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第30話
片づけが済むと飯岡は早々に帰り支度を始めた。
「いーおかもご飯食べてこうよ」
と蓮華 が何度か誘っていたが、秘書は整った眉を軽く上げて、淡々とした口調で断った。
「この後に所用がありますので、私はこれで。蓮水 さん、少しいいですか」
飯岡が手帳を取り出し、蓮水を廊下へと誘う。
仕事の話かと、蓮水は蓮華をリビングに残して、男の後について歩いた。
玄関に向かいながら飯岡が、
「一週間後に役員会があります」
と口にした。
蓮水は黙って頷いた。
いつまでもこの家にこもっていられると、思っていたわけではない。
それでも、また役員連中の玩具にならなければいけないのかと、気鬱が胸を重く塞いだ。
バリアフリーになっている玄関で、革靴に足を突っ込んだ飯岡が、不意にこちらを振り向いた。
「ああいうのはよくありませんよ」
突然つけつけと言われて、蓮水はなんのことかわからずに男の整った顔を見た。
「蓮華さんのことです」
飯岡の指摘に、弟と体の関係を持っていることを嗜 められたのだと思い、蓮水の頬にカッと血が上る。
「お、おまえには、関係……」
「自分の言うことをなんでも聞くだなんて、ああいうことを言わせておくなと言ってるんです」
「……え?」
蓮水は飯岡の言葉の意味を捉え損ねて、首を傾げた。
飯岡が手帳をカバンに仕舞いながら、ふぅ、と嘆息を漏らす。
「いいですか。蓮華さんは見た目こそ成人男性ですが、中身は子どもなんです。あなたのことだからどうせ、彼がここから出て行かないようになんでも要求を呑んで甘やかしているんでしょう」
飯岡の切れ長の双眸が厳しい色を孕んで蓮水へと向けられた。
薄い唇が静かに動き、容赦のない事実を突きつけてくる。
「蓮水さん。蓮華さんのあれは、ただの子どもの独占欲ですよ。あなたに特別な情があるわけじゃない。少なくとも、私にはそう見える」
蓮水は眼差しを揺らして……どこを見ればいいのかわからずに、爪先へと視線を落とした。
蓮水だって、知っている。
ハスミハスミと懐いてきては、欲望のままに蓮水を抱く蓮華に、特別な感情なんてないことぐらい……。
蓮水の行いは、蓮華の……子どもじみた欲求を満たしているだけで、愛や好意を育んでいるわけではないということくらい。
蓮水だって、知っていた。
「蓮水さん」
「うるさい。オレたちのことに、口を挟むな」
蓮水は伸びてきた飯岡の手を振り払った。
弾かれた指先を、握りこんで。
飯岡が眉を寄せ、低い問いを発した。
「蓮水さん。蓮華さんに都合よく使われるのと、役員の方々にされていることは、なにが違いますか」
「うるさいっ」
「蓮水さん。嫌なことを嫌と言わないから、あなたはどんどん追い詰められて……いつかのように感情のコントロールができなくなるんです。あなたはふだん大人しいくせに」
「うるさいって言ってるだろっ」
蓮水は飯岡の胸を突き飛ばした。
スレンダーな男の体が、後方へ二歩よろめいた。
しかし飯岡は、蓮水から視線を逸らさなかった。
杏仁型の瞳でひたと蓮水を見つめて。
静かな声音で、飯岡が告げた。
「私はあなたが心配です」
蓮水のこぶしが震えた。
苦しくて苦しくて、肩が大きく上下した。
彼の真摯な目に、嘘はないように思えて。
飯岡を信じたい気持ちが胸の奥底で渦を巻いている。
しかし。
これが演技かもしれない、という疑念もまた、蓮水の中に確かに存在していた。
蓮水は口角を歪めて笑った。
「契約書に、書いてるのか」
「は?」
「オレを心配するようにって、契約書に書いてあるのか」
飯岡がよく口にする言葉をそうもじって、詰 るように問いかけると、飯岡が片眉をひょいと上げた。
「なるほど。たしかに越権行為でしたね」
あっさりとそう言って肩を竦めた飯岡が、踵を返す。
男の手が、ドアレバーに掛かった。
蓮水は咄嗟に足を踏み出し、飯岡の肩を掴んで振り返らせた。
こちらを向いた飯岡の、うつくしく通った鼻筋。
きれいな彼のその顔を見るたびに蓮水は、諸住 のセリフを思い出す。
(きみが居なければ、飯岡が財部 会長の資産のすべてを受け継いでいただろう。……会長の、元愛人の、あの男が)
飯岡が、財部正範の愛人だった。
飯岡の清潔な美貌が、諸住の囁きに真実味を持たせている。
本当にそうなのか、と問う代わりに、蓮水は。
飯岡の肩に手を置いたまま、衝動的に口を開いた。
「嘘はつかないと約束しろ」
「……は?」
「オレに、嘘はつかないと、いまここで言え」
命令口調で言ったはずが、声が無様に頼りなく揺れた。
蓮水は眦 にちからを込めて男を見つめた。
飯岡を信じたい。
嘘をつかないと、いまここで明言してくれれば、蓮水は彼を信じることができる。
態度ではなく、明確な言葉が蓮水は欲しかった。
視線が、近い距離で交じり合う。
ふ、と吐息するように飯岡が笑った。
薄い唇がほころんで。
蓮水さん、と飯岡が蓮水を呼んだ。
「蓮水さん。それは、契約の範囲ではありません」
蓮水の心臓が、トン、となにかで突かれたかのように痛んだ。
蓮水と飯岡とは、財部の契約のみでつながっているだけの関係で……そこに、特別な結びつきなど生まれていないことを、蓮水は思い知らされた。
「……そうか」
蓮水は頷いて、男の肩から手を落とした。自分の腕なのに、やけに重く感じた。
リビングから、「ハスミ~」と蓮華の呼ぶ声が聞こえてくる。
返事をしようとしたけれど、喉が詰まったようになって声が出なかった。
「蓮水さん。役員会までは外を出歩かないようにしてくださいね。買い物は、今日のように連絡をくだされば私が行ってきますから。まだしばらく警察の動きが騒がしいようなので……蓮水さん、聞いてますか?」
飯岡に問われて、蓮水はぎくしゃくと頷いた。
蓮水の態度になにを思ったのか、飯岡が一度ため息をついて、カバンを抱え直す。
「蓮水さん。いいですか、くれぐれも軽率な真似はしないように。あなたがひとりで外出をすれば必ず刑事が寄ってきます。世間知らずのあなたぐらい、警察はいいように転がしますからね。なにかあればすぐに私に連絡してください」
飯岡の声は、蓮水の耳を素通りした。
親切めいた忠言に裏はないのか、それを考えることにも疲れて、蓮水は男に背を向けた。
「蓮水さん」
先ほどとは逆に、今度は飯岡が蓮水の肩を掴んできた。
後ろへと引くそのちからに抗わずに、蓮水は男を振り向いた。
「蓮華さんを手放すなら、早いうちがいいですよ」
飯岡が静かに、そう言った。
「そのほうがあなたの傷が浅くて済む」
蓮水は泣き笑いの表情を、飯岡へと返した。
「あれはオレの、たったひとりの弟だよ」
だから絶対に手放さない。
こころの中でそう付け足した蓮水の声が聞こえたかのように、飯岡の眉間に苦いしわが寄せられた。
蓮水は玄関に飯岡を置いたまま、廊下を戻り、リビングのドアに手を掛けた。
背後では飯岡がカードキーを使って外へ出て行く音が、微かに響いていた……。
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