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第2話
ミシェル・ド・メルガルは、彼を知る者からは伯爵と呼ばれる宝石商であった。
メルガルのミシェルという名の通り、先祖はメルガルを領地とする伯爵家、しかも現当主だ。
革命により領地は失ったが、今でもメルガル家は財閥の名に相応の資産を有している。
その伯爵が、日本の地――成田空港――に降り立った。
今日の伯爵は、オーダーメイドのスーツに身を包んでいる。先の尖った革靴、ネクタイピンとカフスは、瞳と同じ明るいブルーの大粒のパライバトルマリンであった。
昨晩、伯爵はベルギーのアントワープに滞在していた。
宝石商としてダイヤモンドの取引を終え、別邸でくつろいでいたところに天馬の訪問を受け、くだんの泉まで霊体を飛ばしたのだ。
『やはり、故郷はいいものですなぁ』
「この醤油の匂いを嗅ぐと、日本に来たという実感がわきます」
伯爵は歩きながら意識で空港を探索した。
この、税関に続く通路にも、ユニコーンの気配がほんのわずかだが残っていた。
意識を飛ばし、気配の行き先を辿る。建物を出て駐車場に至ると、そこで、ぷっつりと気配が消えていた。
車に結界を張ったか……。追手を意識したわけではなかろうが、慎重なことだ。
ついと伯爵が形のよい眉をあげた。
水色の瞳が向いた先には、安物の吊るしを着た四十代の男が立っていた。一見すれば、どこにでもいる、普通のサラリーマンだ。少し寂しい頭髪の下には柔和な顔がある。
「どうも、伯爵。おひさしぶりです」
「増田(ますだ)か。ひさしぶりだな。いつ、俺の来日を知った」
「いえいえ、まったく存じませんでしたよ。けどねぇ、こう……勘というんですか。今日は成田に行かなきゃいけないって気になりましたんで」
ぺこぺこと頭をさげ、伯爵の機嫌をとるように増田が答えた。
「まぁいい。おまえがここに来たということは、俺に用があってのことだろう。聞いてやるかわりに、荷物持ちをしろ」
「ご明察です。少々厄介な話がありまして、伯爵にご助力いただければ……と。そうそう、空港ヘは車で来ていますので、伯爵のお望みの場所まで送らせていただきますよ」
「殊勝なこころがけだ」
鷹揚に伯爵がうなずいてみせる。
急な日本行き、しかも私用だ。伯爵は秘書をともなわず、単身での来日であった。
増田は「いやあ、相変わらず伯爵は美男子でいらっしゃる」と無駄口をたたきながら、嬉しそうに伯爵からアタッシュケースを受け取った。
「しかし、随分荷物が少なくていらっしゃる。このアタッシュケースひとつだけとは」
「必要な物は別邸にすべてある。今の時代、カードとスマホがあれば、困らない」
「ははぁ。身の回りのお世話は、眷属――伯爵の場合は人工精霊でしたか――が、いれば十分ですしなぁ。いやはや羨ましい、優雅なものです」
空いた左手で増田が額を叩いた。
伯爵は悠然と、増田が小走りで後に続き、ふたりは駐車場まで移動した。
「しかし、伯爵は世界中にいくつ別邸を持っていらっしゃるのですか? 本宅はフランスと聞いていますが、私が知っているだけでも、パリ、ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、アントワープ、デリーに香港でしたか」
「ヨハネスブルグにドイツのイダー。ダイヤと宝石の主要な取引所がある場所には、たいてい屋敷を構えている。その方が、便利だからな」
「いや、さすがは伯爵。豪勢なことです」
そうして、増田の自家用車――四ドアの白いセダン――にふたりが乗り込んだ。
「伯爵は、どのような用件で日本にいらっしゃったのですか? それは、同行されている八咫烏様と関係あるのでしょうか」
「守秘義務に関わるので、答えられない。が……いずれ、おまえの手を借りることがあるかもしれない」
「なるほど、なるほど。それはそうでしょう。いや、年をとると余計なことを聞いてしまいます。私にできることなら、なんなりとご協力いたします」
「頼りにしている。それで、依頼の内容は?」
「悪魔退治です」
「日本に本物の悪魔が出たのか。珍しいことだ」
カソリック、プロテスタント問わず、キリスト教会にはエクソシストが存在するように、キリスト教文化圏において悪魔はメジャーな存在だ。
しかし、日本において悪魔は――それを使役する魔術師の存在も含めて――知名度は高いが、現実に悪魔が原因の憑霊現象は、極めて稀だ。
悪魔と名乗る存在はあれども、正体は野狐やたちの悪い死霊、人工精霊、いわゆる式や式神といわれるものばかりである。
そして、増田は伯爵が荷物を預けるほど信頼している心霊専門の情報屋兼仲介業者で、増田が悪魔といったなら、それは、悪魔が原因の心霊現象なのである。
面白いことになったな……。ユニコーン探しに、日本での悪魔退治。どちらも、滅多にお目にかかれない依頼だ。
伯爵の好奇心が疼く。
「日本にも、もちろん悪魔祓いも請け負う専門家はいます。しかし憑依されたのが、悪魔に憑かれていると噂になるだけでも問題のある方でして。私も誰に依頼しようか悩んでいたところに、伯爵が来日された。これはもう、いっそ天啓だと思った次第です」
「そこまで気を遣うとは、相手は名家か?」
「旧華族です。依頼者は井上(いのうえ)信彦(のぶひこ)氏。カトリック系の中高大一貫の女子高で日本史の教師をしています。憑かれているのは井上氏の祖母。井上氏が勤務する学園の理事長で、教育者としても知られた女性です。井上綾乃(あやの)様とおっしゃいまして、お年は七十六歳。そして、ここが問題なのですが、彼女に憑いた悪魔は淫魔――インキュバス――です」
「それは、外聞をはばかるな」
名の知れた名家の一員。しかも清純や貞節を生徒に教育する立場の女性、しかも老婆が、淫魔に夢中になっているのだ。
極秘中の極秘事項。滅多な者に悪魔祓いは頼めない。
「私が人選に苦慮したのもわかりますでしょう。しかし、伯爵ならば、同じ貴族の出身ですし、上流階級というものをわかっていらっしゃる。絶対に秘密はもれない。その上、超一流の魔術師ですから、あっという間に事件も解決しますしね」
「確かに、淫魔の一匹ていどなら、朝飯前だ」
気負うでもなく、伯爵が答える。
古の女神に友と呼びかけられる伯爵ならば、低級悪魔など、一瞥しただけで逃げ出すだろう。
とはいえ、逃すつもりはない。確実に捕まえる。
さて、どうやって捕まえるか。少しは歯応えがあるといいのだが。
憐れな生贄――淫魔――を思い、伯爵は水色の瞳を細めた。
狩る者となった伯爵の表情をバックミラーで確認すると、増田がおっかないとでもいいたげに肩をすくめたのだった。
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