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五、

疲れているのか、父は荷解きをするとすぐに寝てしまった。いつもの通り襖の向こうで眠っているが、飲んでいないためか、本当に久方ぶりに、いびきをかかない夜だった。 更に驚くことに、ハチヤが起きる頃には父も起き出し、「ハチヤも食え」と食事を許したのだ。 ハチヤは開いた口が塞がらない思いでありながらも、常に警戒をしていた。どこで機嫌を損ねるか分からないからだ。 「ハチヤ、糸は作っていたのか」 「え、あ……はい」 二人で囲炉裏を囲み、温かく煮た栗粥をすする。そして他愛のない言葉を交わした。こんなことは、ハチヤが物心ついてからは初めてのことだった。 「……あの、おっ父」 「ん?」 「町って……どんなところ?」 勇気を出して、ハチヤはまた、他愛のない言葉を口にしてみる。しかし、父はその問いを受けたまま黙り込んでしまった。ああ、これはきっと失敗だ。熱い粥の入った器を投げつけられるに違いない。 「ううん、やっぱり、なんでもな――」 「人が多いところだな」 問いを引っ込めようとしたところで、父は答えた。 それがどれだけ多く、なぜ多いのか……聞きたいことは胸の中に溢れ返るが、これ以上つついて、眠れる蜂が飛び出す危険は冒したくなかった。 「ありがとう、ございました」 そう返答するだけにして、栗粥を飲み込んだ。 「あの、ぼく、糸を作るので……」 「ああ。では、見ていてもいいか」 ハチヤはそこで、はっと顔を上げた。そうしてじっと父の目を見る。いや、それは―― 「……おっ父は……ぼくのおっ父は、今どこに」 父でない「父」の目だった。 「きみは、あの狸なんでしょう? さすがに分かるよ……だって、おっ父とは親子だし。それに」 ハチヤは一度目を落としてから、もう一度、囲炉裏の傍に座るその人を見る。 「あの人は、ぼくをハチって呼ぶから」 「…………そうか。とんだ茶番だったわけだな」 ぐにゃりと、父の姿が歪んでいく。やがて現れたのは、赤みの強い紅葉色の狩衣に身を包み、長く豊かな茶髪を垂らした青年の姿だった。端正な顔と、落ち着いたその人の態度とは不釣り合いに、頭には狸特有の丸っこい三角の耳が一対と、腰の後の方には襟巻にしたいくらいの尻尾が一本、床に垂れている。 「狸って、本当に化けられるんだね」 思ったよりも冷静に、ハチヤは狸に対峙した。なにせこの「人」には、糸を作る仕草を真似するような、可愛い一面があるのだから。きっと害をなす恐ろしい妖のたぐいではないのだろう。 「耳としっぽ、ついてるんだ……」 「そなたと話しやすいように人の形を模しているからな」 それで……と再び、父について問おうとしたその時だった。 「――死んだ」 「……え?」 「そなたの父親はあの日、町へ向かう途中の峠で足を滑らせて崖を落ち、死んだ」 狸の青年は淡々と語る。ハチヤの思考は、その声にまだ追い付いていなかった。 「持って来られたのは、これだけだ」 懐をあさると、人の手となんの違いもないその手のひらに、毛束を乗せて差し出した。……紛れもない、父親のがさがさな髪だった。 「なんで……なんで、だろう……おっ父……」 「すまない、騙すようなことをしたな……せめて俺が身代わりになって、そなたの一生を見届けられたらと思ったのだが」 ハチヤはただ静かに、父の遺髪を両手に乗せてじっとそれを見ている。下瞼には、みるみるうちに涙が溜まり始めた。溢れそうなそれは、チラリと輝く。 「なんで……どうして、なんだろう……っ」 震える手に合わせて、涙がぽたりぽたりと零れた。板張りの床に、悲しみのしみが浮かぶ。 「ああ、ぼく…………悲しいって、思えないでいるんだよ……」 「ハチヤ……それは……」 涙はあとからあとから溢れているのに、感情がついてこない。いや、そもそもこの涙が何のために流れているのかすら、ハチヤには分からない。 「こんなのうそだよ……っ!」 囲炉裏の火箸に手を伸ばすと、その鋭利な先端を喉に向ける。 「ハチヤ!」 青年は咄嗟にその手首を掴み、火箸を弾き落とす。そして錯乱状態にあるハチヤの体を押さえつけるように抱き締めた。強く、その薄い肩を掻き抱く。 「こんな不孝者、生きていられやしない! 脚も悪い、仕事もろくにない……ぼくには何もないんだ! だからこのままおっ父を追って――」 まくし立てるように叫んでいると、ふいに呼吸が奪われた。ハチヤの唇を青年のそれが覆っている。そしてゆっくり離れると、ハチヤは呆然とその顔を見上げた。それは口付けに驚いただけではなく、似ているのだ。この温もりが――いつぞやの、夢見に。 「あゝ、綿毛よ、綿毛  あゝ、ましろな綿毛よ  白き心を宿した糸になれ……」 青年の低い声が、ハチヤの唄う紡ぎの歌を奏でた。それは耳障りのよく、落ち着く音色だった。 「いつもこの歌を唄う、そなたを見ていた。糸を紡ぐハチヤは、とても綺麗だ」 優しい指先が、ハチヤの涙を拭っていく。それは悲しみも苦しみも取り去っていくようだ。 「俺のために、糸を紡いでくれないか。これからも、俺の傍で……」 深く黒い瞳に見つめられていると、うまく言葉が紡げない。きっと喉の奥で、糸が絡まっているのだ。 「ハチヤ?」 「……きみの名前、教えて」 「楓だ」 「綺麗な名前だよ、よっぽど、ぼくより……」 再び唇が触れる。まだ何も知らない。そもそも人間と獣という本来は心の通う同士でもない。 それでも―― 『……糸車(これ)、面白い?』 あの晩に紡いだ(いと)は、確かに続いているのだ。 あとは想いを重ねて、縒っていくだけ。 「不思議……触れるだけで、こんなに気持ちいいなんて」 「……ハチヤ」 耳元で囁かれると、心が解けていくようだ。夢で逢った「誰か」は楓だったのだろうか。今となってはもう分からないが、絡ませた指の温もりは夢ではなく、ただただ本物だった――……。

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