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** これが天使の御業でなくて何だ。

 初めて彼を見た時、天使が現れたのだと思った。    それは方向性は違っていても自分の上司になる人間と同じ第一印象だと後で知ることになる。        吉永圭人、その名前を俺はその時まだ知らなかった。彼は名乗らなかったし俺も聞かなかった。タイミングがなかった。  初めての出会いはバスジャック事件。  彼はいわゆる交渉人としてやってきた。ネゴシエーターなんて本当にいるとは思わなかった。しかも、東洋人の少年が現れるなんて理解できない。  ツアー会社が企画したドッキリだったと言われた方が納得ができる。  その時の俺は中学に入りたてで入学祝いとして母と観光ツアーに参加していた。中学からは寮生になる。毎日、朝陽さまのそばに控えなければならない。それを苦痛とは感じないけれど気が抜けない日々が始まると思えば多少重苦しい。そんな気分の中で銃を突きつけられる非日常。    大人しく温泉旅行にすればよかった。朝陽さまがヨーロッパの風景写真を希望されなかったらわざわざツアーに参加などしなかったのにとこれから死ぬからこそ情けなくも自分の死の理由を人に擦り付けた。  バスジャックが成功する確率は低いし、人質が無傷で解放されることも少ない。体力の少ない子供は早めに解放される可能性が高いかもしれないが生憎と人種の問題がある。日本人であるがゆえに優遇される場合もあるが場所が悪い。    その時の情勢で優先事項が変わることはままある。上の指示と現場の動きが違うなんてことも当然ある。日本人観光客は一旦確実に見捨てられた。  犯人グループは聞き慣れない言葉で嘲笑っていた。逃げ切れるはずもないからバカは彼らだと思いながらもツアー客はみんな死を覚悟していた。日本語英語フランス語ドイツ語、現地のスラングを混じっているのか、聞き取れないものも多かったが「心中」や「死」を連呼する彼ら。犯人たちは死を恐れない。  銃や爆弾や刃物よりも目的のために簡単に死ねるその精神こそが恐ろしいものだと感じた。  テロリストには屈してはならない。誘拐犯や立てこもり犯、彼らの要求には一切答えてはいけない。人質がどれだけ大切であったとしても要求が通った前例を作らせてはいけない。    中学生にしては落ち着いた方で知識量だって多いし早熟で達観している。勉強も頑張って同い年の主人に気に入られる立ち振る舞いも完璧で優れた人間の枠内に足をかけている、そう思っていた。  主にあたる朝陽さまと比べれば凡人だとしても主とは受けている教育も目指している場所も違うのだから仕方がない。この事件に朝陽さまが立ち会って対処できるとも思えない。それが恥ずかしくも俺の救いだった。    犯人グループの早口の英語は訛りも強くてきちんとは聞き取れない。  けれど、現れた少年の姿から交渉人として話していた相手を出せと言ったのを理解する。  何人かの人質が解放された。そう上手くいかないのか犯人は人質の一人の足を撃ち抜いた。ぎゃあぎゃあ叫んでいる犯人と静かに話す少年。会話の内容は知らない国の言葉でさっぱり分からない。溜め息を吐いた少年が上半身のシャツを脱いで両手を上げた。  興奮した様子の犯人グループはバスから出て出入り口付近にいる少年と相対する。  怪我人という人質がいることで少年は身動きが取れない。犯人たちは大声で何かを叫ぶ。たぶん「裸になれ」「服を脱げ」そういったものだろう。  このやりとりの間にバスの後ろのガラスを外したらしく現地の警察なのか特殊部隊なのか制服に身を包んだ人たちに救助された。少年のことが気になってバスの前方を見れば犯人グループの四人ともが倒れていた。  バスの車体が邪魔で見間違ったのかと思ったけれど間違いなく少年は無傷で犯人グループが倒れていた。発砲音も大きな音も何もない。  どういうことなのか分からないまま少年に礼を言うこともなく日本に帰国させられた。見てしまった一連のことを決して口外しないようにと念を押された。細かい話を聞かれることもなく犯人がどうなったのかの話も教えられないまま。    心に引っかかったまま中学を朝陽さまの隣で過ごしていた。中学で生徒会長になった朝陽さまは高校でもそのまま生徒会長を務めるということで中学生でありながら高等部の手伝いを色々とされていた。その朝陽さまを手伝うのが俺の仕事だった。    そして俺はまた天使と出会った。    中学二年、高等部の修学旅行についていく朝陽さまについていく俺。オマケのオマケだ。今度もまたバスジャックだったが銃や爆弾ではなく毒薬らしい。犯人が持っている瓶や袋から出るガスを吸ったら死ぬらしい。もちろん犯人も死ぬ。  その時、幸いだったのが俺が自由行動中だったことだ。生徒会役員の先輩たちと朝陽さまは楽しくショッピング中。家の目の届かないところで羽目を外したいのか俺は暇を出された。特に治安の悪い田舎でもないので以前のようなことは起こらないと思ったが、これだ。    だが、以前のバスジャックは四十時間はかかり精神的に厳しかったが今回はスピード解決だった。脅し文句を口にしている最中の犯人の肩をトンっと命知らずの誰かが叩いた。それだけで犯人は白目をむいて泡を吐きながら倒れてしまった。毒物である瓶や袋が破損して周囲に散布されないように受け止めている。    俺の視線に気づいたのか彼と目が合った。一瞬、目を見開いた後に人差し指を口の前で立てて首をかしげた。秘密にしてくれるかと聞かれた気がして何度も頷く。  上半身裸の彼の姿を思い出してあの時は、何をしたのか今は何をしているのか、そういったことを聞きたい欲求があるものの止まったバスから犯人が引きずられて彼は下車した。  バスから降りる時に見たことは言わないように言い含められてお金を握らせられた。  彼のことを知る機会はまた奪われたのだ。    高校一年の入学式、天使の姿を同じ新入生の中に見る。朝陽さまが壇上であいさつをしている姿も目に入らず俺は天使を見つめていた。  動かない表情は平均的な日本人で髪の毛は手入れをしていない人間特有の妙にボリュームがあり広がったぼさっとしたもの。けれど、彼が壁を垂直に駆け上がり「みゃーみゃーさん」と無表情に反した明るい声で、生徒会顧問の宮本先生に抱きついたのを見た。天使だった。  美形であるとか近寄り難い雰囲気であるとか愛らしいとかそういうことじゃない。天使は天使なのだ。  宮本先生は決して軽くはないだろう天使を持ち上げて「大きくなったなぁ」と親戚の子供に対するような口調で対応する。親しげな姿に俺はなぜか悔しかった。  地味に交友関係を広げようとする天使に以前のお礼として学園生活のサポートを提案する。ただ俺が天使と話したかっただけだ。  天使はいつでも俺のピンチに駆けつけてくれる。俺は朝陽さまから天使を助けることが出来ないのに天使がそれを責めることはなかった。きっと天使だから人間の愚かさすらも受け入れるのかもしれない。視界が赤く染まる。頭が割れるように痛い。助けを心の中で叫んでいるとやはり天使は現れた。  フルフェイスのヘルメットを着用していたが、天使は天使に違いない。なぜなら事態を一瞬で解決したのだ。これが天使の御業でなくて何だ。  

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