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第31話

 ハスミ、と蓮華(レンゲ)蓮水(ハスミ)を呼ぶ。  低い男の声だ。  けれど、どこか舌っ足らずで、幼いしゃべりかたにも聞こえる。   「ハスミ~。ハンバーグつくろ? おれ、お肉こねる~!」  顔全体で笑う、明るい蓮華の笑顔に、蓮水の頬もゆるんだ。  蓮水は背の高い男と並んでキッチンに立つ。  蓮水の作ったハンバーグのタネに、蓮華が大きな手を突っ込んでちから強く捏ねだした。    こうして日常の中に居てさえ、蓮水の頭はどこかフワフワと夢の中を漂うようだ。  最近、あまり眠れていないからかもしれない。  寝不足が思考に紗をかけて、この空間が現実から切り離されているかのような錯覚を蓮水に与えているのかもしれなかった。 「蓮華。ハンバーグ、好きか?」  蓮水は、遊びながら肉で平べったい丸の形を作ってゆく蓮華へと、そう問いかけた。  即座に「好き~」という言葉が返ってくる。 「他は? 他には、なにが好き?」 「おれはね~、グラタン」 「それは冷凍のやつだろ? オレの作ったので、なにが美味しかった?」 「ん~。ケチャップの、スパゲティ。あとね、から揚げ。カレーは辛いからきら~い」  先日作ったカレーは、そういえば中辛だった。体は大人だけれど、精神年齢同様味覚も子どものままのようで、蓮華には大層不評だったのである。  辛い辛いと言って水を飲んでいた蓮華を思い出して、蓮水はふふっと笑ってしまった。 「ごめんごめん。次に作るときは、甘いやつにするから」  顔をしかめた蓮華に謝ってから……蓮水はふと、蓮華が「おれ」と言っていることに気づいた。  ぼく、と自分を呼んでいた蓮華が、いつから「おれ」と言うようになったのか。  蓮水とずっと一緒にいることで、蓮水の一人称が移ったのだろうか。  それとも……。  もしかして蓮華のこころは、成長しているのではないか。  蓮水はまじまじと男の顔を見つめた。  その顔つきにどこか変わったところはないだろうか、と探してみたけれど、この狭い空間で毎日蓮華を目にしているため、変化があったとしても蓮水にはよくわからなかった。  飯岡ならば、なにか気づくことがあるだろうか。  蓮水は数日前に玄関で別れたきりの秘書を思い浮かべた。    飯岡に言われていた役員会は、もう明日に迫っている。彼とは嫌でも顔を合わさなければならない。  しかし、冷蔵庫の中身がほぼ空になっていたので、タイミングとしてはちょうどよかった。  会議の後で食材の買い出しに行き、飯岡を夕飯に誘って、蓮華の様子を見てもらう。  それぐらいならば、どうということもないだろう。  飯岡が蓮水を裏切っていたとしても……。  彼が平常通りに振る舞ってくれるのならば、蓮水だってふつうに接することができるはずだ。    蓮華とふたりで作ったハンバーグを、ふたりで一緒に食べる。  まるでままごとだ。  ニコニコと笑う蓮華は、しあわせなままごとの主人公で。  同じ笑顔ができているだろうか、と蓮水は、フワフワとした感覚の中で不安に思った。     食事が済むと交代で風呂に入る。  先に、蓮華が。  その間に蓮水は夕飯の片づけだ。  皿洗いを終えた頃に蓮華が入浴を済ませ、髪からしずくを滴らせながらリビングに戻ってくる。 「ちゃんと拭きな」  ソファに座らせた彼の黒い髪を、蓮水がタオルで拭ってやると、蓮華が目を細めて笑った。 「頭されるの、気持ちいいから」 「そう……髪、伸びてきたな」  淫花廓から連れてきたときは、短く刈られていた蓮華の髪。  そのときから、約ふた月が経過している。  癖のない蓮水の髪と違って、蓮華のそれはつんつんと跳ねまわり、硬い感触であった。 「伸ばすからいいもん」  蓮華が軽い調子で言った。 「でもおまえの髪、癖があるから……短い方が楽だと思うけど」  ワシワシとタオルで水気を拭いながら蓮水が応じると、蓮華が鼻筋にしわを寄せ、苦い表情をする。 「おれ、髪切るのきら~い。変な音するし、ぞわぞわするからきら~い」  蓮華のセリフに、蓮水は笑ってしまった。  そういえば般若の面の男衆が、蓮華は剃髪を嫌がると言っていたか。  男衆であったときもひとり髪を剃らなかった蓮華。  よほど嫌なのだな、と蓮水は散髪のときに駄々をこねる蓮華を想像し、可笑しくなった。  蓮華の髪を粗方乾かすと、交代で蓮水が風呂に行く。  洗身を終えて湯船につかったところで、眠気が瞼に圧し掛かってきた。  けれど、風呂場で寝てしまうわけにはいかない。  それに、こんなに眠たいと思うのに、目を閉じると今度は変に頭が冴えて、まったく眠れないのだった。  蓮水はため息をこぼして、浴槽から手を伸ばし、シャワーのコックを捻った。  温度調節のレバーを回し、水にすると、上半身を洗い場の方へと乗り出して、シャワーを頭上に掲げる。  冷たい水が、首から上に降りかかってきた。  しかし、冷水を浴びてもまだ、夢の中に居るかのような浮遊感は薄れない。  蓮水は諦めてシャワーを止めると、再び肩まで湯船に浸かって、温まりなおした。  風呂から上がりバスタオルで体を拭っていると、脱衣場のドアが廊下側から開けられた。  そこからぬっと伸びてきた手が、蓮水の腕を掴んでくる。  ここ最近、蓮水が入浴を終えるなり、蓮華がこうして乱入してくるのが常だった。  蓮水がパジャマを着るのすら待ちきれずに、ぐいぐいと蓮水の腕を引いて寝室へ行くと、ベッドに蓮水を押し倒して圧し掛かってくる。 「ハスミ。しよ?」    そう言って蓮水の手を己の下腹部に押し当て、犬のように腰を揺すってくる蓮華は、発情した獣のようであった。       

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