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第3話

 その日の晩、日付のかわる頃。横浜にある井上邸は、どこかはりつめたような静けさに覆われていた。  原因は、このところ井上家の当主である綾乃の体調が優れないためだ。  同居している孫の信彦や住み込みの家政婦も、寝たり起きたりの女主人を気遣い、物音をたてないよう注意して生活していた。  井上邸は邸宅と呼ぶにふさわしい重厚な洋館で、広い庭には赤や白、ピンクや黄色といった鮮やかな薔薇が彩をそえていた。  その薔薇の上を黒い影がよぎり、綾乃の寝室に近づいていった。  開いた窓の隙間から、黒い影が寝室に忍び込む。  小さな影はもやもやとした煙のようなものに変わり、次第に大きくなっていった。  煙が人型を取り、三十歳前後の陽気で愛嬌のある男になる。 「やあ、綾乃。今晩も君に会いに来たよ」  親しげな口調で呼びかけると、男は綾乃のベッドに腰をおろした。 「あぁ………、義信(よしのぶ)さん。今晩も来てくれたのね」 「体調はどうだい?」 「義信さんに会えたから、すっかり元気になったわ」  嬉し気に答えると、綾乃が身を起こそうとした。 「寝ていなさい。無理をしてはいけないよ。僕の、かわいい奥さん」 「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて……このまま横になっているわ。こうしてあなたと会っていると、四十年前に戻ったよう。あなたがいて、文信(ふみのぶ)がいて、義武(よしたけ)がいて……。家族四人で過ごす幸せが、ずっと続くに違いないと信じていたあの頃に」 「……僕が事故死してから、君は苦労のしどおしだった」 「えぇ……。そうね。でも、あっという間の四十年間でした。あなたがいなくて、とても辛い時もあったけど……天国であなたが見守っていると信じて、耐えてきました。この年になって義信さんに会えるなんて、きっと、もうすぐ私が天に召されるからね」 「そんな気弱なことをいってはいけない。僕は、君を励ますためにここに来ているんだ。だから、ねぇ。綾乃。僕のためにも君は、元気にならなくちゃいけないよ」 「そうね」  こっくりと綾乃がうなずいた。夫とふたりのこどもを授かった、幸福な若妻の表情で。 「ねぇ、義信さん。手を握ってくれますか?」 「もちろん。それが、君の望みなら」  義信が綾乃の手を取った。壊れ物でも扱うように優しく綾乃の手を握る。 「あぁ………。温かい。大きな手。私、幸せだわ。またこうして、義信さんに手を握ってもらえるんですもの。夢を見ているみたい」  亡き夫に手を握られ、綾乃がそっと息を吐く。そして、満足そうに目を閉じた。 「夢じゃないよ、綾乃。僕は、ここにいる。いつでも君を思っているよ」 「私も、いつもあなたを想っています。思い出すわ。あなたとの婚約が決まった日のことを。義信さんは私たちの憧れの的で、私、ずっとあなたのことを見ていたのよ」 「知っていたよ。僕も君のことが気になっていた。清楚で控えめで、いつも素敵な笑顔を浮かべていた。お嫁さんにするなら、こんな娘がいいなと思っていたから、井上家へ婿に入ると決まった時は、僕も心底嬉しかったんだよ」 「そうでしたわね……。私たち、親の決めた結婚でしたけれど、相思相愛だったんですよね……。私は、あなたに一生分の恋をして、それが叶ったんですもの。ほんの五年の結婚生活でしたけど、本当に、本当に、私、幸せだった…………」  綾乃の声が弱まり、そして、寝息にとってかわった。  義信は綾乃の手を離し、名残惜しそうに閉じたまぶたに口づけた。 「おやすみなさい、よい夢を」  義信が寝台から立ちあがった。義信の姿が縮んで一匹の小さな蝙蝠に変化する。 蝙蝠は、ゆるやかに滑降し、窓を抜け、屋外に出た。  建物から五メートルほど過ぎたところで、ふいに空中に光の網が出現し、蝙蝠の羽が絡めとられる。 「ひゃあ!」  間抜けな声をあげながら、蝙蝠が地面に落ちてゆく。  芝生に落ちた蝙蝠が、光の網から逃れようと暴れた。 すると網が縄になり、蝙蝠をぐるぐる巻きに縛りあげる。 「まったく、淫魔というから来てみたら、なんなんだ、今の会話は。手を握ってまぶたにキスするだけとは。おまえは、本当に淫魔か? 淫魔だったら、他にもっとやることがあるだろうが!」  地面に転がった蝙蝠――淫魔――に、罵詈雑言が浴びせかけられる。 「お、俺が、何をしようと、俺の勝手だろうが!」  姿の見えない相手に向かって蝙蝠が言い返す。  なんなんだ、こいつは! どうして俺はこんな目に遭わなきゃいけないんだ?  混乱する淫魔の鼻先に、尖った靴の先が見えた。  ピカピカに磨かれた革靴だ。蹴られたら痛そうだと淫魔が思うと同時に、革靴が淫魔を踏みつけた。 「ぎゃっ」  もうダメだ。潰されて、俺は、消える!  消滅を覚悟した淫魔だが、靴の持ち主は淫魔を転がし、器用に蝙蝠の下につま先を滑り込ませると、そのまま宙に放りあげた。  ふわりと宙に浮いた淫魔を、大きな手が捕まえた。  淫魔の目に真っ先に映ったのは、水色の瞳であった。  悪魔よりも冷酷な水色の瞳。淫魔が男の眼光に身をすくめる。  なんだ、この男……。怖い。すごく怖い。こんなに怖い人間が、この世に存在していいのか?  それに、この男、実体じゃない。霊体だ。霊体の状態で、こんな技を使うんだ。 『伯爵、これまた随分と、かわいらしい悪魔ですなぁ。それがし、悪魔とはもっと残酷で恐ろしいものだとばかり思っておりました』  怯えた淫魔の耳元で呑気な声が聞こえた。 三本足の烏が伯爵の腕に止まり、淫魔を覗き込んでいた。 「私も驚きました。こんな淫魔がこの世に存在するとは。非常に興味深い悪魔だ。このまま消してしまうのは簡単だが、それではあまりにももったいない」  伯爵の目が告げていた。  こんなに面白い玩具をすぐに壊してしまっては、つまらない。壊すのはもう少し後でいい。存分に、遊び倒した後でも十分に間に合う、と。 「ひぃっ!」  自分の未来を想像して、淫魔の心が絶望に染まる。  俺……、俺、どうなっちゃうんだろう!?  暴れても破れない強靭な網。 淫魔を前にして淫魔らしくしろと説教する図太すぎる態度。 強い力をもつ悪魔祓いということは、淫魔にも簡単に察せられた。  いたぶられ、嬲られ、責められ、さんざん玩具にされたあげく、消されるに決まってる。  あぁ、俺、もうダメだ…………。産まれたばっかりなのに、もう、消されちゃうんだ。思えば短い命だったなぁ……。  そんなことを考えながら、淫魔は、恐怖のあまり意識を失っていた。

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