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第38話
とりあえずシャワーを浴びようとバスルームに入った蓮水 は、浴槽に更湯 が張ってあることに気づいた。
飯岡が、準備してくれたのだろう。
ざっと体を流した後、蓮水は熱い湯に浸かった。
無意識に、大きな息が漏れる。
浴槽のへりに後頭部を預け、蓮水は瞼を下ろした。
眠いのかそうでないのかすら、わからない。
ただ、頭がぼんやりとしていた。
不意に、ガタガタと音がした。
薄く開いた視界でそちらを見ると、湯気の向こうに大柄な男の体があった。
「ハスミ~。おれも入る」
屈託のない口調でそう言って、シャワーのコックを捻ったのは蓮華 だった。
ザァザァと雨粒のような水滴がバスルームの床を打つ。
湯温をてのひらで確認した蓮華が、「ハスミ」と言って蓮水を手招いた。
「おれが洗ってあげる~」
黒々とした瞳をにこりと細めて、蓮華がシャワーチェアーを示した。そこに座れということか。
抗う意欲もなくて、蓮水は重い体を動かし、湯船から立ち上がった。
椅子に座った蓮水の背中を、泡立てたボディスポンジを使って蓮華がこすってくる。自分から洗うと言ったくせに、恐る恐るというように肌を滑るそれに、蓮水は苦笑いをこぼした。
「蓮華。くすぐったい」
「でも~、ちから入れすぎるとハスミが痛いから」
「もうちょっと強くしても大丈夫だよ」
シャワーの音に紛れて交わす会話は、不思議なほどに穏やかで。
蓮水はなぜか、泣きたいような気分になった。
前も洗おうとする蓮華を制して、蓮水はスポンジを奪って自分の体を洗い、別のスポンジで蓮華の背中も流してやった。
そのままの流れで、互いの髪も洗う。
途中、シャンプーが目に入って痛いと蓮華が騒ぎ、湯で流した後に確認すると、左目が赤くなっていた。
「こすっちゃダメだよ」
乾いたタオルで蓮華の顔を拭いて、赤い目を覗き込みながら、蓮水はそう言って……ふと、その距離の近さにドキリとする。
潤んだ瞳を何度も瞬かせて、蓮華がこくりと頷いた。
彼の髪を伝い落ちた雫が、蓮水の頬に落ちた。
キスができそうなほどの位置に、互いの唇があった。
これまで、体は幾度も重ねてきたけれど……唇を合わせたことはなかった。
蓮華の眼差しが、蓮水に注がれている。
そこになにか、特別な感情があるように思えて……蓮水は、唇を寄せようと、した。
けれど、膝立ちの姿勢で蓮水と向かい合っている蓮華の、その下腹部で……彼の欲望が勃ち上がっているのを目の端で捉えた瞬間、冷水を浴びせられたかのように頭が冷えた。
そうだった。
蓮水は、性欲処理のダッチワイフだった。
蓮華は毎晩のように蓮水の後孔を使って射精をしていたのだ。四日間の蓮水の不在で、性的欲求が溜まっているのだろう。
だからバスルームまでやってきたのだ。
リビングにはまだ飯岡が居るだろうが……蓮水はそれでもいいかと投げやりな気分で蓮華のペニスに手を伸ばした。
体はひどく疲れている。だから、手と口でゆるしてくれないだろうか。
それでも、蓮華が挿れたいと言ったらきっと自分は体を開くのだろうな、と自嘲に唇を歪めて、蓮水は囁いた。
「蓮華……抜いてあげるね」
蓮華の男らしく整った眉が、く、と寄せられた。と思ったら、蓮水の手から蓮華のそれが逃げた。
え? と首を傾げて男を見上げると、蓮水の両肩を掴んだ蓮華が、ぶんぶんと首を横に振った。
「今日はいいの! ちんちん、さわらなくていいの!」
「でも、それ……」
「い~い~の! ハスミ、お風呂入ろ?」
蓮華がまだ赤い目でくしゃりと笑って、派手な飛沫 をあげながら湯船に入った。
彼に手を引かれ、蓮水も浴槽の中へと戻る。
蓮水は、背後から蓮華に抱きこまれる形で、湯に浸かった。
蓮華の筋肉質な張りのある胸と、骨ばった自分の背が当たっている。
ちゃぷ……と音を立てて前に回ってきた蓮華の腕に、肩をゆるく抱かれた。
体を後ろに倒される。
蓮水は、蓮華に深くもたれかかる格好で、抱擁された。
腰の後ろには、猛ったままの陰茎があった。
それなのに蓮華は、自分の欲望を優先させることはなく、ただやわらかく蓮水を抱いていてくれる。
以前に、抱きしめてくれないか、と彼に乞うたときは、なんで? と無邪気に首を傾げたくせに……なぜ、いま、こんなふうに蓮水に触れてくるのだ。
なぜ、大事なものに触れるように、やさしく抱きしめてくれるのだ。
勘違いしそうになる。
この抱擁の意味を、勘違いしそうになる。
「……なんで……」
「え?」
「おまえの、これ……」
蓮水は後ろ手に、蓮華のペニスに触れた。
「も~っ!」
蓮華が少し怒ったように蓮水の手首を掴んで、そこから引きはがす。
「今日はいいの!」
強く言われて、蓮水は再び「なんで?」と問うた。
顔を振り向けて蓮華を仰ぐと、蓮華が顔全体でくしゃりと笑って答えた。
「いーおかが~。ハスミは疲れてるから、やさしくしてあげなさいって~」
あたたかな湯に浸かっているはずなのに、体の中心が冷やりとした。
そうか、飯岡に頼まれたのか……。
蓮華本人の意思ではなくて。
飯岡に言われたから、蓮水にやさしくしてくれたのか……。
「それからおれ、いーおかに、」
「蓮華っ」
蓮水は咄嗟に、蓮華の唇を塗れた手で押さえた。
蓮水の動きに合わせて、バシャっと水面が揺れた。
てのひらの下で、蓮華の唇がもごりと動いた。
湯船の中で、蓮水は体の向きを変え、蓮華と向かい合った。
波立った湯が、少しこぼれた。
蓮水は蓮華の口を押えたまま、泣き笑いの表情で首を横に振った。
「もう、なにも言わないで」
蓮水はもう、なにもかも全部思い知ったから。
これ以上は、聞きたくなかった。
幼いころに引き裂かれた弟と、また一緒に暮らしたかった。
それだけを目標に生きてきた。
けれど弟は記憶を失い……子どものままで時間を止めてしまっていた。
それでも強引に彼を引き取ったのは、蓮水が……蓮水自身がひとりになりたくなかったからだ。
孤独だった。
だから弟と寂しさを分かち合いたかった。
淫花廓から連れ帰ってきた弟を自分に繋ぎとめるために体を使った。
これは弟ではなく男娼だと自分に言い聞かせた。
蓮華。
その名で弟を呼んで。
何度も体を重ねた。
虚しかった。
こころを伴わない行為は、虚しかった。
愛してほしい。
誰かに、愛されたい。
蓮水を選んでほしい。
他の誰でもなく、蓮水だけを。
蓮水は……両親に、置いていかれた存在だから。
二人並んで仲良く首を吊っていた、父と母。
彼らの手は、あの世でも離れないようにと赤い紐で結ばれていたのに。
蓮水の手をとってくれるひとは、誰も居なくて……。
弟ならば、その寂しさをわかってくれると思っていたけれど。
すべてを忘れた蓮華は、蓮水を必要としていなかった。
揺れた水面がちゃぷちゃぷと音を立てる。
蓮華の黒い瞳が、ゆるゆると見開かれた。
蓮水が、蓮華の唇を塞いでいる己の手の甲に、唇をつけたからだ。
てのひら越しに、キスをして。
蓮水は湯船から立ち上がった。
蓮水はひとりだ。
この箱庭で、ひとりきりだ。
蓮華も飯岡も蓮水の手を必要とはしていない。
蓮水が居なくても、彼らの世界にはなんの支障もない。
蓮水はそれを、ちゃんと理解している。
口角にちからを入れて、蓮水は蓮華へと微笑を向けた。
「オレ、先に上がるから」
蓮華を浴室に残したまま、蓮水はドアを閉めた。
潮時だな、と思った。
箱庭の世界を、閉じるときがきた。
この箱庭は、蓮水が作ったものだから。
終わらせるときも、ちゃんと蓮水の手で幕を下ろさなければならない。
けれどあとひと晩。
ひと晩だけ、この世界に浸っていたかった……。
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