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第27話

「ぼくの! ぼくの宝物っ!」  蓮華(レンゲ)が叫んだ。  幼い口調のままだった。  奇跡は起こらないのだと、蓮水(ハスミ)はぼんやりと思った。  黒い瞳を、丸く見開いて。  興奮もあらわに、蓮華が蓮水を見てきた。 「なんで? なんで持ってるの? ぼくのビー玉、なんで持ってるの?」  まくしたてるように問われて、蓮水は強張った唇を無理やりに笑みの形に歪めた。  それはオレのだよ、と告げる代わりに。   「……ひ、拾ってきた……」    と、蓮水は嘘をついた。   「……ぼくの宝物、探して、見つけてきてくれたの?」  無邪気に問われて、蓮水は頷く。首筋が固まっていて、うまく動いてはくれない。  ガタン、と音を立てて蓮華が立ち上がった。  あまりの勢いに椅子が後方へとごとりと倒れた。    男の腕が伸びてきた、と思った次の瞬間、蓮水はスウェットの胸に抱きしめられていた。 「ありがとう! ハスミさん、ありがとう!!」  蓮華がビー玉を握り締めたまま、弾んだ声でお礼を繰り返す。  蓮水はなんと返事をして良いかわからなくなり、じっと身を硬くしていた。  ふと、飯岡の疑わしそうな視線を頬の辺りに感じた。  蓮水がビー玉を探しに行っていないことなど、飯岡が一番よく知っている。  そもそもあんな渓谷沿いの道で、車から投げ捨てたビー玉が簡単に見つかるはずがなかった。  そこに思い至らない蓮華は、蓮水のビー玉を自分の宝物だと信じて疑わないようだった。 「これね、ぼくがずっと持ってたものなんだって。ずっと握ってたからきっと大事なものだろうって、言われて……すごくきれいだから、宝物にしてたの! だから、見つけてくれてありがとう!」    捨てたのは蓮水なのに、その蓮水を抱きしめて、蓮華が素直にありがとうと告げてくる。    そういえば幼い頃、喧嘩をしてむくれても、蓮水がおやつを分けてあげたりすると簡単に機嫌を直していたな、と蓮水はかつての弟を思い出してくすりと笑った。    蓮華の腕の中は暖かい。その体温が心地よくて、蓮水は男の胸にそっと擦り寄った。 「良かったですね」  飯岡の静かな声に、蓮華が「うん!」と頷く。 「ですが、食卓の椅子を蹴倒すひとには、デザートは出してあげませんよ」 「あっ!」  蓮華が小さな悲鳴を上げて、なんの未練もなくパッと蓮水から体を離した。     ぬくもりはすぐに蓮水の肌から消え失せた。  それをさびしいと思うのは蓮水だけで、蓮華は慌ただしい仕草で椅子を起こして、そこに座りなおしている。  飯岡が冷蔵庫からフルーツの盛り合わせを持ってきた。  蓮華が歓声を上げ、 「ハスミさんも食べよ~」  と蓮水を誘ってくる。  蓮水も着席し、蓮華がパクパクとカットフルーツを平らげてゆくのを見ていた。  フォークを握る彼の指には、巾着の紐が通されていて。  蓮水の上げたビー玉が、そこに大事に仕舞われているのだった。  蓮水が弟を見つめる視線と同じだけの強さで、飯岡の眼差しが蓮水に注がれている。  そのことには気づいていたが、蓮水は男の方は見なかった。    夕食が終わると、飯岡が(いとま)を告げてくる。 「また明日の夕方に参ります」  と声を掛けられ、蓮水は首を横へと振った。 「包丁があるから……もう毎日は来なくていい」    廊下を歩いていた飯岡が足を止めた。  彼のしなやかな肢体がくるりと回り、蓮水と正面から対峙した。 「では、食材の買い出しが必要な際はご連絡ください。あなたはひとりで外へ出てはいけませんよ」  子どもに言い聞かすように言われて、蓮水は思わずうつむけていた視線を上げた。 「なんだ、それ……」 「あなたも見たでしょう。警察が張ってますからね。あなたひとりだとホイホイ連れて行かれそうで。迂闊なことをして私の手間を増やさないでくださいね」  挑発するように、男が笑った。  蓮水はムッとして、飯岡を睨みつけた。 「バカにしてるのか」 「なぜです。いい口実じゃないですか」 「は?」 「蓮華さんと、家に閉じこもっておけるでしょう?」  飯岡の薄い唇が、近づいてきて。  蓮水の耳元で、囁いた。 「蓮華さんと、寝ましたね?」  蓮水は咄嗟に、飯岡から距離を取った。  気付かれているとは思っていたが、面と向かって問われるとは考えていなかった。  動揺に震える指先を握りこみ、蓮水は首を横に振った。 「ね、寝てない……」  見え透いた嘘に取り合わず、飯岡が涼しげな目元を細め、蓮水の前髪をさらりと梳いた。  やさしいような仕草に、蓮水の喉が熱いもので塞がれる。  呼吸が上手くできずに、蓮水は胸を大きく喘がせた。 「蓮水さん」  普段通りの声音で、飯岡が蓮水を呼ぶ。 「蓮水さん。……蓮華さんのことは、あなたの好きなようにしていい。けれど、あなたがつらくなるようなら、蓮華さんを淫花廓(あそこ)へ返した方がいいと、私は思いますよ」  顰めた声で、飯岡が早口に囁いた。  そして、蓮水の返事を聞く前に(きびす)を返すと、玄関までの残りの距離を歩き、一礼を残して出て行った。    蓮水はしばらく、廊下に立ち尽くして閉じた扉を見つめた。    なぜ、蓮水がつらくなると思うのだろうか。  ずっと願い続けてきた弟との生活が、ようやく実現したのだから。  つらいことなど……離れ離れになる以上につらいことなど、あるはずがなかった。  蓮水はため息をこぼして、飯岡に触れられた前髪をぐしゃりと搔き乱した。      リビングに戻ると、食器をシンクまで運んでいた蓮華が、 「お風呂入ってくる~」  と言ってパジャマを取りに行き、そのままバスルームに向かった。  蓮水は手早く皿を洗い乾燥機に突っ込んだあと、自室に入った。    スーツのジャケットを脱いだだけの恰好であったので、ルームウェアに着替えようと、スラックスを脱ぐ。  そのときふと違和感を覚えて、ポケットを探った。  カサリと指先に当たったのは、四つ折りにされた紙片だった。      開いてみるとそれは、写真だった。    映っているのは飯岡と……専務の山脇だ。  密談をしているかのような近さでなにごとかを話している二人を、明らかな隠し撮りでカメラに収めた写真であった。  プリント面の下部には、黒いマジックで九桁の数字が並んでいる。電話番号だ。  蓮水は吐息を落として、携帯を取り出すとそのナンバーを押した。  四コール目で相手が出た。 「今晩は、蓮水くん」  聞こえてきたのは、穏やかな諸住(もろずみ)の声だった。    

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