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第29話

 蓮華(レンゲ)と二人の空間は、どこか現実味を欠いていて。  不思議と夢の中に居るような気分だった。  朝は二人で食卓につき、食パンやヨーグルトなどを食べる。  それが済むと蓮水(ハスミ)は洗い物や掃除をする。蓮華も手伝ってくれる。  二人でするとあっという間に終わるので、窓ガラスや家具の裏側などもきれいにしたりした。  元々蓮華を迎え入れるために購入した家だ。居住してまだふた月も経っていないから、どこもそれほど汚れてはいないのだった。  午後からは蓮華はトレーニングルームにこもる。  不自由な右足を彼は器用に動かして、筋肉が落ちないように努力していた。  トレーニングの仕方は、淫花廓で習ったのだと言う。  黙々と全身を動かしている蓮華を見るのが、蓮水の密かな楽しみであった。  口を開かなければ彼は、こころの成長を止めてしまったようには見えなかったから。  鍛えられた蓮華の筋肉が、逞しく躍動している。  ひょろひょろの蓮水とはなにもかもが違う肉体だ。    窓から差し込んでくる陽光を浴びながら汗を流す蓮華は、べつの世界の人間のように、きれいだった。    時間は穏やかに流れたが、それは時折淫靡な空気へと様変わりする。  ふとした瞬間に、蓮華が欲情するからだ。    性欲を覚えたばかりの若い体を、蓮水はその都度慰めた。  蓮華に抱かれながら蓮水は、弟の体を抱きしめて懇願する。 「蓮華。蓮華。なんでもする。なんでもしてあげるから、オレの傍に居て」  喘ぎながら啜り泣く蓮水を、蓮華は揺さぶり、孔をこすり上げて、蓮水の中に白濁を吐き出すのだった。  蓮華は体つきも大きく、体力がある。  たいてい、蓮水が先に音を上げるのだが、蓮華が満足するまで性交は終わらない。  けれど、のしかかってくる男を蓮水は、突き放すことはせずに逆に縋りついた。  蓮華の広い背に腕を回し、がむしゃらに抱きつく。  男の胸板に頬を擦りつけ、同じだけのちからで抱き返してほしいと思う蓮水の願いは、しかしまだ一度も叶ってはいなかった。  蓮水は深夜にこっそりと起き上がり、蓮華が首から下げている小さなお守り袋から、緑色のビー玉を取り出すことが、増えた。    願い事を叶えてくれる宝物なの、と話す蓮華の言葉を、真に受けたわけではないけれど。  常夜灯のオレンジ色の光を受けてうつくしく輝くそれが、本当に願い事を叶えてくれるのならば、蓮華の記憶を戻してほしかった。  蓮水はてのひらの中にガラス玉を閉じ込め、深く項垂れて、いつかの蓮華のように「お願いします」と繰り返した。    お願いします。  蓮華の記憶を戻してください。  蓮華の記憶を戻してください。    そう祈りながらも蓮水は、気づいていた。    本当に欲しいのは、蓮華の記憶などではないことに。  蓮水は……。  愛が。  愛が、欲しかった。  蓮水のことを抱きしめてくれる腕が、欲しかった。  他の誰でもない、蓮水だけを抱きしめてくれる腕が、欲しかったのだ。  蓮華の記憶は戻らない。  けれど、変化もあった。  ハスミさん、と他人行儀に呼んでいた蓮華が、蓮水を呼び捨てにするようになったのだ。  最初に呼ばれたのは、情事の最中だった。  ハスミっ、と切羽詰まったような声で名を呼ばれ、蓮水の胸は甘く締め付けられた。  ハスミ、ハスミ、と繰り返しながら腰を振る蓮華に、蓮水はかつての幼い弟の顔を重ね合わせる。  彼は昔も、蓮水をそう呼んで……「お兄ちゃんと呼びなさい」と母親に叱られていたから。  兄ちゃん、兄ちゃんとふだんはそう言っている弟が、ふとした拍子に「ハスミ~」と生意気そうな口調で呼んでいたなと思い出して。  蓮水は、それを咎めることはせずに、ただ蓮華の欲望を身の内に受け入れたのだった。    閉ざされた空間で、蓮水は蓮華と二人きりで過ごす。  しかし四日もすると、冷蔵庫が空っぽになってしまった。  だから蓮水は、飯岡にメールを送った。  秘書はすぐに両手に食材の入ったスーパーの袋を下げて、この家を訪れた。  蓮華は飯岡に数日ぶりに会えて喜んでいた。 「わ~、いーおかだ。いーおか、なに買ってきたの?」  飯岡は、常となにひとつ変わらぬきれいな横顔で、 「あなた方の食事ですよ」  と答えた。  男の切れ長の瞳が、静かに流れて、蓮水の方へと向けられる。  飯岡の居ない間にこの家でなにをしていたのか見透かされた気分で、蓮水は目を逸らした。  蓮華が飯岡と並んでキッチンに立ち、ごそごそと白い袋を漁っている。  彼はそこからひき肉のパックを取り出して、 「あ~」  と歓声を上げた。 「ハスミっ。ハンバーグ。ハンバーグ作って!」  弾んだ声でそう言ってパックをこちらに見せてくる蓮華に、蓮水は微笑んで頷く。  淫花廓の食事は和食ばかりで(これは男娼も男衆も同じだったようだ)、最近洋食の味を覚えた蓮華は、ハンバーグやスパゲッティがお気に入りなのだった。 「こないだのハンバーグ! また食べたい!」 「うん。作ってあげるから、おまえも手伝って」 「うん!」  こねた肉を小判型にペチペチと整える作業を蓮華が楽しそうにしていたことを思い出し、そう言った蓮水へと、蓮華が勢いよく頷く。  それから彼はえへへと笑って、得意げに飯岡を見た。 「ハスミはね~、おれの言うことなんでも聞いてくれるの。昨日もね」 「蓮華っ!」  なにを言うつもりなのかと慌てた蓮水は、厳しいトーンで名前を呼んで蓮華の言葉を遮った。  蓮華がハッとしたように口をつぐみ、もごもごと唇を動かす。  蓮水はひそやかな動作で首を横に振った。蓮華がこくりと頷いた。  飯岡が来る前に、蓮水は蓮華に口止めをしていたのである。  蓮華が蓮水を抱いていることを、飯岡に決して言ってはならないと、こんこんと言い聞かせた。  蓮華は、なんでなんで? と首を傾げていたが、飯岡に知られたら蓮華のおちんちんが腫れてももう手伝ってあげれなくなる、と蓮水が説明すると、眉間に縦じわを刻んで、小難しい顔で首肯したのだった。  飯岡はすでに蓮水と蓮華が寝ていることを知っているのだから、いまさらの取り繕いであったかもしれないが、あっけらかんと話されては蓮水が居た堪れない。  飯岡には言わないこと、という蓮水との約束を思い出した蓮華は、 「やっぱりなんでもな~い」  と誤魔化して、肉のパックを冷蔵庫へと仕舞った。  飯岡の目が、蓮水と蓮華を見比べるように動いたが、結局はなにも言わずに蓮華とともに彼は残りの食材を収納していった。     

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