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第41話
車中に蓮華 の鼻歌が流れている。
ハンドルを飯岡が握り、蓮華は助手席に。その蓮華の真後ろの後部座席には蓮水 が座った。
蓮水の右隣りには、ボストンバッグが置かれている。今朝蓮水が準備したものだ。
蓮水の元へ連れて来られてから実に初めての外出に、蓮華は浮かれているようだった。彼には行先は告げていない。ただ、ドライブに行こうとだけ誘った。
「ハスミといーおかとお出かけ~」
蓮華は顔全体で笑い、その笑顔は道中もずっと保たれている。
しばらくは外の景色を眺めていた蓮華だったが、少しするとなにやらゴソゴソと動き出した。
蓮水は前方に少し身を乗り出して、シートの背もたれ越しに蓮華の手元を覗き込んだ。
彼の太ももの上には十五センチ四方ほどの箱が置かれている。
蓮華がフタを開くと、中には麻紐が何本も詰め込まれていた。
そういえば昨日も彼はこの麻紐でなにかをしていたな、と蓮水は思い出し、
「蓮華。それはなに?」
と尋ねた。
すると蓮華が大きな手で箱を覆い隠し、蓮水を振り向いて「ひみつ~」と言って笑った。
不意に、何度も夢に出てきた幼い頃の弟の顔が、蓮華の男らしく整った容貌に重なって、蓮水は静かに息を呑んだ。
未練を残したくない。
これ以上蓮華に気持ちを傾けたくない。
彼が隣に居たら、たぶん、目が離せなくなる。ずっと見つめて……苦しくなるだけだと知っていたから、蓮華を助手席に座らせて……蓮水自身は彼の顔が見えない真後ろの席に陣取ったのに。
不用意に話しかけた自分に唾棄したい思いで、蓮水は姿勢を戻し、背もたれに深く体重を預けた。
こつり、と左のこめかみを窓に当てる。
流れてゆく景色に目が疲れ、蓮水は瞼を閉ざした。
調子の外れた蓮華の鼻歌。
下手くそだなと思って聴いているうちに眠気を誘われ、蓮水は抗わずに惰眠を貪った。
赤い欄干の小さな橋を渡ると、そこは現世と隔絶された淫花廓の敷地だ。
どの辺りでここがかつて自分の居た場所だと気づいたのかはわからなかったが、気づけば蓮華が押し黙っていた。
よどみなく進んだ車が、やがてゆうずい邸の建物へと行き当たる。
車寄せのポーチでは、翁 面の男衆が蓮水たちを待っていた。
車が静かに停止すると、すぐにドアが外から開かれた。
蓮水はバッグを手に、降車した。
助手席から、戸惑うように蓮華が降りてくる。
エンジンは掛けたままで、飯岡が男衆に車の鍵を預けた。
蓮水たちはべつの男衆の案内で中へと通された。
受付の裏手に位置する日本庭園を抜け、石造りの廊下を進んだ先で待機していたのは、黒い紬 をまとう般若 であった。
「おや、里帰りかな」
甘やかな彼の声が、蓮水たちへと向けられる。
「あ~っ、般若さんだっ」
蓮華が弾んだ声を上げて、右足を引きずりながら般若へと駆け寄って行った。
「久しぶりだね。……少し太ったかい?」
「太ってないもん! ハスミが~、食べろ食べろって言うけど、いーおかが太りますよって怒るから~、でもおれ、ちゃんと体も動かしてるの!」
「そうかい。可愛がってもらってるようでなによりだね」
穏やかに頷いた般若に、えへへと蓮華が笑う。
面の奥に隠れた、かつてアザミという名の男娼であった般若の美貌を思い出しながら、蓮水は彼へと軽く頭を下げた。
「ひどい顔だね」
般若が言った。
覗き穴の奥の目がどこに向けられているかは定かではなかったが、蓮水は自分への言葉だと判断し、もう一度お辞儀をした。
般若の白い手がひらりと動いた。
指先に招かれて、怪士 面の巨躯の男が音もなく歩み寄ってきた。
「怪士、この子を管理庫へ」
「はい」
怪士が短く応じる。
般若はそれにひとつ頷いて、細い指先でするりと蓮華の頬を撫でた。
「皆に挨拶しておいで」
般若に促され、蓮華が蓮水を振り向いた。
「ハスミ~。行ってきていい?」
屈託なく問われ、蓮水はこくりと頷いた。
「いいよ。ゆっくり話しておいで」
蓮水の返事を聞いて、蓮華が「うんっ」と大きく首を振った。
怪士と連れ立って、蓮華が歩き出す。
ず、ず、と右足が地面をこすってゆく。
蓮水はその後ろ姿を、瞬きもせずに見送った。
七歳の頃より、蓮華はこのゆうずい邸で育った。
川を挟んで向こうがしずい邸だ。
こんなに近い距離に居たのに、一度も会えなかった。
泣いてはいないだろうか。つらい思いはしていないだろうか。蓮水は弟のことを、いつもそう案じていたけれど……。
明るい笑顔を顔いっぱいに浮かべて、かつての同僚たちへ挨拶に向かった蓮華を見ていると、ここが彼にとって嫌な場所ではなかったということが知れて、蓮水はホッと安堵の息をついた。
淫花廓 が彼にとってやさしい場所であったなら良かった。
蓮華がしあわせであればそれでいい。
これからもしあわせでいてくれれば、それでいい。
蓮水は、蓮水の意図を汲み取って蓮華を遠ざけてくれた般若へと、「ありがとうございました」と礼を告げた。
般若が面の下で嘆息をこぼす。
「どうやらいい話ではなさそうだね」
独り言 ちるようにつぶやいて。
般若がひらりと手を動かした。
「おいで」
白い手に招かれ、蓮水は彼の背に続いた。
蓮水の斜め後ろに居た飯岡も、後をついてくる。
吹き抜ける風が木々を揺らして、日差しもキラキラと揺れた。
きれいな場所だな、と改めて思う。
しずい邸の庭も、手入れが行き届き、うつくしかった。
男娼をしていたころは、景色など楽しむ余裕はなかったけれど。
なるほどここは、まさしく桃源郷だ。
現世ではない、特別な空間なのだ。
蓮水は周囲の景色を眺めながら歩いた。
飯岡も般若も口を開かなかったから、三人の足音だけが聞こえていた。
般若に案内された場所は、蜂巣 の一室だった。
扉を開けた途端、独特の香りが漂ってきた。楼主の喫う、煙管の匂いだ。
畳敷きの室内で片膝を立てて紫煙を吐き出した男が、じろりとこちらを見て、感情の読めぬ目をすっと細めた。
部屋に上がり込んだ蓮水は、紫紺の座布団ではなく、畳に直に正座をし、楼主と正面から対峙した。
背すじを伸ばし、揃えた膝の前に指をつく。
お辞儀の仕方は淫花廓で習った。きれいに見える角度。きれいに見える所作。そられは体が覚えている。
蓮水は深々と、楼主へ頭を下げた。
さらりと流れた髪が、畳の上に垂れる。
「なんの真似だ」
不機嫌にひと言、楼主が吐き捨てた。
蓮水は面 を伏せたまま、息を吸い込んだ。
大丈夫。
言える。
蓮水の気持ちはもう、決まっている。
蓮水は唇を開いた。
声が出ない。
一度小さく咳ばらいをして、もう一度深呼吸をする。
ふぅ、と息を吐いた、その勢いを借りて。
「蓮華をここで、引き取ってください」
その言葉を、蓮水はゆっくりと口にした。
視界に映る畳の目が、やけにくっきりとして見えた。
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