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第23話

 会社の前で「すみません」と声を掛けられた。  降車したばかりの蓮水(ハスミ)は腰を伸ばし、振り向いた。  二人組のスーツ姿の男が立っている。  そのうちのひとりが、胸の隠しに手を入れて襟元から黒いものを覗かせた。 「こういう者ですが」  言いながら、男が二つ折のそれを開いた。  上面に、写真入りの身分証。  下面に、金属製の記章があるそれは……警察手帳であった。  驚きに目を丸くした蓮水の肩を、横から飯岡が引き寄せてくる。 「失礼。これから会議がありますので」  微塵も動揺した様子のない飯岡の背後で、車が動いた。運転手が専用駐車場に車を置きに行ったのだ。  蓮水は飯岡に背を押され、たたらを踏むように足を運んだ。  地下駐車場から直結している通用口の自動扉までの数メートルを、刑事たちがついてくる。 「まぁそう言わずに……飯岡さん」  髭の男が、飯岡の名を呼んだ。財部(たてべ)正範(まさのり)に近しい者はすべてチェックされているのだ、と蓮水は思った。 「少しだけお話をお伺いできませんかね?」 「あなたがたと私とは、持っている時計が違うようです」 「はぁ?」 「警察の少しは、少しじゃない。……失礼」  飯岡がIDカードをセンサーに翳した。  電子音とともに、自動ドアが左右にスライドする。すべて開ききるのを待たずに、飯岡が蓮水の体を隙間に押し込むようにして中へと入れた。そのすぐ後に、飯岡のスレンダーな体も滑り込んでくる。  背後に顔を捻ろうとした蓮水を飯岡が制して、すたすたと足早にエレベーターホールまでを歩かされた。 「いまの……刑事……」 「昨日言ったでしょう? 財部(おう)の死に関して、警察が動いていると。任意の段階でご丁寧に相手をすることもありません。無視なさい」    飯岡は簡単にそう言うが、蓮水の胸はにわかにざわついていた。    飯岡から身辺が騒がしくなるとは聞いていたが……実際に刑事を目にすると、(やま)しいことなどないはずなのに、ヒリヒリとした緊張が生まれてしまう。  男たちのあの……蓮水の腹の奥の奥までもを探ろうとする鋭い双眸が、そうさせるのだろうか。  端的に言ってしまえば、怖かった。  蓮水は強張った背からうまくちからを抜けずに、エレベーターの中でなんども深呼吸をした。 「……また来ると思うか?」  整った飯岡の横顔を見て問いかけると、飯岡が唇の端で笑う。 「彼らはゴキブリよりもしつこいですからね。いいですか。口車に乗って警察署になんか行かないでくださいよ。なんだかんだ理由をつけてずるずると拘束されてしまいますから」  わかった、と蓮水は頷こうとしたが、ふと首を傾げ、秘書へと言葉を投げた。 「でもオレ、なにもしてない……」  蓮水は真実、財部の死に関与などしていないし、潔白であった。 「変に突っぱねたら、余計疑われるんじゃないか? なら、さっさと話をして……」 「刑事なんて生き物に、言葉が通じると思うのならご自由にどうぞ」    蓮水の主張を飯岡が鼻で笑う。  蓮水は黙した。先ほどの刑事の恐ろし気な目が脳裏によみがえり、あれに凄まれてまともな受け答えが自分にできるだろうか、という不安が頭をもたげてくる。    蓮水は俗世のことに疎い。  十歳の頃より約十五年の月日を、淫花廓という閉ざされた空間で過ごし、その後も財部の囲い者として暮らしていた。  だから、知識としては知っていても実際には体験したことのない社会の経験、というものがごまんとあった。  そんな蓮水が刑事を相手に上手く立ち回れるわけがない。  口にはしなかったが、飯岡がそう思っているのがわかった。  役員専用フロアで停止したエレベーターから出て、蓮水は会長室へと入った。  本来、財部正範のものであったこの部屋は、重厚感のある内装で、右側の壁には歴代会長の顔写真が飾られている。    蓮水は立ったまま、デスクの一番上の引き出しのカギを開け、そこから会長印の入ったケースを取り出した。  お飾りの会長である蓮水の役割と言えば、わけのわからぬ会議に出席すること、そして飯岡の立ち合いの下、押せと言われた書類に押印をすること。    役員たちは蓮水の体を玩具にするけれど、本当の目当てはこの印鑑なのだから、会社に来なくて済むのなら蓮水は適当な人間にこれを預けたかった。  しかし、以前に一度そう口にした蓮水を、飯岡が(たしな)めた。 「会長印はあなたの切り札ですよ。それがなければあなたはあっという間に転落する。誰かに預けたいというなら止めませんが、その相手はあなたご自身でしっかりと吟味なさってください」  蓮水は、会長というポジションに未練はない。  一生困らないだけの金があれば、それでいい。  蓮華(レンゲ)、という男を手元に置いておけるだけの金があれば、それでよかった。  だが、誰にこの印鑑を渡せば、蓮水のその願いが約束されるのかがわからない。  分不相応な資産を継いだ蓮水の周囲は、それを虎視眈々と狙う敵で囲まれてる。  その中に味方が居るのか……その見極めが、世間知らずの蓮水にはできないのだった。  唯一……敵ではないのは飯岡ぐらいか。    蓮水がちらと男を窺うと、ぱらりと手帳を開いた飯岡が本日の会議の議題を説明してくれる。どうせ聞いてもわからないのは飯岡も承知の上だ。  本題はこの後……議題の話はそれを切り出しやすくするための、前口上のようなものだった。 「会議は、十六時に終了予定です。……終了後は、本日は諸住(もろずみ)常務のアポが入っていますので、そちらの方に」  それを伝え終わった飯岡が、音を立てて手帳を閉じた。  蓮水は頷きだけを返して、嘆息を漏らした。  今日は諸住ひとりだけか、という安堵も混ざった、複雑な吐息だった。  蓮水は印鑑を収めたケースを指の腹で撫でながら、マンションに残してきた蓮華のことを考えた。  蓮華はいま、なにをしているだろうか。  昨日は飯岡が運び込んでくれたマシン類を使ってたくさん体を動かして……夜は夜で蓮水を相手に性欲を発散させたから、彼は今日、昼前までぐっすりと眠っていた。    蓮水の作ったサンドイッチを一緒に食べて……蓮水に、「行ってらっしゃい」と手を振ってくれた蓮華。  またトレーニングをしているのだろうか。それともテレビでも見ているだろうか。  帰りには美味しいものを買って帰ろう。  今度はきっと、蓮華も食べてくれるだろう。  ああそうだ、飯岡に、包丁をそろそろ返してもらわないといけない……。  包丁があれば、もっと手の込んだ料理を蓮華に振る舞ってやれるから。  もう、刃物を蓮華に向けるなんて真似はしないから、あとで包丁を返せというのを忘れないようにしなければ。    埒のない思考で気を散らしながら、蓮水は会議室へと向かった。  飯岡の開いた扉の向こう。  そこから、敵意と好色に満ちた視線が一斉にこちらへと向けられ、蓮水の肌を、貫いた。          

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