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第20話

 蓮華(レンゲ)蓮水(ハスミ)の握ったおにぎりを食べてくれたのは、翌朝のことだった。  これまで、飯岡の料理しか口にしなかった蓮華は、無言でもぐもぐと口を動かして、俵型のそれを三口(みくち)で平らげた。  おにぎりの形が俵なのは、蓮水が三角に握れないからだ。  母親の作るおにぎりは俵型で……蓮水は手にたくさんの米粒を付けながら、一緒に握ったことが何度かあった。母親から教えてもらった料理といえば、この俵のおにぎりぐらいだ。  子どもの頃の記憶は、ふとしたときにこんなふうに顔を出してくる。  けれど蓮華は別段なんの感慨もない様子で、二つ目に手を伸ばすと、それも三口で食べた。  彼はなにも覚えていないのだな、と改めてそう思う。    いま、蓮華の記憶が戻ったら、昨日の蓮水の行いを……あの卑劣な行為を、きっと罵られるだろうから、彼の記憶がないことを蓮水は感謝すべきなのかもしれなかった。 「ごちそうさまでした!」  パン! とてのひらを合わせて、蓮華がそう言った。  蓮水が物思いに耽っている間に、皿にあったおにぎりは五つも姿を消していた。 「……朝からよく食べるな」  蓮水は腺病質めいて貧相な外見に相応の食欲しか持ち合わせていないから、朝は大体コーヒーだけを胃に入れる。  蓮華の旺盛な食べっぷりに半ば感嘆の思いで感想を呟くと、蓮華が「だって」と唇を尖らせる。 「だって、なんかおなか空いたし~」    夜中にをしたからだ、と蓮水は蓮華の言葉に思い当たり、咄嗟に顔を伏せた。    蓮華は結局、あの後もまた(きざ)してしまい、合計で三度射精した。  蓮水の口で、一度。蓮水の中で、二度。  溜まった精液を出し切った彼はその後、泥のような眠りに落ちた。  蓮水はしばらく、蓮華の寝顔を見つめて過ごした。     蓮水に対しては不機嫌な表情ばかりを見せる蓮華の、男らしく形の良い眉はほどけて、ゆるんだ口元と相まって年齢よりも幼く見えた。  それでも、腕も、足も、胸板も、……性器も、逞しくて。  体は立派な大人に成長している。  蓮華のこころは、子どものままなのだろうか。  もう、これ以上の成長はしないのだろうか。    ……兄のことは、二度と思い出さないのだろうか。  この先、蓮水と蓮華はどうなってゆくのか。  未来の想像は、ひとつも形にならなくて。  蓮水はひたりと這い上がってくる不安を無理やりに封じ込め、ベッドを抜け出して夜中にひとり、シャワーを浴びたのだった。 「……さん、ハスミさん」  話しかけられていることに気づき、蓮水はハッと顔を上げた。  蓮華がこちらを覗き込み、黒々とした目をくるりと動かした。 「あ、ああ、ごめん。ぼうっとしてた。なに?」 「ぼく、外に行きたい」  指先についた米粒をぺろりと舐め取った蓮華が、何気ない口調でそう言った。  蓮水は背を強張らせ、硬い表情で彼を見た。  淫花廓に帰りたいと言うつもりだろうか。  眼差しを険しくした蓮水には構わず、蓮華はぶぅっと頬を膨らませ、「だって」と言葉を繋げる。 「だって、ここ、退屈~。ぼく、ずうっとお仕事してたから、なんにもしないの退屈だよ~」    お仕事、というのは倉庫でのあの荷運びのことを言っているのだろう。  なるほど、指摘されてみればこのひと月、蓮華はただこの家に閉じ込められていただけだ。ゲームやテレビにはさほど興味がないようだったから、時間を持て余していたことは容易に想像がついた。 「…………逃げないか?」  短く、蓮水は問いかけた。  蓮華がパチパチと瞬きをして、真顔になった。  その顔を見て、蓮水は不用意な発言をしたことを後悔した。  逃げる、という選択肢を、蓮華の前にうかつに差し出してしまったのだ。  蓮華の眼差しが揺れた。  まだあの場所へ帰りたがっていることが、その態度から透けて見えた。  けれど、蓮華は唇をきゅっと引き結んで、こくりと明確に頷いてみせた。 「お外、連れて行ってくれるなら、逃げない」  本当だろうか。  疑惑が蓮水の眉を歪めた。  蓮華の言葉が信用できない。  しかしそれを口に出してしまうと、蓮華がへそを曲げてしまいそうで……せっかく距離の縮まりつつあるいまの空気を壊したくなくて、蓮水は「わかった」と応じた。 「わかった。飯岡に、聞いてみるよ」 「いーおかに? なんで?」  蓮華が小首を傾げ、問いかけてくる。  精悍に整った外見の蓮華が、子どもじみた仕草を見せるのがアンバランスで可愛くて……蓮水は無意識に彼の頭にポンと手を乗せていた。   「飯岡が、オレのスケジュールの管理をしてるから」 「へぇ~。ぼくもよく言われたよ! すけじゅーる通りに動きなさいって。壁にね、貼ってるの。起きる時間と~、ご飯の時間と~、お仕事の時間と~」    蓮華が指を折りながら、その内容を教えてくれる。  蓮華の口から淫花廓での暮らしを聞くのは複雑な気分で、蓮水は頷きながらもどんな顔をすればいいかわからず、作り笑いだけを唇に張り付けた。  そのとき、インターホンが鳴った。  蓮水は席を立たなかった。  どうせ飯岡だ。合鍵を持っている男は、勝手に入ってくる。  案の定、玄関でカチリと開錠する音が聞こえ、今日も爽やかに整った美貌の飯岡がリビングに顔を出し……そこで少しだけ目を見開いた。 「おやおや。ずいぶんと仲良しになりましたね」  チラ、とテーブルの上のおにぎりの減った皿に視線を落として、飯岡はそんな第一声を聞かせた。  蓮水は頬杖をついたまま、男から目を背けた。  昨夜の蓮水の所業を、見透かされそうで怖かった。 「お兄さんの作ったご飯、食べたんですね」   蓮華に話しかけながら、飯岡が手に持った袋をキッチンの方へと運んでゆく。今日の食材を買ってきたのだろう。  蓮水のことを兄と言われて、蓮華が「ん~」となんとも言えぬ表情をした。 「お兄さんじゃないもん」  ぼそぼそと小声で答えた蓮華に、飯岡がひょいと肩を竦める。 「でも和解はした、と」 「わかい?ってなに?」 「仲直り、って意味ですよ」  飯岡に教えられ、蓮華が大きく頷いた。 「うん! あのね、昨日ね……」 「蓮華っ!」  蓮水は咄嗟に蓮華の言葉を遮った。突然大声を出した蓮水を、蓮華と飯岡が驚いたように見てくる。  蓮水は無意味な空咳を挟んで、ふぅ、と吐息すると、 「蓮華。飯岡に聞くことがあっただろ」  と、普段の声を意識して話しかけた。  話を誤魔化した蓮水に気づいたのだろう。飯岡が、怪訝な色を双眸に浮かべた。  蓮水は頑なに飯岡から目を逸らし続けた。  蓮華だけがその場の張り詰めた緊張とは無縁な様子で、「いーおか~」とキッチンのカウンター前まで行き、飯岡に話しかけている。 「いーおか、あのね、ぼく、退屈なの」 「はい」 「それでね、外に遊びに行きたいんだけど」 「はい」 「ハスミさんが、いーおかにすけじゅーる聞いてからって」  なるほど、と飯岡が頷いた。  それから、食材を片付けていた手を止めて、いつもの調子で蓮水を呼んだ。 「蓮水さん」    蓮水は……伏せた顔がなかなか上げられずに、それでも無理やりに目を動かして、飯岡の方を向いた。  秘書の端整な顔には、軽蔑も侮蔑も嫌悪も……そういった感情らしきものはなにも浮かんでおらず、背すじを伸ばしたいつもの佇まいのまま、口を開いた。 「残念ながら、いまは時期ではないと思います」  淡々とした飯岡のセリフに、蓮水は眉を顰めて尋ねた。 「どういう意味?」 「蓮華さんの存在が明るみになることは、いまのあなたにとってプラスにはなりません」    飯岡が、休めていた手を再び動かし、野菜や肉などを冷蔵庫に収納してゆく。  こちらに背を向けた男を見つめたまま、蓮水は言葉の意味を考えた。  いまの蓮水に、敵は多い。  特に、会社の重役連中。  彼らは蓮水を自分の都合の良い駒に仕立て上げようとしている。  それはべつにいい。  蓮華を囲っておけるだけの金銭が手に入るならば、誰の傀儡として使われようが、蓮水には関係のないことだった。    しかし、重役たちも一枚岩ではない。当然のように社内の派閥が存在する。  それぞれの派閥は、互いの足を引っ張り合うことに夢中だ。  いかに相手を失脚させるか。    蓮水は現在、どの派閥にも(くみ)していない。飯岡の差配だ。  偏った派閥の人間にだけ蓮水が接触しないよう、彼が細かに蓮水を動かしているのだった。  重役たちのポジションは現在、横並び状態だ。  蓮水を共通の玩具として使うことで、互いの様子を伺い、また、牽制をしあっている。  誰が、頭一つ抜きんでるのか。  誰が、蓮水の存在を上手く利用できるのか。  そういった駆け引きが、水面下で行われている。  その中で蓮華の存在は、彼らにとって恰好の餌になる、と飯岡は言っているのだ。  だから迂闊に外を連れ歩くな、と。  理屈はわかる。  蓮水は、わかるが……。    飯岡が外出にダメ出しをしたということがわかったのか、蓮華があからさまにむくれた。  そんな蓮華を横目で見て、 「決めるのはあなたですが」  と飯岡が意地の悪いことを言った。  この男が蓮華にダメですときっぱり告げてくれれば、悪者は飯岡だと蓮華は思ってくれるだろうに、その決断をしてはくれない秘書を、蓮水は恨んだ。      

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