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第44話

 私は私生児です、と飯岡が言った。  彼の話の内容はこうだった。  母子家庭で育った飯岡は、父親という存在を知らなかった。  長じてからも母が父親についてひと言も語らなかったため、聞いてはいけないものだと思い、尋ねることはしなかった。    飯岡が高校に入学した歳に、母は亡くなった。不慮の事故だった。  するとどこからともなく親戚を名乗る者たちが現れ、飯岡はすべてを奪われた。  金持ちの愛人だったんだ、少しぐらい財産があるだろう。  そう言って家を漁っていた小汚い男たちのその言葉で、飯岡は初めて、母親が愛人と呼ばれる立場であったことを知った。    気づけば飯岡は、身に覚えのない借金を背負わされ、淫花廓へと売られていた。 「あんな碌でもない親戚だから、母は私を父親とは何の関係もない存在としてひた隠しにしてたんですよ」  飯岡がほろ苦く笑って語った。  母親は、飯岡を身籠ったことを財部(たてべ)正範(まさのり)には隠したまま、別れを告げて姿を眩ませたのだという。  だから財部は、母との間に子どもができていたことを知らなかった。  財部が淫花廓へ客として訪れたとき、彼は飯岡に一目惚れをしたと言っていた。  飯岡は母の面影を継いでいたのだから、後にして思えばそれは当然なのかもしれなかった。  財部はやさしかった。  飯岡が彼に惹かれるようになるには、さほどの時間は要さなかった。  財部に抱かれ、愛を注がれる。その行為は飯岡のこころを満たしてくれた。  彼との仲が親密になるにつれ、互いのことをぽつりぽつりと話すようになる。  飯岡は財部が財部ホールディングスという巨大企業の会長であることを知った。そして、妻とは別居状態であることも。  飯岡も語った。淫花廓へ来ることになった経緯を。  私生児として育ったことを。母が亡くなっていることを。そして、母の名前を。  そのときの、時が止まったかのように凍り付いた財部の表情が、忘れらない。   「本当に、まさかと思いました」  飯岡の語尾が震えた。けれど表情は静かなままであった。  蓮水(ハスミ)は男の顔を見つめた。  飯岡は蓮水の眼差しを真っ直ぐに受け止めて、口角を引き上げた。  親子かもしれない、ということが判明した後、財部はDNA鑑定を行った。飯岡はこのときまだ、たぶんなにかの間違いだろうと思っていた。  単なる財部の勘違いで、自分たちに血縁などはないと思っていた。  しかし、結果は無情であった。  財部正範は飯岡蓮月(ハヅキ)の父親だった。    その事実が飯岡にもたらされた、その瞬間。  飯岡は嘔吐した。    飯岡の体には、財部から注がれた愛が、たくさん沁み込んでいて……。 「それを受け入れるには、私は脆弱(ぜいじゃく)でした」  淡々と、飯岡はそう告げた。  その涼やかな目の奥に、どれほどの傷があったのだろうか、と蓮水は考えた。   「私は恐ろしくなりました。父親と体を重ねていたということが、恐ろしくなった。愛したひとが実の父だという運命を呪うより先に、ただただ恐ろしかった。それ以降、私はになりました」  飯岡は、財部が実父だと判明して以降、性的不能となった。  誰が相手でも勃起しない。それどころか肌を合わせることに嫌悪感を覚えるようになってしまった。  飯岡のその変化を一番悲しんだのは、誰あろう財部正範であった。    財部は、不能となった飯岡をそれでも身請けしてくれた。  これ以上遊郭で働くことは難しいだろうと、だから自分のところに来なさいと、そう言って飯岡を手元に置いてくれた。  彼の身請けの申し出を承諾するにあたって、飯岡は二つの条件を出した。    一つ、飯岡を息子として扱わないこと。  一つ、飯岡に仕事を与えること。  飯岡は、財部の息子ではなく、他人のままで居たかった。  彼を愛する気持ちはまだ飯岡の中に残っていて、それは息子としての愛ではなかった。  これまでの自分を否定したくはない。  財部を愛したことをこれ以上後悔したくはない。  だから飯岡は、他人として扱われることを望んだ。  また、男娼という身でありながら飯岡はもう財部と抱き合うことができない。親子という事実がある以上、体もこころも、無意識に性交を拒んでしまう。  抱かれることができない飯岡を、それでも財部が手元に置いておく理由がつくれるよう、飯岡は仕事を欲した。  財部はこの条件を飲んだ。  そして飯岡は、財部の戸籍に入ることなく、飯岡蓮月として財部の元へ行き、彼の秘書となった。  財部がどこに行くにも飯岡を伴っていたため、周囲は飯岡を財部の愛人だと勘違いしたようだった。  しかし財部はそれを訂正しなかったし、むしろ誤解を与えるような振る舞いすらをした。 「正範さんは恐らく、私を抱きたがっていました。彼は私を愛していた。それは私が実子であると判明してからも、揺らぎはなかったようです。けれど私がダメだった。抱かれるのは恐ろしい。指先が触れるような些細な接触ですら、最初の頃は耐え切れずに嘔吐するほどでした」    そんな飯岡を気遣って、財部は飯岡に性的な意味での接触はしなかった。  けれど飯岡への愛はなくならない。  飯岡が一度でも頷けば、財部はすぐに飯岡を抱いただろう。 「おまえは中途半端だ、と正範さんに言われたことがあります。息子として扱ってほしくないといいながら、息子だからと俺のことを拒む、と。確かにその通りだった。でも私は彼ほどには割り切ることができずに……ずるずると彼の傍に居続けました」  どうにもならないような雁字搦めの年月を送っていた飯岡たちの転機となったのは、蓮水の存在だった。  レンゲ、という名の男娼が淫花廓に居る、という噂が財部正範の耳に届いたのだ。    レンゲ……それは飯岡の源氏名で。  財部が手折ってしまった男娼の名前であった。    財部の中にも葛藤はあったのだと思う、と飯岡は語った。  互いの内に、互いのことを想う気持ちがある。  けれど抱き合うことができない。  そんな現状を変える契機になれば、という一縷の望みがあったのかもしれない。  ある日、財部正範は飯岡へと言った。  淫花廓へ行くぞ、と。  「正範さんは、『レンゲ』を抱いている場面を私に見せることで、私が悋気(りんき)でもおこしてまた元のように体を結ぶことはできないかと考えていたようでした。いえ……もしかしたら、私の代わりにあなたを抱いたのかもしれない。私にできないことを、他人であるあなたにしたのかもしれません。いずれにせよあなたと交わるときは、あのひとは私も傍に置いていた」    そうか、財部が蓮水を抱くとき、いつも飯岡が部屋の隅に控えていたのはそういう理由だったのか、と蓮水は茫然と理解した。   「蓮水さん。私はあなたが羨ましかった。あのひとの愛を全身に浴びることのできるあなたが。でもあなたはいつも上の空だった。正範さんのことにも私のことにも、何にも興味のない顔で、べつのことを考えていた。そのとき私は思い出しました。あなたが、弟と一緒にここへ連れてこられたという噂の男娼だ、と」 「……え?」 「あなたが淫花廓へ来た頃、そういう噂が回ってたんですよ。ここは娯楽が少ないので、皆噂話は大好きなんです」 「知らなかった」  いまさらに教えられて、蓮水はそう呟いた。  すると黙って聞いていたアザミがくすりと笑って、 「おまえがいかに周囲を見てなかったかってことさ、蓮水」  とチクリと横槍を入れてくる。  同じように小さく笑った飯岡が、言葉を続けた。 「あなたの身請けは、私が正範さんにお願いしたことなんですよ、蓮水さん」

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