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第37話

 夢を見た。  れんげ畑の中を、弟と二人歩く夢を。  蓮水(ハスミ)が見つけた、土に埋もれていたビー玉。  ひとつを、弟が。もうひとつは、蓮水が。  それぞれ握りしめて、歩いた。  家が見えた。  敷地だけは広い、田舎の家だ。  縁側から弟が屋内へと入ってゆく。  彼の行く手には襖がある。そこはダメだ。開けてはダメだ。  夢の中の蓮水は、弟を止めようとして……。  けれど、間に合わず。  二人で立ち尽くすようにして、両親の遺体と対面した。    天井の梁から下げられた、太い縄と。  ぶらぶらと揺れる両親の爪先と。    赤い紐で結ばれた、彼らの手。  弟が泣いた。  半狂乱で、泣いていた。    抱きしめて、慰めてあげなくてはいけない。  だって蓮水は。  お兄ちゃんだから。  はっ、と体が浮き上がる感覚とともに蓮水は覚醒した。  視界は暗かった。  驚いて跳ね起き……そこがマンションの自室だということに気づく。  いつの間にここへ戻ってきたのだろう。  そしていつ、ベッドに入ったのか。  蓮水は記憶を手繰り寄せ、警察署に飯岡が迎えに来たこと、そして帰りの車中で寝入ってしまったことを思い出した。    エレベーターに乗ってこの部屋まで、飯岡が運んでくれたのだろうか? 飯岡は身長こそ蓮水を上回ったが、すらりとした体つきで、あの細腕に意識のない蓮水の体はさぞ重かったに違いない。  寝不足だったせいか、運ばれても気づかないなんてよほど深い眠りに落ちたのだな、と、まだぼんやりとする頭で蓮水は思った。    思ってから、ふと蓮華(レンゲ)の存在を思い出し、蓮水はベッドからまろび出た。    四日も家を空けていたのだ。  食事はどうしただろうか。風呂は、洗濯は。  ちゃんと生活ができていただろうか。  この家の鍵は、外からしか開かない造りになっているから、蓮華はいざというときに誰かにたすけを求めることもできないのだ。   「蓮華っ」  喉に絡む声で男の名を呼んで、蓮水はドアをバタンと開けた。  光が、蓮水の目を射た。  眩しい。  その眩しさの中で目を凝らす。  リビングには、蓮華と、飯岡が、寄り添うようにソファに座っていて……。  楽しげに会話をしていた彼らが、驚いたように瞠目して、蓮水を見た。  蓮華が立ち上がった。  彼の膝元からバラバラとなにかが落ちた。  それは、十数センチほどに切られた細い麻紐であった。そんなものでなにをしていたのか……蓮華が「あっ」と慌てたように床に広がった紐を拾い集めて、テーブルの上に置くと、 「ハスミっ」  と黒い瞳を細めて、笑顔を向けてきた。  蓮華は……元気そうだった。    部屋は整然と片付いていたし、食事に困っていた様子も欠片もなかった。  蓮華がテーブルに置いた紐を、飯岡が箱の中に仕舞っている。    そうか、飯岡が居たのだ、と蓮水はそのことに気づいた。  この家の鍵は飯岡も持っている。  蓮水が居なければ、蓮華が死んでしまうわけではない。  飯岡が居れば、それでいいのに。  なぜ、蓮水はそれを失念していたのだろう……。  蓮水は一歩、後退(あとずさ)った。  リビングに満たされた光が眩しすぎて、顔が歪む。  白く清潔な灯り。  眺めの良い窓。  この家は箱庭だ。  弟と暮らすために、と。蓮水の好きなものだけを集めた、箱庭だ。     蓮華が居て。  飯岡が居て。  彼らと三人で食卓を囲んだ、ママゴトのような、箱庭だ。    けれど。  この箱庭で暮らす彼らは必ずしも、蓮水の手を必要としているわけではなくて。  蓮水が居なくても、彼らの世界は壊れたりはしないのだ、ということを。  いまようやく、蓮水は悟ったのだった。  そうか、この箱庭に、オレは必要ないのか……。    踏みしめているはずの床がぽかりと抜けたようなこころもとなさが、襲い掛かってきて。  蓮水は(うずくま)りそうになった。 「ハスミっ。おかえりなさいっ」  明るい場所から伸びてきた腕が、蓮水の背に巻き付いた。  気づけば蓮華のあたたかな胸に、抱きしめられていた。  ぎゅうっとしがみついてくる蓮華の背を、同じように抱き返していいのかわからずに、蓮水は茫然と彼の抱擁を受けた。 「急に帰ってこなくなるから、心配したっ」  怒ったような口調で、蓮華がそう言った。 「もっと強く叱ってもいいですよ」  蓮華の背後から、そんな飯岡の声が飛んでくる。  蓮水が蓮華の肩越しに視線を向けると、呆れたと言わんばかりの飯岡の目とぶつかった。 「まったく……。警察には行くなと、言ったはずですよね」 「……いま……」 「は?」 「いま、は、やめてくれ」  蓮水は蓮華の腕の中で、ちからなく首を横に振った。    いま、飯岡とこの件について話をするには、蓮水の気力が底をついていた。  もうなにが本当で、誰が嘘をついているのかわからない。  それを考えることにも疲れてしまった。  飯岡が小さな嘆息を漏らした。  蓮水は蓮華の胸をてのひらで押し返し、彼と距離をとった。 「ごめんな、蓮華……」 「え? なにが?」 「食事、大丈夫だったか? 冷蔵庫になにもなかっただろ」  蓮水が問うと、蓮華がくしゃりと笑って、「大丈夫だよ~」と答えた。 「いーおかが、色々食べさせてくれたし、お腹空かなかった~」    蓮華の返事に、蓮水はやっぱりなと思った。  やはりこの箱庭には、蓮水の手など必要ないのだ。      「オレ……風呂に入ってくる……」  茫洋とした口調で、蓮水はそう言って踵を返した。  部屋に戻って、着替えを持って、浴室に行く。動作を一々拾い上げて頭の中で言葉にしなければ、行動するのが難しかった。  蓮水は重い足を無理やりに動かして、一歩を踏み出した。 「蓮水さん」  飯岡の声が追ってくる。 「蓮水さん、二つ、謝罪があります」  蓮水はのろのろと振り向いた。  謝罪とはなんだ。  蓮水を警察に売ったことか。それとも、諸住と結託していたと暴露するつもりか。 「あとで聞くから……」 「例のものは見つかりませんでした」  蓮水の語尾に飯岡が言葉をかぶせた。  一瞬、なにを言われたのかがわからずに、蓮水は二度瞬きをした。  例のもの……働かない頭で考える。  飯岡が探しにいったものとは、なんだったか……。  ふと、脳裏にビー玉が浮かんだ。  蓮華の宝物の、ビー玉が。  そうだ。蓮水は、飯岡を遠ざけるために車の窓から投げ捨てたビー玉を探してくれと、秘書に依頼したのだった。  律儀に探してきたのだろう男が、きれいな姿勢で頭を下げた。 「すみませんでした」  謝罪され、蓮水は首を横に振った。  そもそもあんな小さなものを探して来いというほうが無謀なのだ。見つからなくて当然だった。  すっと流れるような動作で顔を上げた飯岡が、言葉を続けた。 「それから、あなたの許可を得ずに蓮華さんをこの部屋から出しました」 「……え?」 「帰りの車で、あなたが熟睡……というかほとんど気絶していたので。駐車場からここまであなたを運ぶのを、蓮華さんに手伝っていただきました」  淡々と告げられ、蓮水は蓮華の方を見た。  蓮華がにこにこと笑ったままで頷いた。      右足が不自由ながらも体を動かすことが好きな蓮華は、ちからが強い。腕もよく鍛えられているし、なるほど、蓮水程度ならば抱き上げて移動させることができただろう。    部屋から出ることができたのに、逃げなかったのか。  蓮水は蓮華の笑顔を見ながら、それを不思議に思った。  飯岡にお願いして、逃げれば良かったのに。  それともそこまで知恵が回らなかったのだろうか。  蓮華は、体だけは成熟しているけれど、中身は子どものまま時を止めているから……。 「……蓮華、ありがとう」 「ハスミは軽かったし~。おれ、もっと重い荷物持てるの」  そう答えて顔全体で笑う蓮華に、軽い頷きを返して。  蓮水は秘書にも礼を言った。 「飯岡も、ありがとう」 「……勝手をしたと、怒らないのですか?」  軽く眉を寄せた表情で、飯岡が探るように蓮水を見てきた。  怒られたいのだろうか?  こんな年下の男に、飯岡は怒られたいのだろうか。  隈の浮いた秘書の目元を見ながら、蓮水は自分の思考の散漫さにも疲れて、小さく首を振った。 「もう、いいんだ……」  ぽつりと、呟きを落として。 「お風呂、入ってくるから」  蓮水は二人に背を向けた。  今度は誰も、蓮水を引き留めはしなかった。            

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