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第26話
マンションの前に刑事の姿があった。
会社で声をかけてきた男たちとはまたべつの人間だ。
エントランスへ入るとき、飯岡がチラと背後を気にする仕草を見せたので、彼の視線を辿って蓮水 は刑事の存在の気づいた。
本当に蓮水が疑われているのだろうか。
胸にざわざわとした不安が広がる。
最上階の自室のドアをくぐると、蓮華 が顔を覗かせて「おかえりなさ~い」と暢気な声を聞かせた。
それを耳にして蓮水は、ようやく人心地がついた気分だった。
「ただいま」
靴を脱いで廊下に上がり、蓮水はリビングへと入った。
飯岡が勝手知ったる様子で戸棚から救急キットを取り出し、爪切りを手にソファに蓮水を手招いた。
蓮水は黙ってそこへ座ると、男に右手を預ける。
パチン、パチン。
小さな音とともに蓮水の爪が整えられてゆく。
「い~おか、ぼくも。ぼくもそれして~」
右足を引きずりながら近寄ってきた蓮華が、自分の手の爪と飯岡の手元を見比べながらそう言った。
「蓮華。おまえの爪はオレが切ってあげる」
蓮水はつい、口を挟んでいた。
蓮華には、飯岡に他愛なく懐かないでほしい。……自分のように。
蓮華がきょとんとした表情で、パチパチと黒い瞳を瞬かせた。
飯岡がなにか言いたげな目を向けてきたが、結局はなにも言わずに、蓮水の爪を切り終えると爪切りをそのまま蓮水のてのひらに置いて、立ち上がった。
「蓮水さん。包丁は、お返ししますか?」
飯岡が静かな声で尋ねてきた。
蓮水は視線を爪切りに向けたまま、無言で頷いた。
「それでは取りに行ってきます」
男の足音が遠ざかり、玄関のドアが開閉する音が聞こえた。
「けんか?」
不意に問われて、蓮水は驚いて蓮華を見た。
蓮華が男らしく整った眉をしかめて、首を傾げた。
「ハスミさんとい~おか、けんかしたの?」
「……してないよ」
「でも、ハスミさん、怒ってる」
「……怒ってない」
「怒ってるハスミさん、怖いから嫌い」
きっぱりと言われて、蓮水は押し黙った。
蓮水が沈黙すると、蓮華が不安そうに眼差しを揺らす。
蓮水は一度大きな深呼吸をして、無理やりに口角を歪めて笑ってみせた。
「本当に、怒ってないよ。蓮華、おいで。爪を切ってあげる」
蓮水が爪切りを持った手をひらひらと動かすと、束の間迷う素振りを見せた蓮華が、蓮水の隣にぽんと座った。
蓮水は、自分よりも大きな男の手を掴み、膝の上に引き寄せた。
筋張って、ごつごつとした蓮華の指。
昔、なんども繋いだ弟の手は、小さくて。
ふわふわとやわらかかったのに。
幼い頃の弟の名残を探すように、蓮水は。
蓮華の指の形を確かめながら、爪切りを、動かした。
その日の夕食は結局、包丁を手に戻ってきた飯岡が作った。
蓮水は、「おまえも食べていけば」と言って飯岡を食卓に誘った。
蓮水と飯岡が喧嘩をしたと案じている蓮華のためにした提案であった。
飯岡が意外そうに眉を上げ、しかしすぐに蓮水の思惑を悟ったような顔で笑い、あっさりと誘いに応じてくれた。
三人の食卓は奇妙な穏やかさであった。
蓮華は、飯岡が居ると蓮水と二人の時よりも饒舌だ。
とりとめのない蓮華の話を、飯岡が素っ気ないような口調で相槌を打ちながら聞いている。
笑顔の蓮華と、涼やかな顔をした飯岡。
二人を眺めていると、泣きたいような気持ちが込み上げてきた。
情緒が不安定になっている。蓮水はそのことを自覚して、冷えた水をこくりと飲んだ。
飯岡は味方だ。
なんの根拠もなかったが、蓮水はそう思いたかった。
だって、契約書に従順な男が、こうして一緒に食事をしてくれている。
そのことが、男の好意の顕れのように、蓮水には感じられて。
この男が敵であるはずがない、と闇雲に信じたくなるのだった。
「……さん。蓮水さん」
飯岡に肩を小突かれて、蓮水はハッと彼の方を見た。
ずっと話しかけられていたようで、「聞いてなかったんですか?」と呆れたように問われる。
「ごめん……なに?」
改めて尋ねると、飯岡が蓮華へと目配せをした。
「蓮華さんが、あなたにお願いがあるそうですよ」
促され、蓮華が手に持ったフォークをお皿にカチカチとぶつけながら蓮水を見てきた。
即座に飯岡に行儀が悪いと窘 められ、蓮華が慌ててフォークを置く。
それから彼は、もごもごと唇を動かして、言いにくそうに口にした。
「あのね、ハスミさん」
「うん」
「ぼく、やっぱりお外に行きたい」
蓮水はひたいを抑えてため息をついた。
マンションの前に居た刑事の姿を思い出す。
いまは迂闊に外へ出すことはできない。
会社のごたごたに加えて、財部 正範 の死について蓮水に嫌疑のかかっているこの状況では、蓮華の存在がどのような影響を及ぼすのか、まったく予測が立たないのだ。
蓮水は首を横に振り、蓮華と視線を合わせた。
「蓮華。悪いけど、いまは……」
「いまじゃなくていい」
語調を強くして、蓮華が言葉を発した。
「いまじゃなくていいから、いつか、外へ連れて行って」
真剣な目つきでそう乞われ、蓮水は、大人の男と会話している気になった。
蓮華はどこまで自分の境遇について理解しているのだろうか。
蓮水を兄だとは、ほんの僅かも思っていないのだろうか。
「外へ……なにしに行くんだ?」
蓮水は恐る恐る、それを問いかけた。
淫花廓に帰りたいと言われるのだと、思った。
やはり蓮水の元には居たくないのだろうか。
蓮水は頬の内側を噛んで、蓮華の返事を待った。
しかし彼は、蓮水の予想とはまったく違う言葉を口にした。
「宝物を、探しに行くの」
蓮華のそのセリフに、蓮水は息を呑んだ。
宝物……。
蓮華の、宝物。
それは蓮水が車の窓から投げ捨てた、あの緑色のビー玉のことだ。
蓮水は居たたまれずに顔を伏せた。
あのときに感じた暴力的な衝動は、いまはもう鳴りを潜めている。
なぜ、彼の宝物を捨ててしまったのか。
自分の感情ですらもよくわからない。
蓮水は席を立ち、自室へと向かった。
「ハスミさん、怒っちゃった?」
蓮華が飯岡にひそひそと問いかける声が背に聞こえてきた。
蓮水は部屋に入り、壁際に置かれたミニデスクの引き出しを開けた。
中に手を潜り込ませ、奥の奥を探る。
指先に触れた布の感触を蓮水は手繰り寄せた。
てのひらの半分にも満たない、小さな巾着。
それをぎゅっと握ると、硬く丸い形が皮膚に当たった。
蓮水はちりめんの巾着を手に持ったまま、リビングへと戻った。
蓮華が体を捻ってこちらを窺っている。
その彼の顔の前に、蓮水はこぶしを突き出した。
「蓮華。手を出して」
蓮水に言われるがままに、蓮華が上に向けたてのひらを差し出してくる。
蓮水は指を開いた。
巾着が、ころりと蓮華の手に載った。
「あげる」
そう告げた声は、わずかに上擦っていた。
蓮華が不器用そうな手つきで、巾着の紐を緩める。
彼が袋をひっくり返すと、中から緑色のビー玉が転げ落ちた。
「あっ!」
蓮華が叫んだ。
目をまん丸にして。
口をあんぐりと開けたまま、てのひらの上のガラス玉を見つめた。
思い出してほしい、と蓮水は強く願った。
幼いあの日。
れんげ畑で見つけたビー玉をひとつずつ分け合った。
兄ちゃんとぼくとで一個ずつ~と言って、笑っていた弟。
蓮水と手を繋いで歩いた、日々を。
どうか、思い出してほしい。
蓮水は透き通るグリーンのそれに、祈りを込めた。
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