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第45話
男娼ではなく、財部 正範 の秘書として再び淫花廓へと足を踏み入れた飯岡は、自分の名を継いで『レンゲ』となった男娼に興味を抱いた。
彼は、財部に抱かれている最中も快楽に身を堕としているその瞬間も、どこかこころここにあらずという風情で。
彼を貫いている財部の目が、ずっと飯岡へと向けられていることにすらも気づいていない男娼が、いったいなにを思っているのか、飯岡は気になった。
「あなたが弟と一緒に売られてきた男娼だと思い当たったとき、私は思いました。あなたと弟を会わせてあげたい、と」
この『レンゲ』を。
財部に抱かれているこの『レンゲ』を、しあわせにしてあげたい、と。
「アザミ。あなたは正範さんが罪滅ぼしで蓮水 さんを身請けしたと言いましたが、どちらかといえばあれは、私の代償行為なのですよ」
飯岡の涼しげな目がアザミを映して、小さく歪められた。
「私のしあわせは、正範さんが実父だと判明したことで壊れました。知らなければ、彼を愛する喜びだけで満たされていたのに……。だから私は見てみたかった。家族を得てしあわせになる『レンゲ』を」
言葉を切った飯岡が、今度は楼主の方へと視線を向けた。
「あなたはなぜ蓮水さんに、レンゲと名付けたのです」
飯岡の問いを、楼主が片頬で笑う。
「理由なんざ特にねぇよ。手前 と一緒で名前に蓮の字があった。それだけだ」
「淫花廓には名前の継承なんて仕来 たりはありませんよね。お客さまが混乱するだけだとは思わなかったんですか?」
詰問のように言葉を重ねる飯岡へと、楼主が紫煙を吐き出した。
「なにが言いたい」
「あなたも私と同じだと言ってるんですよ」
静かに、けれど鋭く互いの眼差しが交わされた。
「肉親を得てしあわせになる『レンゲ』が見たかった。……違いますか?」
放たれた飯岡の声を、楼主が一笑に付した。
「くだらねぇ。手前の感傷を俺に押し付けんじゃねぇよ。大体、手前が落籍 されてから五年以上が経ってたんだ。混乱も糞もねぇだろうが」
素っ気なく言い放つ楼主の隣で、素直じゃないんだから、とアザミが音もなく唇を動かして、微笑を浮かべた。
蓮水はひとり、うまく状況が飲み込めずに忙しない瞬きを繰り返す。
しあわせになってほしい、と。
そう思われていたということだろうか。
男娼はひとじゃない、商品だと言い切るような、このひとでなしの男に。
腹の奥がなんだか落ち着かない気分になって、蓮水は正座の足をもぞりと動かした。
「蓮水さん。あなたの身請けを、正範さんは二つ返事で引き受けた。恐らく、彼にも思うところがあったのでしょう。それは私を……『レンゲ』という男娼を壊してしまったことへの罪滅ぼしなのかもしれないし、まったく違う目的があったのかもしれない。彼の内心まではわからない。とにかくそういう流れで、あなたは正範さんの元へと来た。けれど正範さんは、あなたの弟までもは買い上げてはくれなかった。正範さんはたぶん、この時点であなたの弟がどういう状態であるかを知っていた。……そうですよね、楼主」
確信的に飯岡に尋ねられ、楼主がフンと鼻を鳴らした。
肯定の仕草だった。
身請けをすることに決まった客に対しては、トラブル回避のために男娼の仔細が伝えられる。
蓮水が弟の身柄を取り戻すことを目的にしている以上、黙秘しておける類の情報ではなかった。
楼主は蓮水が淫花廓へ来ることになった経緯などをすべて財部に話していたのだという。
飯岡がそれを財部から聞かされたのは、彼が亡くなる数週間前のことだった。
長い間離れ離れになっていた兄弟の再会が、良い結果をもたらすとは限らない。おまけに弟は記憶を失った上に中身が子どものままだ。
おまえの身勝手な祈りを蓮水に託すのはやめなさい。
財部にそう諫められ、飯岡は揺らいだ。
蓮水を通して己の救済を果たそうとしていた飯岡の内面を、すべて理解しているかのように、財部は飯岡をやさしく抱擁した。
親子でなければ口づけができた。
親子でなければ、抱き合えた。
親子でさえなければ、と、思わずにはいられないほどにやさしい抱擁だった。
それは、二人に血のつながりがあることが判明して以来、実に十五年ぶりの直接的な接触であった。
DNA鑑定などせずに、ただ傍に置いてくれれば、飯岡は……。
こころのままに、愛してますと言うことができたのに。
幾度も幾度も、財部が蓮水を抱いている場面を見てきた。
財部の目はいつも飯岡の方へと向けられていて。
彼の眼差しを浴びながら飯岡は、蓮水が達する様を見つめていた。自分が抱かれているような気持になった。
嫉妬がなかったとは言わない。
けれど、嫉妬以上に濃く煮詰まった……愛の成れの果てのようなものが、そこに醸成されていて。
蓮水という存在を通して、財部正範と飯岡蓮月 は確かに繋がっていたのだ。
しかし、齢七十を超えた財部に、久方ぶりにこうして抱擁され……飯岡は辿ってきた年月の長さと同時に、蓮水と自分はべつの人間であるという、強烈な自覚に打たれた。
財部と蓮水の交わりを見ているときには感じなかった、財部の体温。出会ったころよりも歳をとり、少し細くなった腕の感触。
そういったものが皮膚を伝って、飯岡の深い部分を揺さぶってきた。
飯岡は泣いた。
泣きながら、財部の胸を突き放した。
他にどうして良いかわからなかった。
「あのとき、正範さんの背を抱き返していれば、あるいは……」
独白めいて、ぽつり、と飯岡が呟きを落とした。しかし彼はすぐに首を振って、「仮定の話は無意味ですね」と自嘲の笑みを貼り付けた。
「蓮水さん。あなたがたを会わせることが良い結果をもたらすとは限らない、と正範さんに言われ、私もその通りだと思いました。楼主や……アザミだって、たぶん同じ考えだった。だからあなたが『レンゲ』としてしずい邸に居たときも、誰もあなたに情報を与えなかったんです。それでもあなたは蓮華さんを欲した。蓮華さんを諦めなかった。蓮華さんを繋ぎとめようと躍起になって……あなたはその体までもを使った」
「飯岡っ!」
蓮水は咄嗟に叫んだ。
こんな場所でそのことを暴露されるとは思っていなかった。
冷や汗を滲ませた蓮水に、飯岡が涼しい顔で告げてきた。
「楼主たちももう、知っていますよ。私が話しました。あなたのことで、私はよくここに相談に来ていましたので」
思わぬことを言われて、蓮水は頭が真っ白になった。
先ほどから驚くことが多すぎて理解が追い付かない。
茫然とする蓮水の耳に、アザミの甘い声が聞こえてきた。
「おまえにも言っただろう? 淫花廓は男娼をまもるための場所だと。身請けをされた後もそれに変わりはない。おまえに危険が迫っていた。だから彼は、次善策を練りに、楼主に相談をしに来ていたんだよ」
「え……」
「蓮水。レンゲさん……おまえが飯岡と呼ぶ男は、おまえの味方だよ。それだけは僕が保証する。彼は疑わなくていい。警察に囚われたおまえをたすけるために、必死に動いていたのは彼だからね」
妖艶な印象の目を細めて、アザミがそう言った。
話がどこに向かっているのかわからずに、蓮水はただ飯岡の顔を見つめた。
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