それ……は……」 けれど、父は襖の向こうにいた。 どうやら泥酔の寝言だったらしい。幸いなことに胸を撫で下ろしたが、ハチヤは興奮してあまり眠れなかった。 それから数日が経ったが、再び狸が罠にかかることはなかった。それと同じくして、狸が糸車を見に来ることもなかった。ハチヤは寂しさを覚えたが、それ以上の出来事に、心に安寧の風が吹き始める。 「じゃあな。怠けるんじゃねえぞ」 「はい。おっ父、お気をつけて」 「うるせえ!」 父が木材を売りに、町へ出掛けることになったのだ。とはいえ、その金ですぐに酒に浸かったり、女に溺れたりして、ほとんどの売り上げというものもないのだが。 それでも、数か月に一度訪れるこの時間は、ハチヤにとって気の休まるものなのだ。 「あ、あと……これも、お願いします」 木材と共に売ってもらうため、微々たるものだが紡いだ白糸を渡す。これもまた父の腹の中か、欲の方向へ溶けるのだろうが、唯一といってもいいハチヤの成果物だ。 父はさしてなんの感情もなくそれを受け取ると、荷車にぽいと投げ入れた。やがて車輪は回り、町へと降りていく――。 ハチヤは父を見送ると、改めて糸を紡ぐため、綿花を取りに戸口へ出た。その手には篭替わりの鍋があった。 「あれ……?」 戸口のすぐ脇に、雪がこんもりと積もっている。いや、それはまさにハチヤの摘もうとしていた綿花であった。あわせてイガを纏った大ぶりの栗も、二、三と転がっている。 「あ……もしかして」 きっと、あの狸のお礼だろう。とハチヤは一人静かに微笑んだ。 (可愛いな、毎日でも遊びにきてくれたらいいのに……) ハチヤは生まれて初めて友を得たような気がした。もう会えないだろうと思いながらも、自分勝手にそう願ってしまう。 ゆっくりと腰を下ろして、まずは綿花と栗に手を合わせる。そうして、とても愛おしそうな眼差しでそれらを拾い上げていった。 つづく

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