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第39話
風呂から上がった蓮水 を、あたたかな料理が待っていた。
「こんな時間なので、少しだけにしておきました」
そう言って飯岡が食卓に置いたのは、卵と野菜の入ったおじやだった。
時計を確認すると、もう日付が変わろうとする時刻になっていた。
何時に警察から解放されて、何時間寝ていたのか判然としなかったが、出汁の良い香りに食欲を刺激され、蓮水はお礼を言ってから箸をとった。
「足りなかったら言ってください」
「うん。……ありがとう」
熱々のやわらかな米を舌に乗せると、ふわりとやさしい味がした。
「あ~っ! ハスミ、いいの食べてる!」
髪をバスタオルで拭きながらリビングに入ってきた蓮華 が、ズルズルと早足で近寄ってくる。
「あなたは晩御飯を食べたでしょう」
飯岡に冷ややかに窘 められ、蓮華が唇を尖らせた。
「い~おかのケチ」
「食べてばっかりいたら太りますよ。成長期はとっくに過ぎてるんですから」
「蓮華。オレの、半分食べるか?」
「蓮水さん。それぐらいは食べてしまいなさい」
ピシャリ、と厳しい声で叱られ、蓮水は小さく首を竦めた。
蓮華がへらりと笑い、
「ハスミがいーおかに怒られた~」
と自分のことは棚に上げて歌うようにそう言った。
結局、茶碗に半分ほどのおじやを蓮華によそってあげた飯岡が、人数分のお茶を淹れて自身も腰を下ろした。
三人で、ひとつのテーブルを囲む。
ずいぶんと懐かしいような感傷的な思いとともに、蓮水は飯岡の料理を噛み締めた。
「警察 では、かつ丼でも出ましたか?」
飯岡の軽口に、蓮水は笑った。
「……どうだったかな。パンばっかりだったような気がする」
「道理で」
「え?」
「顔色も悪いし、痩せましたね」
蓮水にそう指摘してくる男こそ、頬のラインが削げている気がして、蓮水はお茶を啜ってから言い返した。
「おまえも、ひとのことは言えないだろ」
蓮水の言葉に、飯岡が小さく鼻を鳴らした。
「誰かさんが、心労ばかりかけてくるので」
明らかな嫌みではあったが、毒気はなかった。
だから蓮水も、素直に謝罪することができた。
「……ごめん」
早々に茶碗を空にした蓮華が、黒々とした瞳で蓮水と飯岡を交互に見て、首を傾げた。なんの話題なのか理解していないのだ。
それでも彼は、顔全体に屈託のない笑みを広げ、明るい口調で言った。
「ハスミといーおか、仲直りできて良かったね」
蓮水は息苦しいような思いで、頷いた。
今日で最後だ。
蓮華と飯岡と、こんなふうに三人で過ごすのは、これで最後なのだ。
会社のことも。
飯岡の思惑も。
もうどうでも良かった。
いまこうして一緒に居てくれる。もうそれだけでいい。
時間が止まればいいのに、と蓮水は願った。
このしあわせな空間が、永遠に続けばいいのに、と。
けれどそんな奇跡は、起こるわけがなかった。
茶碗のおじやはどんどんと減ったし、湯呑みの湯気もやがて消えた。
腹が膨れると、瞼が重くなった。
眠れば今日が終わる。終わってしまう。
蓮華がテーブルの上の食器をカチャカチャと重ねて流しまで運ぶのを、蓮水はぼんやりと見ていた。
「蓮水さん。眠いなら寝てらっしゃい」
カウンターキッチンの向こう側で、飯岡が手早く茶碗を洗いながら促してくる。
蓮水はそれでも、座ったまま彼らの動きが止まるのを眠気を堪えながら待っていた。
ものの数分で後片付けを終えた飯岡が、手を拭きながらリビングへと戻ってくる。
お手伝いをしていた蓮華も、右足を引きずる歩き方で彼の後ろをついてきていた。
「蓮水さん、私は帰りますので、」
「飯岡」
秘書の言葉を途中で遮って、蓮水は立ち上がった。
「今日は、泊まっていってくれないか」
蓮水の問いかけに、飯岡の目が丸くなった。
蓮水はおずおずと、男の手を掴んだ。
爪の先まできちんと整えられた、きれいな手。握りしめたその指先を見ながら、蓮水は頭を下げた。
「契約の範囲じゃないかもしれないけど……オレと、蓮華と、一緒に寝てほしい」
沈黙が落ちた。
蓮水は、どう言えば飯岡が泊まってくれるだろうかと、顔を俯けたまま考え続けた。
どう言葉を重ねれば……。
飯岡の手が、振りほどかれた。
やはり、契約の範囲ではありません、と冷たい声を返されるのだと蓮水は諦めの吐息を漏らした。
一度離れた手が、蓮水の肩を押した。
下げていた頭を、強引に上げさせられる。
のろのろと姿勢を戻した蓮水の視線の先に、飯岡の整った顔があって……片眉を軽く上げた飯岡が、ほろ苦いような表情で笑った。
「ずいぶんと甘えん坊になったものですね」
返ってきた声に、蓮水はポカンと男を見上げた。
「着替えを借りますよ」
シニカルに唇を歪めた飯岡が、そんなふうに応じて……泊まることを了承してくれたのだと、蓮水は遅まきながら理解した。
「いーおか、お泊まり? 一緒に寝る?」
蓮華が弾んだ声を上げて、にこにこと飯岡の後をついて歩く。
飯岡が泊まるのは、蓮華がこの家に来て以降二回目だ。
あのときは、蓮水に代わって飯岡は、蓮華が逃げないように見張りをしてくれていた。……否、もしかしたら蓮水が蓮華を傷つけないよう、蓮水こそを見張っていたのかもしれない。
ほんの数か月前の出来事なのに、遠い昔のことのように、蓮水は思い出していた。
蓮華の部屋の床に、布団を二つ並べた。スペース的にそれが限界だった。
そこに枕を三つ。
蓮華のベッドは使わずに、川の字で並んで寝たいという蓮水の希望を、蓮華も飯岡も特に反対することもなく受け入れてくれた。
蓮水の願いは、もう一つあった。
蓮水は、使っていないバスローブの紐を、そっと差し出した。
「オレと、手を、繋いでくれないか?」
左右にそれぞれ座った蓮華と飯岡へ、蓮水はそう乞うた。
なにを言ってるのだろうと思われるだろうな、と蓮水は内心で自嘲した。
頭がおかしくなったと謗 られてもおかしくない。
けれど、今日は最後の夜だから、ひとりきりでいたくなかった。
赤い紐で互いを縛っていた、両親のように。
手を、結ばれていたかった。
蓮華と、飯岡と。
繋がっていたかった。
飯岡が黙ったまま、蓮水の差し出した腰紐を手に取った。
しばらく無言でそれを眺めていた男が、
「蓮華さん、手を」
と言って、まずは蓮華の左手首に紐を巻き付けた。
そして、もう片方の端を、蓮水の右手首に。
飯岡が軽いちからできゅっと結わえた紐を、蓮華が凝視している。
紐で繋がれた手首同士を、じっと見て。
蓮華がぶらぶらと手を揺らした。互いの体の間で、紐も揺れた。
ふふっと蓮華が笑った。
「おれとハスミ、繋がった~」
蓮華が手を振るたびに、蓮水の手首で紐がこすれる。
痛くはなかった。
もっと強く縛って、永遠に消えない痕になればいいのに、と蓮水は思った。
「蓮華さん。あなたはこっちを」
飯岡がもう一本の紐を蓮華へと渡した。
蓮華が飯岡の真似をして、蓮水の左手首と飯岡の右手首をそれで結んだ。
「痛いですよ。もう少しゆるく」
飯岡に注意され、蓮華が苦戦しながらも不器用そうに紐を巻き直した。
蓮水は紐の先に居る蓮華と飯岡を見つめ……「ありがとう」と頭を下げた。
「いーおかとおれも手ぇ繋ぐ?」
「私たちまで繋いだら寝にくいですよ。ほら、さっさと布団に入りなさい。消しますから」
電気のリモコンを手にした飯岡に素っ気なくあしらわれ、蓮華がむくれながら布団に横たわった。
蓮華の動きに右手を引かれ、蓮水も横になる。
飯岡がピ、とボタンを押して灯りを落とした。常夜灯のオレンジ色が仄かに部屋に満ちた。
眠気はすぐに訪れた。
寝たら終わる。箱庭の世界が終わってしまう。それはわかっていたが、抗えない。
「あ!」
突然蓮華が叫んだ。
「これ、トイレのときどうするの?」
問われて、蓮水は重い唇を動かした。
「トイレに行きたくなったら……起こしてくれてもいいし……ほどいても、いいよ」
眠気のせいで声があやふやな響きになる。
「おやすみ、蓮華……飯岡」
呟くなり瞼が完全に落ちた。
おやすみ。
おやすみなさい。
左右から返事が聞こえた気がしたけれど……くっきりと認識できぬままに、蓮水は眠った。
夢は、見なかった。
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