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第48話

「危ないですよ、と言おうとしたんですが。まぁあなたは少しぐらい痛い思いをしたほうがいいですね」  飯岡が畳の上に足を滑らせてこちらに歩み寄りながら、いつもの口調でそう言った。  それでも、「背中は大丈夫ですか」と蓮華(レンゲ)に箱をぶつけられた蓮水(ハスミ)を気にかけてくれる。  蓮水は視線を足元に落としたまま、ぎくしゃくと頷いた。  飯岡が上体を屈め、床からそれを拾い上げた。  少しほどけてしまった紐を器用にくるりと絡めなおして、丸く形を整えてから飯岡は蓮華へとその輪っかを差し出した。  彼の動きを追って、蓮水は蓮華を見上げた。 「それ……なに?」  掠れた声で問うと、涙目の蓮華にキッと睨まれた。  唇を曲げて、左足で地団駄を踏んだ蓮華が、飯岡の手から乱暴に麻紐で編んだ輪っかを奪い取る。  それを衝動的に床へ叩きつけようとして……彼は途中で動きを止めた。  歯を食いしばった口から、「う~」と苦しげな呻き声が漏れる。  蓮華が、ぼろぼろと大粒の涙を零して、蓮水の顔を見た。 「ハスミ……おれのこと、捨てるの?」  黒々とした目を、びしょびしょに濡らして。  蓮華が大きくしゃくり上げた。   「お、おれのこと、迎えに来たって言ったくせに、す、捨てるの?」    ぐすっと鼻を(すす)った蓮華の、麻紐を握り締めている右手が、ちからを込めすぎてわなわなと震えていた。  蓮水は泣いている蓮華にどう言葉をかけていいのかわからず、ただ茫然と立ち尽くした。   「蓮華さんは、嬉しかったそうですよ」 「……え?」 「ここで働く男衆たちは……境遇はそれぞれですが家族が居る者もありますからね。そういう話を耳にして、いつか自分にも家族ができるのではないかと、ずっと思っていたそうですよ」  飯岡が、蓮水の知らない蓮華の話を、静かに聞かせてくる。 「あなたが迎えに来た、と言ったとき、嬉しかったけれど、突然のことで混乱した。強引に連れて行かれてパニックになっているところに、あなたが宝物のビー玉を車から捨ててしまったから、あなたのことが大嫌いになった」 「…………」 「それでもあなたと暮らす内に、気持ちは変わっていった。そうですよね、蓮華さん」    蓮華が顔を歪めながら、こくり、と頷いた。その拍子に涙がこぼれて、畳に落ちて弾けた。 「……なんで、おまえがそんなこと」 「あなたと違って私は初めから蓮華さんと仲良しでしたから」  なぜそんなことを飯岡が知っているのかと問えば、素っ気ない声でそう返される。  飯岡の薄い唇が、軽い笑みを()いた。 「楼主にも言われたでしょう。あなたはきちんと、蓮華さんと話をなさい」  年上の男に諭されて、蓮水は体を蓮華へと向けなおし、改めて泣いている彼を見た。  蓮華が、子どものような仕草で目元をごしごしとこする。握っている麻紐の輪が、その度に揺れた。 「な、なんで?」 「……え?」 「なんで、おれを捨てるの? お、おれが、まともなおとなじゃないから? 頭が悪いから? おれがバカだから、ハスミはおれと、もう会いたくないの?」  切れ切れの呼吸を挟みながら、蓮華がひたむきな視線で蓮水に訴えてくる。 「おれ、ちゃんとおとなになるからっ。頭良くなるからっ。だ、だからおれと、一緒に居て……お、おれ、おれ、もっとちゃんと、」 「蓮華っ!」  蓮水は思わず、蓮華へと飛びついていた。  両腕を伸ばして、彼の頭を抱き寄せる。  肩口に、ぎゅうっと押し付けるように掻き抱いて。  悲しい言葉を吐き出す唇を、噤ませた。 「蓮華。違う。そうじゃない。おまえは悪くない。おまえは悪くないよ」    彼に伝えたいことはたくさんあった。  けれど、想いを声に出して伝えるのがもどかしかった。  蓮華は悪くない。  悪いのは蓮水だ。  彼の気持ちを斟酌せずに、中身が子どもだからと適当な嘘で彼を切り離そうとした蓮水だ。  まともな大人じゃない、なんて。  そんなセリフが出てきたのは、かつて彼がそれを言われたことがあるからだろう。  頭が悪いとかバカだとか、そういう言葉を投げつけられたことがあるのだろう。    きっと、記憶を失った蓮華の方が孤独だった。  誰とのつながりもない世界で生きてきた、蓮華のほうが孤独だったのだ。  でも彼は、蓮水と違い、明るい場所を向いて、頑張ってきたのだ。  不幸を数えていた蓮水よりも、明るい光を探してそれを浴びようと努力することのほうがよほど難しかっただろう。  その、蓮華の努力に。  蓮水は初めて思いを馳せ、胸が苦しくなった。 「蓮華。おまえはそのままでいい。大人になんて、無理にならなくていいんだよ」  『ぼく』から『おれ』に呼び方を変えたのだって、蓮華の成長しようとする気持ちの顕れだったのだ。  蓮華は、蓮水の傍で、大人になろうとしていたのだ。  そんな蓮華に、蓮水の伝えられる言葉なんて、少ししかなくて。  蓮水はちからいっぱい蓮華を抱きしめながら、涙声で囁いた。 「オレは、そのままのおまえが好きだよ、蓮華」  蓮華がむずがるように唸って、蓮水の肩にぐりぐりとひたいを押し付けると、おずおずと顔を上げた。  蓮華のほうが背が高いから、涙でぐしゃぐしゃの顔が蓮水からはよく見えた。   「……ほ、ほんと?」  落ちてきた確認の言葉に、蓮水は仄かに笑って、頷いた。 「本当だよ。蓮華。おまえはそのままでいい」 「じゃなくてっ! おれのこと好きってほんとっ?」 「うん。おまえのことが好きだよ」  好き、という単語には痛みが伴う。  弟を好きな気持ちと。  弟以上に想ってしまう、穢れた気持ちが入り混じって、蓮水をどうしようもない気分に させた。  けれどいまは、蓮華にそれを、伝えたかった。 「おまえが好きだよ、蓮華」  蓮水が囁くと、蓮華の顔がぱぁっと輝いた。  いま泣いた(からす)がもう笑う、ということわざ通りに、ガラっと表情を変えて。  満面の笑みを浮かべた蓮華が、飯岡のほうを振り向いた。 「いーおかっ。ハスミ、おれのこと好きだって!」 「良かったですね」 「ちゃんと聞いてた? 好きって言ったよね!」 「はいはい、聞いてましたよ。それよりも、あなたの持ってるそれがそろそろ壊れそうですが、よろしいんですか?」  飯岡が、くい、と顎で蓮華の手元を示した。  蓮華が「あっ」と声を上げて、身を捩った。  その動作を受けて蓮華を抱きしめていた腕を蓮水がゆるめると、蓮華が蓮水との間に少しの距離をとった。  そして、手に持った麻紐の輪っかがまだちゃんと編まれているかを確認してから、改めてそれを両手で持ち直した。 「まだ壊れてない~」  えへへ、と笑って。  蓮華がその輪っかを、目の高さまで持ち上げた。 「ハスミ」 「え?」 「ハスミにあげる~」  蓮華の両手が、ふわりと動いて。  丸い形に編まれたそれが、蓮水の頭に載った。 「いーおかと練習したの。本当はれんげのお花で作ろうと思ったんだけど、いまは時期じゃありませんっていーおかが言うから~。だから紐を切ってもらって、練習したの」  蓮水の顔を覗き込んできた蓮華が、黒い瞳をくりくりと動かして、誇らしそうに、満面の笑みを浮かべて言った。 「お花のかんむり~」    

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