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第43話
混乱しているのは蓮水 だけのようだった。
楼主も般若も、静かな佇まいで低頭している男を見ていた。
「べつに、彼のせいじゃないでしょう」
不意に、置物のように座っていた般若が甘い声を聞かせた。
楼主がフンと鼻を鳴らし、枯野色の着物の袂を探って、小箱を取り出した。
「俺は最初っからよせと言ったんだよ」
小箱の中に指を突っ込み、刻んだ葉を詰まんで丸めた男が、手慣れた仕草で煙管へとそれを詰めてゆく。
「返す言葉もありませんね」
飯岡がいつも口調で楼主へと応えた。
楼主が片頬を歪め、「可愛げがねぇ」と吐き捨てる。
刻みタバコに火が点くと、ほどなくして楼主の喫う葉独特の香りが立ち込める。
その煙の間を縫うように、楼主がじろりと蓮水を見てきた。
「淫花廓 にゃあこれまで、三人の『れんげ』が存在した」
楼主の左手が持ち上がり、人差し指が立てられた。
「まずは手前 だ、蓮水。俺がつけた源氏名だ」
蓮水は小さく頷いた。
十歳で廓に売られた蓮水の水揚げは、十七歳。その誕生日を迎える前に楼主の元へと呼ばれ、本名に蓮の字があるということで、レンゲ、という源氏名をその場で与えられたのだった。
「それから、手前の弟だ」
楼主の中指が人差し指に添う形で立ち上がる。
「男衆だったあれを手前に売るために、便宜上男娼とした。そのときにおまえが付けた名が、蓮華 だった」
この言葉にも、蓮水は頷いた。
名前の与えられていない男衆に男娼名をつけろと言われ、咄嗟に出たのがかつて自分が使っていた源氏名だった。
弟はゆうずい邸の所属とされたため、漢字の『蓮華』が彼の名となった。
「最後にもうひとり。蓮水、手前がレンゲとなるより前に、レンゲとしてしずい邸に所属していたのが、そこの男だ」
楼主が静かに薬指も立てた。
そして、その三本の指で飯岡を示した。
飯岡は否定することなく、杏仁形の目をゆっくりと瞬かせた。
カタ……と小さな音が響いた。
ハッとしてそちらを向くと、般若が外した能面を脇へと置いたところであった。
ホクロのある妖艶な口元。色香の滴るような瞳。
蓮水がしずい邸で働いていた頃、売れっ妓 として名を馳せていたアザミが、その容色を少しも衰えさせることなく、そこに存在していた。
「……アザミさん……」
アザミの年齢は知らない。けれど恐らく蓮水と十近くは違うだろうと思われた。けれど当時と変わらぬ美貌は、蠱惑的で。
そのアザミが赤い唇をほころばせて、
「お久しぶりです」
と言った。
それに「ええ」と応じたのは飯岡だ。
「能面越しでないきみに会うのは、久しぶりです」
飯岡の歳は恐らく四十前後。彼がしずい邸に居たのなら、アザミと顔見知りでもおかしくはなかった。
「なに勝手に面を外してんだよ、手前は」
楼主が煙をふぅと般若……アザミの顔に向かって吐き出す。
それを手でひらひらと風を作って散らしたアザミが、片眉を上げて横目で男を見た。
「僕が説明した方が早いんじゃないかと思ってね。あなたは面倒臭がりだから」
ちくり、と嫌味を刺したアザミに楼主がまたフンと鼻を鳴らし、膝に肘を載せて頬杖をついた。
煙管が上下にゆっくりと動く。
勝手にしろと言わんばかりの態度に、アザミが肩を竦めて、蓮水たちに向き直った。
「いいかい。そもそもレンゲという名はそこの……名前を呼んでも?」
「ええ」
アザミの問いかけに飯岡が首肯する。
蓮水はぼんやりとそれを見ながら、そういえば飯岡の下の名前はなんだかったなと考えた。
財部 正範 に最初に飯岡を紹介されたときは、秘書の飯岡だとしか聞いていなかったし、飯岡が蓮水の身の回りの世話も焼いてくれるようになってからも、飯岡と呼んでください、と初めに本人にそう言われたこともあり、名前を気にしたことなどなかった。
俄かに抱いた疑問は、アザミによってすぐに解かれた。
「レンゲは、おまえが飯岡と呼んでいる、飯岡蓮月 に与えられた源氏名だったんだよ」
蓮月、とアザミの細い指先が中空に文字を描く。
飯岡蓮月……蓮の字の入った名前。
アザミの言葉を受けて、飯岡が苦笑いのような表情をよぎらせた。
「蓮水さんとも、少しの間ここでの在籍期間が被っているんですよ」
「え……」
蓮水は驚愕で停止してしまいそうな思考をなんとか回転させて、記憶を辿った。しかし、レンゲという名の男娼に覚えはない。
「おまえがまだ水揚げをするずっと前のことさ。教育を受けている間は廓に立っている男娼の情報はあまり入って来ないものね。おまえよりもむしろ僕の方が、レンゲさんのことを知っている」
アザミが飯岡を当時の名で呼んで、双眸を細めた。
「蓮水。財部さまがおまえの客となったきっかけは、レンゲという源氏名だよ。財部さまは元々、レンゲさんの客だった」
「……え?」
「おまえも不思議に思ったことがあるだろう。なぜ自分が財部さまに見初められたのか」
断定的にアザミに問われ、蓮水は茫然としながらも頷いた。
確かに蓮水は男娼として抜きんでたものがあったわけでない。
客もあまりつかなかったし、だからこそ焦っていた。
この調子では弟を迎えにいけないと、焦って……当時唯一といって良かった固定客の財部からの身請け話に飛びついたのだ。
しかしなぜ、財部が蓮水などを気に入ってくれたのか。
情事の最中は激しく求められるが、ことが済めば蓮水に関心を傾けることをしなかった財部が、一体なにを思っていたのか。
疑問に感じつつも蓮水は財部にそれを尋ねたことは一度もなかった。
「あなたは良くも悪くも弟のことしか考えてなかったので、財部翁 の内心に興味を示したことなどありませんでしたからね」
飯岡が淡々とした口調で述べた言葉に、責める色はなかった。ただ事実を口にしただけ、という様子であった。
「だから男娼として伸びなかったんだよ、手前は」
うんざりとしたように吐き捨てたのは楼主だ。
「客に興味を示せねぇような奴に、客なんざつくかよ。財部が居なけりゃ万年お茶っ曳 きだったろうが」
当時の自分をそう評され、蓮水は恥ずかしいような思いになったが、いまは蓮水よりも飯岡の話の方が気になった。
「オレが、レンゲという名前だったから身請けされたってことですか?」
アザミに問うと、彼があっさりと首肯する。
「財部さまは、レンゲという名前の男娼に、罪滅ぼしをしたかったんだよ」
「……意味がわかりません」
「レンゲさん、ぜんぶ話しますよ?」
アザミの確認に、飯岡が一拍沈黙し、
「私が話します」
と静かに答えた。
飯岡の涼しげな目が、蓮水の方を向く。
きれいな顔だ、と幾度も思ったことを蓮水はいまさらにまた感じた。
そうか、彼がしずい邸の男娼だったならば、整った容姿をしていて当然だ。
「蓮水さん」
飯岡の薄い唇が動いた。
その表情も声の調子も、いつものそれと変わらなかった。
秘書として仕事の話をするように、飯岡が蓮水へと告げてきた。
「財部翁は……正範さんは、私のお客さまでした。私は……男娼のレンゲは、彼を愛した。親子ほど歳の離れた彼を、心底愛してしまった。そして正範さんもまた、レンゲを愛してくれた。正範さんから身請けの話をいただいたときには、私は天にも昇る心地でしたよ」
天にも昇る、と口にしながら飯岡は、皮肉げな笑みを貼り付けた。
そして、小さなため息を吐き出すと、顎を仰のかせて木目の天井を仰いだ。
「けれど身請けの直前に、わかってしまった。私たちは……私と、正範さんは、血のつながった親子だということが」
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