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第42話

 紫煙がゆらりと立ち上った。  カツンと小気味良い音とともに、煙管の雁首が灰皿に打ち付けられる。  空になったそこに新しい刻みたばこの葉を詰め込むことはせずに、楼主が腕を組んだ。 「頭ァ上げな」  低い声で促されたが、蓮水(ハスミ)は土下座の姿勢のままでもう一度繰り返した。 「お願いします。蓮華(レンゲ)を引き取ってください」 「とっとと頭を上げて、その碌でもねぇ(つら)を見せろって言ってんだ」  苛立った声がぴしゃりと耳を打つ。  蓮水は下げていた頭をのろのろと持ち上げた。  すぐに楼主の厳しい視線とぶつかった。  男の隣には般若(はんにゃ)の姿があった。その能面の金色の瞳も、こちらを向いていた。   「手前(テメェ)が弟を返せと言って強引にうちの男衆を連れて行ったのは、つい数か月前のことだよなぁ?」  煙管の吸い口でこめかみを掻いて、楼主が眉間に縦じわを刻んだ。  返す言葉もなく蓮水は唇を引き結ぶ。糾弾されることは、覚悟の上だった。   「引き取ってみたが、図体ばかりでかい子どもは手に余ったってことか? あぁ?」 「……違います。けれど、そうとってももらって構いません。蓮華をよろしくお願いします」  畳へと三つ指をついた蓮水に、 「下を向くんじゃねぇ!」  と厳しい声が飛んだ。  蓮水は顔を歪めながら、楼主の酷薄な印象の目を見つめた。 「弟を()てんのか」  男の言葉が鋭く蓮水の胸を(えぐ)ってくる。  蓮水は膝の上でこぶしを握り締めた。   「……蓮華にオレは、必要ありません」    その事実を、明確な音として吐き出すのは苦しかった。  最初からわかっていた。  記憶を失い、両親のことも蓮水のことも忘れてしまった蓮華に、蓮水という存在が必要ないことぐらい、初めからわかっていたことだった。  それでも蓮水は諦めることができなかった。  ただ、自分の孤独を埋めるためだけに、弟の存在を求めた。  けれど蓮華を得てからも蓮水は、孤独なままだった。  彼を自分に縛り付けておくために、体まで繋げたけれど。  蓮水の孤独は、満たされなかった。    蓮華に蓮水は必要ない。  そのことを、強く思い知らされるだけで。  蓮水は、ひとりぼっちのままだった。 「……オレが居なくても、蓮華はしあわせになれる。だから、蓮華をよろしくお願いします。金は置いていきます」  蓮水はボストンバッグを楼主の方へと押し出し、もう一度深々と頭を下げた。  中には小切手と、蓮華の身柄を買い取ったときに彼が着ていた着物が入っている。  蓮水の家に強引に連れて来られた日、蓮華は玄関先で失禁をした。蓮水が蓮華の足を包丁で切ろうとしたからだ。  その後、彼の着物は飯岡がクリーニングに出し、手元に戻ってきたそれを蓮水が衣装ケースの中に仕舞っていたのだった。  蓮華に里心がつくことを恐れて、彼の目に触れぬよう、クローゼットの奥に隠して保管した。  蓮華が淫花廓から持ってきたのは、この着物と……宝物のビー玉だけで。  他にバッグに詰めるものがなにもなくて、蓮水は情けないような気分になった。それはつまりこの家で……蓮水の傍で、彼の気に入るものをなにも与えてやれなかったということの顕れであった。  蓮華はハンバーグやパスタを喜んで食べていたけれど……まさかそれを詰め込むわけにもいかない。  関心を引くようなものがなにもないこんな場所で蓮華は過ごしていたのだな、と蓮水はボストンバッグのファスナーを閉めながら、あの子にもっとなにかしてやれば良かった、と後悔を苦く噛み締めた。   「着物は、蓮華に返してやってください」  蓮水がそう告げると、楼主がひくりと目元を動かした。 「会わねぇつもりか」 「そのほうが、いいと、おも……」 「手前(テメェ)の未練が残るからだろうが」  語尾に男の声がかぶさった。 「俺ぁ、金さえ手に入れば大抵のことには目を瞑るがな、本来はガキの面倒をみる場所じゃねぇんだよここは。を置いていくなら、ちゃんと手前の口から説得しな。それが条件だ」    楼主の言う通りだった。  蓮水は、蓮華がかつて一緒に働いていた男衆たちに挨拶に行っている間に淫花廓(ここ)を去ろうと思っていた。  だって、蓮華に別れを告げて……。  あっさりと、頷かれたら。  蓮水が傷つくだけだから。  こころにこれ以上の傷を負いたくなくて、蓮水は黙って姿を消そうと思っていたのに……。   楼主によって逃げ道を奪われ、蓮水は浅く吐息した。 「……わかりました」 「それで?」 「え?」 「弟を棄てて、手前はどうするんだ」  鋭い双眸が、まっすぐに蓮水に向けられる。  蓮水はチラと斜め後ろへ視線を走らせた。そこには飯岡がしゃんと背すじを伸ばして正座をしていた。  飯岡の目も、蓮水を映していた。  蓮水は整った秘書の顔を見ながら、口を開いた。 「田舎に帰ります」  ぽつり、と呟くと、飯岡がゆるゆると瞠目した。  驚きを見せた彼に、軽く笑いかけて。  蓮水は言葉を続けた。 「おまえにぜんぶ返す。蓮華を淫花廓(ここ)で引き取ってもらう費用は、悪いけど、返せない。でも、他のものはぜんぶ、飯岡に返すよ」  飯岡のなめらかな頬のラインが、ひくりと強張った。 「あなたは、なにを……」 「もういいんだ」  蓮水は畳の上で膝をすべらせ、体の向きを九十度変えた。  視界に、楼主と般若、そして飯岡の全員が入りこむ。  飯岡がなにかを言おうとした。それを遮って、蓮水は微笑を深くした。 「オレはもう、いいんだ」  思えば蓮水は、金に憑りつかれてこれまでを生きてきた。  借金を返し終えて自由の身になることも。  弟を取り戻すことも。  蓮華を手元に置き続けることも。  すべてにお金が必要で。  ただ漠然とたくさんの金が要る、と、強迫的なまでに思い続けていたから、分不相応な地位にもしがみついてしまったのだった。  もっと早くに、飯岡に返せば良かった。  そうすれば彼だって、警察に蓮水を売るなんて真似をしなくて済んだのに。 「手前に田舎なんざねぇだろうが」    楼主に指摘され、蓮水はこくりと口の中の唾液を嚥下した。 「……昔住んでいた場所に、帰ります」 「手前の親が首を吊った場所にか」 「…………」 「そんな場所に戻ってどうする。元の家も墓もねぇ、そんな場所に戻ってどうするってんだ」  畳み掛けるように問われ、蓮水は逸らしたくなる視線をそれでも意思のちからで楼主へと向けて、無理やりに口角を上げた。 「ひとりで、生きていくぐらい……どこででもできますから」  感情の読めぬ楼主の、深い色の瞳が不快げに歪んだ。  この男には気づかれているのかもしれない。    蓮水が……淫花廓を出た足で、自らの命を絶とうとしていることを。  蓮水は静かに唇を噛んだ。  どうか止めないでほしい。  そのための準備はしてきた。  マンションの自室に、飯岡に宛てた手紙を残してきた。  財部(たてべ)から相続したすべては、そのまま飯岡に譲ること。  財部正範(まさのり)を殺害したのは蓮水であること。  それらを書き留めた手紙を。  やってもいない罪を被ったのは、その方が飯岡にとって都合がいいだろうと考えたからだ。  飯岡が、蓮水のことを邪魔に思っていたとしても。  蓮水は飯岡のことが……好きだったから。    いつも、淡々としていて。  少し意地が悪くて。  でも蓮水のことを支えてくれて。  箱庭のあの部屋で、蓮華と三人で、食事をしてくれて……。  蓮水と、腕を繋いで寝てくれた。  その飯岡から、蓮水が奪ったものがあるのならば、彼に返すのが当然だと思えた。 「飯岡。いままで、ありがとう」  どこか茫然とした様子の秘書へと、蓮水は頭を下げた。  ここでの話はこれで終わりだ。  あとは、楼主の言う通りに蓮華へ別れの挨拶をして……それから……。  先のことを考えながら立ち上がろうとした、そのときだった。 「おいおいおいおい」  楼主がこれみよがしな溜め息を吐き出し、立て膝の足の左右を入れ替えた。  空のままの煙管を何度もカツカツと灰皿へ打ち付けながら、男が鋭く()めつけてくる。  その視線は蓮水を素通りし、飯岡へと注がれていた。 「全然ダメじゃねぇか、」  告げられた楼主の言葉に。  蓮水はポカンと口を開いた。    いま彼は、。  唖然とする蓮水の目の端で、飯岡が動いた。  背を伸ばしたままの、きれいな姿勢で。  飯岡が、楼主へとすっと頭を下げた。  その角度やうつくしい所作は、蓮水がしずい邸で習ったものと、まったく同じで……。 「申し訳ありません、楼主」  蓮水が凝視する中、飯岡が淡々とした声で、詫びた。        

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