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第4話
淫魔は、気づいた時にはひとりだった。
仲間もいない。主もいない。ただ、自分が淫魔だということはわかっていた。
淫魔なんだから、人間にとり憑いて、生気(イド)を吸わなきゃいけない。
とはいえ、人に見えない存在として漂う淫魔の目には、生気を吸いたくなる女はひとりもいなかった。
……なんか、違うんだよなぁ。
若い娘には本能で惹かれたが、どうにも欲しいと思えなかった。まずそうというか、重いというか、喉につかえそうだと感じる。
しかたがないので、人のかわりに植物から生気を吸ってしのいでいたが、たくさん吸ってもさほど腹は満たされない。
それどころか、触るだけで花がしおれ、木々の梢から葉が落ちる結果に、悲しくなってしまった。
ごめんなさい……。
心の中で謝りながら、たくさんの花を散らした。それでも腹は満たされず、慢性的な空腹に襲われながら、消えずにいるのが精いっぱいだった。
お腹いっぱい、生気を吸ってみたい。
そんなことを思いながら、淫魔は己が散らした枯葉の中に身を潜め、いくつもの昼と夜を過ごす。
そんなある日のことだった。涼やかな匂いが淫魔の鼻腔を掠めた。
美味しそうな、生気の匂い……。この生気だったら、吸っても、いいかも。
夜を待って、淫魔は匂いのもとへ飛んで行った。そこは、広い庭のある大きなお屋敷で、目指す相手は眠っていた。
ターゲットは少々年老いてはいたが、涼やかな匂いに淫魔の食指が動く。
庭の薔薇の花みたいに、綺麗な生気だなぁ。若くないけど、粒が細かくて、軽やかで……うん、すごく美味しそうだ。
綾乃から生気をもらうことに、ためらいはなかった。むしろ、綾乃以外の人間から生気をもらうことなど、考えられなくなっていた。
この人間が喜ぶ姿……。亡くなった、夫か。
女を見れば、その女の望む男の姿がすぐわかる。淫魔の特性だ。
淫魔はすぐに義信の姿をとり、綾乃に呼びかけた。
目を開けた綾乃は、淫魔を見た途端、はらはらと涙を流しはじめた。
「あなたにまた会えるなんて。あぁ、これは夢ね」
「夢じゃないよ。綾乃」
そう答えて、淫魔はすぐに綾乃にのしかかる。
「綾乃、……いいね?」
蜜をたたえた甘い声で淫魔が囁いた。
「いいえ、信彦さん。私はもう、お婆ちゃんですもの。そういうのはもういいの。それより、肩を抱いて、髪をなでてくれますか?」
綾乃がはにかみながら要望を口にした。可憐な仕草に、淫魔の胸が高鳴った。
その瞬間から、淫魔は綾乃のことをただの餌と思えなくなった。
ありていにいえば、奥ゆかしい綾乃に好意を抱いてしまったのだ。
この人、綾乃さん……。病気ですごく弱ってる。俺が生気をたくさん吸ったら、この人は死んじゃう。
でも、吸わないと俺は消えてしまう。
……そうだ! 病気の気を吸えばいいんだ。
少しだけなら、綾乃さんにも影響はないし。病気の元を吸うんだから、気を吸ううちに元気になるだろうし。まさに一石二鳥の名案だ。
黒く凝った気を少しだけ、淫魔はもらうことにした。
苦い。イガイガして、呑み込めない。
初めて吸った人の生気は、淫魔の口に合わなかった。それでも植物から気を吸うよりはマシで、ゆるやかにエネルギーが体に満ちてゆき、命がつながる実感があった。
「嬉しいわ、義信さん」
薄くなった髪をなでるだけでも、綾乃は満足そうであった。
ありがとう、とか。愛している、とか。優しい感情がキラキラ光る粒子となって綾乃から淫魔に注がれた。
たとえそれが自分に向けられたものでなくとも、それは淫魔の胸を温かくする。
俺は、こういう、キラキラが欲しかったんだ。
ひとりぼっちであった淫魔にとって、それは慈雨のように乾いた心を潤した。
そうして、淫魔は、昼間は井上家に近い公園の木のウロの中で過ごし、夜になると綾乃のもとへ通うようになっていた。
お腹はいつもすいていて、最小限の移動と変身以外に何もできなかったけれど。
それでも、淫魔は幸せだった。
その幸せは、伯爵と呼ばれる男によって、あっけなく壊されようとしていた。
天敵ともいえる聖なる光でできた縄は、触れる場所から淫魔の身を焼き、わずかに残った力を奪っていった。
痛いし……。縛られているだけで、どんどん命が削られてゆく。
反抗する体力などなく、存在を維持するのが精いっぱいだった。
捕縛され、気絶し、目覚めた時には、淫魔は伯爵の別邸に移動していたが、周囲を見回す余裕もないほど、淫魔は恐れ、怯えていた。
淫魔がいるのは、伯爵の寝室らしくベッドがあった。
とてつもなく広い部屋で、ベッドの他に長椅子とローテーブル、どっしりとした衣装ダンスに洋酒の並んだキャビネット、ベーゼンドルファーのグランドピアノまであった。
分厚いシルクのペルシャ絨毯の上に立ち、伯爵は蝙蝠の襟首を摘まんでいた。
八咫烏の三津丸は伯爵の肩に止まっている。
「なんだ、この淫魔は。縛ったくらいで今にも消えそうじゃないか」
『察しますにこの淫魔、これまで人の生気をほとんど吸っていなかったのではないかと』
「人間にとり憑いていたのに? ……まったく、しょうがない」
呆れ果てたという声がしたかと思うと、淫魔の口が乱暴に開けられた。
小さな口に、白く長い指が突っ込まれる。
口の中が肉でいっぱいになり、それは淫魔の喉奥まで犯した。
もうダメだ。口が裂けて、消えてしまう。
半分途切れた意識で思った次の瞬間、淫魔の喉に、生気が注がれた。
ねっとりとして、濃密で。力に溢れた生気は瞬く間に淫魔の小さな体に浸透し、潤わせ、そして侵していった。
体がちっとも、怠くない。お腹が温かくなって、体の奥から力がわいてくる。
薄目を開けた淫魔の口から、伯爵が指を抜いた。
無意識に淫魔の口が、伯爵の指を追う。
もっと、欲しい。もっとたくさん。溢れるくらいに、注いでほしい。
鼻先を突き出して指に吸いつこうとする淫魔を、伯爵が長椅子に放り投げた。小さな体がクッションに乗ると、光の縄が消え、淫魔は自由になっていた。
けれど、淫魔は逃げようとしなかった。
逃げることも考えられないくらい、伯爵のソレが欲しくてたまらなくなっている。
「さて、淫魔。俺は、おまえが気に入った。このまま殺すのは惜しいと思っている。しかし、おまえを野放しにするわけにはいかない。どうだ、俺の使い魔にならないか?」
「使い魔?」
「断ればおまえを消す。消されるか、俺の下僕になるか、どちらか選べ」
淫魔は伯爵を見あげた。
淡い金髪にふちどられた整った顔には、笑顔が浮かんでいる。
笑いながら、こういう最悪な二択を迫るのは、悪魔の専売特許じゃないかなぁ……。
美しくそれゆえに冷酷さが際立つ笑みを見ながら、淫魔はそんなことを考えた。
「……どうした、何を迷う? 俺の使い魔になれば、生気は与えてやる。どうやらおまえは、人間の生気を奪うこともできない、ポンコツ淫魔のようだからな」
淫魔の沈黙を逡巡と思ったか、伯爵が誘いの言葉を重ねる。
ポンコツとか口が悪いのは嫌だけど……お腹がすくのはもっと嫌だし、消されるのはもっともっと嫌だ。
元々、選択肢はひとつしかないのだ。淫魔が覚悟を決めた。
「……わかった。おまえの使い魔に、なる」
チイチイと小さい声で答えると、伯爵が満足そうにうなずいた。
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