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第33話
刑事が居た。
マンションの前と、会社のビルの地下駐車場。
たぶん、財部 の本宅でも張り込みをしているのだろう。
常と同様に迎えに来た飯岡に伴われて、蓮水 は家を出た。
乗車するときも、車から降りて役員専用の通路に入るときも、刑事の視線が蓮水の動向を追っているのがわかった。
否……彼らが見ているのは、蓮水なのだろうか。
それとも、蓮水のすぐ傍に付き従う飯岡なのか。
飯岡と蓮水の間に、会話らしい会話はない。
事務的な口調で本日のスケジュールを確認されたほかは、車中でも無言であった。
しかし会長室でコーヒーを淹れてくれた飯岡が、ひと言だけ。
「ひどい顔色ですね」
と口にした。
その言い方がいつも通りすぎて、蓮水は不意に泣きたくなった。
いま蓮水を『蓮水』というひとりの人間として認識しているのは、飯岡だけなのかもしれない。
退屈しのぎの玩具や、性欲処理のためのダッチワイフではなくて。
蓮水、という個人として扱ってくれる唯一の存在が、飯岡なのだ。
しかし諸住 の言葉を信じるならば、飯岡にとって蓮水は邪魔なだけの存在だ。
飯岡が財部から受け取れたかもしれないすべてのものを、蓮水が横から掻っ攫ったのだから。
蓮水はコーヒーカップを持ち上げ、苦い液体を啜った。
瞼にまとわりついている眠気は、相変わらずそこに居座っていて。
あのマンションを出ても夢の中に居るかのような浮遊感から抜け出せない。
蓮華 は大人しくしているだろうか。
キュル……と椅子を回して、蓮水は高層階の窓から見える景色へと視線を転じた。
マンションのある方角は乱立するビル群に阻まれて、見通しがきかない。
昨夜、淫花廓の話題が出たとき、蓮華は、帰りたいと言わなかった。
もう逃げ出す心配はないのかもしれない。
ならば、玄関のカギを付け替えても大丈夫だろうか。
蓮華を閉じ込めるための檻となっている部屋を思って、蓮水は思案した。
「蓮水さん、そろそろ」
腕時計に目を落とした飯岡に促され、蓮水の思考は中断された。
蓮水は吐息をこぼして、椅子から立ち上がった。
「飯岡」
「はい」
「頼みがある」
蓮水はそう言って、この日初めて、秘書の顔をまともに見た。
爽やかな印象の美貌。それが、こころなしか疲れて見える。
顔色が悪いのはお互い様だな、と蓮水は少し可笑しくなった。
「なんでしょう」
平坦な声で問われ、蓮水は男の目を見たまま口を開いた。
「探し物を、してきてほしい」
「……探し物?」
「蓮華の、宝物を」
蓮水の言葉に、飯岡の双眸が丸くなった。
その意外そうな男の表情へ向けて、蓮水は一方的に「頼んだ」と告げた。
飯岡が、探るような眼差しでこちらを見つめてくる。
突拍子もない依頼だと、蓮水自身にもよくわかっていた。
走行中の車から投げ捨てた小さなビー玉を探してくれ、なんて。
現実的ではない。
見つかる可能性は皆無に等しいだろう。
けれど。
「蓮華に、返してやりたいんだ。頼む」
蓮水は秘書へと頭を下げた。
「オレの……役員たち の相手が終わる時間まででいいから、探してほしい」
飯岡の、よく磨き上げられた革靴を見ながら、蓮水は言葉を重ねた。
呆れたような飯岡のため息が降って来る。
伸びてきた腕に肩を掴まれ、頭を上げさせられた。
「見つかる保証はありませんよ」
「うん。それでもいい」
きっぱりと頷いた蓮水へと、飯岡が肩を竦めた。お手上げ、と言わんばかりの表情で天井を仰いだ男が、「わかりましたよ」と少し投げやりな声で呟いた。
「車、お借りします」
「うん」
飯岡が会長室のドアを開いて、押さえた。
蓮水は男の脇から廊下へと出た。
役員会のある会議室の前まで、飯岡が付いてくる。
「蓮水さん」
呼ばれて、蓮水は秘書を見た。
飯岡がなにか言いたげな目をしている。
なんだろう。蓮水は男の言葉を待ったが、薄い唇はそれ以上動かなかった。
「行ってくれ」
蓮水はエレベーターホールの方を指さし、男を促した。
飯岡がきれいな所作で頭を下げ、廊下を歩き去った。
蓮水はうつくしく伸びた飯岡の背中を見送り、会議室のドアを開いた。
室内では何名かの役員がすでに着席している。
そこに諸住の姿を見つけると同時に、諸住もこちらに気づいた。
軽く指先をひらめかせて男が合図を送って来る。
蓮水は彼へと軽く頭を下げてそれに答えた。
今朝早く、諸住から電話があったのだった。蓮水は蓮華を起こさぬよう、自室へとこっそり戻り、そこで通話ボタンを押した。
電話口で、諸住の低い声が、睦言めいて囁いてきた。
警察が、飯岡の逮捕に踏み切るぞ、と。
まさか、と蓮水は答えた。
飯岡が財部を殺害するとは思えない。
しかし諸住は、やつには動機がある、と語った。
相続できるはずの資産をすべて蓮水に奪われ、会長が憎くなったんだろう、と。
証拠がない、と蓮水は反駁した。
飯岡が財部を殺したという証拠がどこにあるのか。
諸住はこれにも、落ち着き払った声で応じた。
警察がどうやら新しい証拠を手に入れたらしい。早晩、飯岡の逮捕に乗り出すだろう。
「蓮水くん」と諸住が電話越しに蓮水を呼んだ。
「きみが飯岡を庇いたいなら、協力することもやぶさかではない」
諸住に言われ、蓮水はハッと瞠目した。
手の中の携帯電話を握りしめ、ごくりと生唾を飲み込む。
「だが飯岡は、きみを陥れようとしている側の人間だ。そんな男を庇おうなんて物好きは居ないだろうけどね」
くつくつと、男の低い笑い声が耳を打つ。
蓮水が葛藤した時間は、十秒にも満たなかった。
飯岡は蓮水の秘書だ。
蓮水の知らぬところでどれほどの禍根があろうとも、殺人の容疑がかけられていいはずがなかった。
「協力してください」
蓮水が助力を乞うと、電話の向こうの男がまた笑った。蓮水は万が一にも蓮華に聞こえないよう、潜めた声で早口に続けた。
「飯岡の逮捕を、取りやめさせてください」
「さて、それができるかどうかは、きみ次第だよ、蓮水くん」
諸住が、落ち着き払った返答を寄こしてきた。
「僕は警察の人間と繋ぎを取るだけだ。飯岡の潔白を主張したいなら、きみ自身で行いたまえ」
「……わかりました」
「今日の役員会の後で引き合わせよう。きみは、飯岡を遠ざけておくんだね」
諸住に言われて、蓮水は頷いた。
そうだ。飯岡は蓮水が刑事と接触することを良しとしていない。
蓮水が飯岡の不利になる証言をすると、疑っているからだ。
諸住の手引きで警察の人間と会うことがばれると、妨害される恐れがあった。
しかしこのまま知らん顔をしていれば飯岡が逮捕されてしまう。
だから蓮水は、蓮華の宝物を探してくれなんて無茶な願い事を、飯岡にしたのだった。
ビー玉を投げ捨てた場所は、ここから車で一時間ほどの距離だったはずだ。
これですぐに駆け付けることのできない場所に、飯岡を遠ざけることができた。
蓮水の視界の中で諸住が、親指を立てた。
繋ぎはとれたよ、と男が唇を動かすのに、蓮水は軽い頷きを返し、会議の席に腰を下ろした。
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