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第25話

 諸住(もろずみ)に抱かれた後の気怠い体を動かして、蓮水は会長室へと戻った。  そこでは涼やかな美貌の秘書が、電話をしているところだった。  蓮水が帰ってきたことに気づいた飯岡が、軽く片眉を上げて、 「それでは、私はこれで」  と言って通話を終えた。  携帯電話を仕舞う飯岡の手を追いながら、蓮水は小さな声で尋ねた。 「電話、誰から?」  蓮水の問いに、飯岡が意外そうに目を丸くする。 「あなたからそんなことを訊かれたのは、初めてですね。いままでは、私のことも会社のことも興味のない顔をしてらしたのに」 「……誰?」  秘書の軽口には付き合わず、もう一度問いかけると、飯岡が肩を竦めてあっさりと答えた。 「山脇(やまわき)専務ですよ。あなたが今日、諸住常務とをされているのを嗅ぎ付けて、探りを入れてきたんでしょうね。山脇専務は久下山(くげやま)代表とは仲が悪くておられるので」  蓮水はなめらかに動く飯岡の唇を見ていた。    端整な顔だ、とそう思う。  飯岡の、嫌みのない爽やかな美貌。スレンダーな肢体。蓮水などよりずっと、きれいな男だと、蓮水は改めて思った。  財部(たてべ)正範(まさのり)の愛人だったというのは本当か、と尋ねようとして、蓮水は口を(つぐ)む。  訊いてどうする、という思いがあった。  それを訊いて、どうするのだ。   (きみは飯岡のことをなにも知らない)  別れ際に諸住に囁かれた言葉が脳裏によみがえる。 (あの男がどこから来て、会長とどんな契約を交わしたのか、詳しいことは誰も知らない。そんな男に、きみはいま、無条件に寄りかかっているのだ)  うるさい、と言い返そうとした蓮水だったが、喉奥に絡まった声が外に出てくれない。  代わりに蓮水は、諸住の胸を突き飛ばした。  男が笑って、一歩を下がった。  蓮水の中を散々弄った指を、ひらり、と宙で動かして。  諸住が慈悲深いような微笑を唇に刻んだ。 (飯岡の甘言に気を付けなさい。あの男は、会長がきみに遺したすべてを、奪おうとしている)  甘言、というならば諸住の方が余程だ。  蓮水が、これまで傍に居た飯岡よりも諸住を信じる理由がない。  馬鹿なことを言うな、と笑い飛ばすべきだ。  頭ではそうわかっている。  けれど、飯岡が財部の愛人であったという話を、否定できる根拠を蓮水は持っていなかった。   「やめなさい」    不意に、右の手首を掴まれて蓮水は驚いた。  目線を斜め上に向けると、飯岡が形の良い眉を顰めてこちらを見ていた。  無意識に爪を噛んでいたのだ。  蓮水は口元から自身の手を遠ざけた。 「飯岡」  秘書の名を呼ぶと、いつものトーンで「はい」と返事があった。 「包丁を、返してくれ」  蓮水は、ガタガタになった爪のラインを見ながら、そう口にしていた。  本当に言いたいことは、包丁のことなどではなかった。  けれど、喉から出た言葉は、それだった。    飯岡が軽く肩を竦めて、他愛のない口調で答えた。 「諸住常務にでも苛められましたか?」 「飯岡」 「蓮水さん、彼は……」 「飯岡!」  蓮水が語調を荒げると、飯岡が嘆息を漏らし、頷いた。 「まさか刃物を持ち歩くわけにはいきませんので、いますぐは無理です。蓮水さんをマンションにお届けした後、改めてお持ちしますよ」  男の声を聞きながら、蓮水は忙しない瞬きを繰り返した。  包丁を返してもらったら、飯岡が毎日あの家を訪れる理由がなくなる。  この男を、遠ざけることができる。  その間に気持ちの整理をして……と、考える途中で、蓮水はふと気づいた。  なぜ蓮水はご丁寧に飯岡の言うなりになっていたのか、と。  包丁などべつに、どこかで買えばよかったではないか。  不便を感じていたのなら、どこででも入手できるのだから、買えばよかったではないか。  飯岡に没収されたからといって、なにも返却されるのを諾諾と待たずともよかったはずなのに。  なぜ蓮水は……盲目的に、この男の言うことをきいていたのか。  財部の死後……いや、蓮水が財部に身請けされてからずっと……違う、それよりも前、財部が淫花廓の『レンゲ』の下に通っていた頃より、飯岡は蓮水の傍に居てくれて。  会社で蓮水が玩具として扱われることに疲弊しているときも、子どもの頃のままでこころの成長を止めてしまった弟を連れ帰ったときも、当たり前の顔で、蓮水の背を、支えていてくれたから……。    蓮水は、ろくに自分の頭で考えることもせずに。  飯岡に、依存していたのだ、と……。  そのことを自覚して、蓮水は恐ろしさに身震いした。 「蓮水さん? どうされました?」    男が、訝しげな表情で蓮水を覗き込んでくる。  寒いですかと問われて、蓮水は首を横に振った。   寒くはなかった。    寂しかった。    蓮水の不安ごと、誰かに抱きしめてほしかった。  蓮華を自宅に連れ帰った日。  淫花廓に帰りたがる蓮華を、自分の元から手放したくなくて。  包丁で、蓮華の左足の腱を切ろうとした、あの日。  強引に寝かされたベッドの中でも、蓮水は同じような寂寥を覚えた。  あのときは、飯岡に、縋りつこうとしたのだ。  泣きつかなくて良かった、と蓮水は思った。  この男に、縋らなくて良かった。  蓮水の味方は居ない。  そんなことは、わかりきっていたことなのに。  いつの間にか飯岡に気をゆるしてしまっていた。    蓮水は詰めていた息をゆるゆると吐きだした。    秘書がこちらを見ている。  涼やかな双眸が、蓮水の内心を探るように細められた。 「……蓮華のところへ戻る」  男から顔を背けて、蓮水は早口にそう言った。  飯岡が運転手に連絡を入れ、車の手配を行った。    通話を終えた飯岡が、蓮水のカバンと上着を手に持ち、会長室の扉を開けた。  蓮水は無言で足を運び、廊下へと出た。  蓮水を追い越して先を歩く飯岡が、エレベーターのボタンを押す。  ドアはすぐにスライドした。  二人で、箱の中に乗り込む。    地下駐車場の階数ボタンを押した、飯岡の手が、おもむろに持ち上がって。  蓮水の右手にするりと絡んだ。 「後で爪を整えましょう。そのままではみっともない」  蓮水のガタガタの爪の形。  そこに視線を注ぎながら、飯岡がそう口にした。  体温の低い、男の手の感触。    それが心地よいのか悪いのかわからなくて。  蓮水はエレベーターが地下に着くまで、掴まれるままにしていた。      

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