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第40話

 目覚めたのは蓮水(ハスミ)が一番早かった。  時計を見ると、針は午前7時を回ったところであった。  蓮水の両脇では蓮華(レンゲ)と飯岡がまだ眠っている。  二人の寝顔を見下ろして、蓮水は吐息した。  左右の手は、紐で繋がれたままであった。    ほどいてもいいと、言ったのに。  ほどかれてはいなかった。  誰もトイレに起きたりしなかったのか。  それとも蓮水の気づかぬうちに一度はほどかれ、また結んでくれたのだろうか。  いずれにしても蓮水の手首には朝になってもバスローブの紐が巻かれていたし、反対側の先端はしっかりと、蓮華や飯岡の手首に絡んでいた。  ちゃんと、繋がっていた。  この箱庭の世界で。  最後はちゃんと、彼らと繋がれた。    たかがバスローブの紐ではあったが、一時(いっとき)でもこうして手を結べる相手が居たという事実が、蓮水の胸に甘苦しく満ちた。    心中のときに赤い紐で手を結び合っていた父と母。  彼らのように死ぬまで一緒というわけではないけれど。  蓮水にはこれで充分だった。  カーテンの隙間からは、朝の白い光が漏れている。  静寂な空気を揺らすようにして、蓮水は手を動かした。  ささやかな衣擦れとともに、結び目に指を掛け、蓮水は自分で、紐をほどいた。  はらり、と布団に紐の先が落ちた。  手首に掛かっていた軽い圧迫は、わずかの名残も残すことなく、立ち消えた。  蓮水はひとりに戻った。    二人を起こさぬように布団を抜け出し、蓮水は部屋を出た。  リビングのカーテンを開けて回る。  太陽の明るさに目が(くら)んだ。  改めて室内を見渡してみた。  整然としたリビング。片付いたキッチン。  蓮水が不在の間も、少しも荒れることのなかった、箱庭の世界。  眩しさに目を細めて映した世界は、蜃気楼のようにも思えた。  蓮水はリビングの続き部屋の、蓮華のトレーニングルームとなっているスペースを覗いた。  眺めの良い窓の方を向いて、何台かのマシンが並んでいる。  それを使って体を動かしている蓮華を見るのが好きだった。  蓮水は蓮華のまぼろしを追うように、その一台ずつに視線を流してゆく。    これらもすべて処分しないといけないな、と考えながら、蓮水は次に自室へと向かった。  四日の不在があったが、室内の空気は澱んではいなかった。  飯岡が換気をしてくれていたのだろう。室内に立ち入りはしたが、蓮水の私物に触れたりはしなかったようで、本や小物の位置は特に変わってはいなかった。    蓮水はクローゼットを開いた。  衣装ケースを引っ張り出し、フタを外す。  きちんと畳んで仕舞われていた衣類を、そっと両手に抱えた。  しばらく眺めた後に、ボストンバッグにそれを詰めた。    他になにか入れるものはないかと見渡してみたが、なにも見つからなかった。    荷物の用意ができると、蓮水はデスクの引き出しからメモ用紙を取り出し、そこに万年筆を走らせた。  うつくしい文字の練習は、淫花廓に居た頃に飽きるほどさせられた。だから、蓮水の字は流れるようにきれいだと、財部(たてべ)正範(まさのり)に褒められたことがある。  蓮水を身請けまでした割に、性的な接触をしてくる以外で財部は蓮水に特段の興味を示さなかったので、それは財部と交わした数少ない会話のひとつとして、蓮水の記憶に残っていた。    さらさらと綴った文章を、一度読み返して。  蓮水はメモ用紙を素っ気ない茶封筒に入れた。  封筒の表には宛名を記す。  一連の動作は数分も要さずに、それを終えてしまえばもう、蓮水がしなければならないことはこの家には存在しなかった。  蓮水は自室を出ると洗面所へ足を向けた。  歯を磨き、顔を洗う。  その途中で覗き込んだ鏡の中には、仄白い女のような顔が映っていた。  蓮水はたぶん、母親似だ。  蓮水が十歳で淫花廓へ入った後、実家は売られ、家財道具もすべて処分されていたようで、蓮水の手元には写真の一枚も残っていないから両親の顔はよく覚えていない。だから似ているかどうかもよくわからないけれど。  心中することを決めた日の母は、きっと、いまの自分と同じ顔をしていたのだと思う。  陰鬱で、けれどどこか清々しいような、顔を。    ぬるま湯で洗顔していると、背後にひとの気配がした。  軽く振り返ると、そこには飯岡が立っていた。 「おはようございます」 「……おはよう」 「久しぶりに熟睡しました」  飯岡のいつもは爽やかな目元が、すこし腫れぼったくなっている。  目をこすりながら、それでも少しの皮肉を混ぜて話しかけてくるのがこの男らしくて、蓮水は苦笑いをこぼした。 「オレのせいで、眠れてなかったって言いたいわけ?」 「自覚があるようでなによりです。まず、あなたの居場所を探すのに苦労しましたし、警察に居るとわかってからも色々と大変だったんですよ。あなたがおかしな真似をしやしないかと、気を揉みました」 「おかしな真似って?」  蓮水の問いかけに、飯岡が一拍黙り込んだ。  互いの目を見つめたまま、沈黙が下りる。  不意に動いた飯岡の手が、タオルを差し出してきた。  蓮水はそれで、濡れたままの顔を拭った。 「大丈夫だよ」  蓮水は水気を吸ったタオルを洗濯カゴに放り込んでから、飯岡へと微笑を向けた。  飯岡がなにを思い、なにを目的としていたかは、もはや蓮水の中では些事(さじ)となり果てていた。  もう飯岡に迷惑はかけない。  飯岡の邪魔にはならない。  そう、決めていたから。 「飯岡」 「はい」 「蓮華が起きたら、車を出してくれ」 「……どちらへ」  短く問われ、蓮水は男の顔を見つめて、答えた。 「淫花廓へ」       

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