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第49話
お花の冠。
その言葉に脳髄の奥を揺さぶられた気分がした。
思い浮かぶのは幼い弟の顔だ。
両親が自殺した日。弟と蓮水 は二人でれんげ畑に居た。
兄ちゃん、と蓮水を呼ぶ弟が、「かんむり作れる?」と尋ねてきた。作れないよと答えた蓮水に、弟は口を尖らせて。
握っていたれんげの花を、ぽいと捨てた。
冠なんか作って、どうするのだろうか?
それを尋ねた蓮水に。
弟は、えへへと笑って。
ひと言、答えたのだった。
「ひみつ~」、と。
「…………でした」
「……え?」
鮮烈な過去の記憶に襲われていた蓮水は、飯岡の声を聞き逃し、ハッと我に返った。
蓮水が聞いていなかったことに気づいたのか、飯岡がもう一度口を開いた。
「花の冠の作り方を教えてくれと蓮華 さんに言われたとき、そんなものを覚えてどうするのか私は尋ねました。蓮華さんは最初、秘密、と言って教えてくれませんでした」
飯岡が薄い笑みを孕んだ目でちらと蓮華を見て、それからまた蓮水に視線を戻した。
「私は、秘密にするなら教えてあげませんよ、と答えました」
「いーおかは意地悪なの~」
蓮華がそのときのことを思い出したのか、ぷうっと頬を膨らませる。
それでも、むくれた顔は長続きせずに、彼はくしゃりと破顔した。
「蓮華さんは、白状しましたよ。テレビの旅番組で、一面のれんげ畑を見たのだと。そのときにふと花の冠を思い出して、作ってみたいと思ったそうですよ」
蓮水は息を呑んで蓮華を見つめた。
思い出した、というのはどういうことだろう。
淫花廓で暮らしているときに、花の冠を目にする機会があったのだろうか。
それとも。
昔、蓮水と一緒に見たれんげ畑の光景が、記憶のどこかに残っていたのだろうか。
蓮水は震える声で問いかけた。
「……冠を作って、どうしたかったの?」
蓮華が笑った。
えへへ、と、子どものような表情で。
黒い瞳をきらりと光らせて、彼は嬉しそうに答えた。
「好きなひとに、プレゼントするの~!」
あの日……弟と過ごした最後のあの日には貰えなかった回答が。
いま、蓮華の口から放たれた。
「だから、ハスミにあげる~」
れんげの花の代わりに、麻紐で編んだ冠の載った蓮水の頭を、蓮華がポンと撫でた。
背の高い弟の顔を見上げ、蓮水は泣いた。
泣きながら、蓮華の背を抱き寄せた。
ひたいには、少しチクチクとした麻紐の感触。
蓮華の編んでくれた冠が、蓮水の肌を静かに刺した。
幼い弟は、冠を誰にあげたかったのだろうか。弟が好きな相手は、誰だったのだろうか。
それはもう、わからない。
記憶を失った蓮華の、純真な愛情を、蓮水が歪めた。
歪めてしまった。
体を重ねなければ良かったと悔やんでも、もう遅い。
この冠を……蓮華の好意を受け取る資格など、蓮水にはなかった。
「蓮華。ごめん。ごめん……。花の冠は、本当に好きな相手ができるまでとっといて。これをかぶるのは、オレじゃない」
「なんで? ハスミにあげたのに、なんでとっとくの?」
他愛なく問われて、蓮水は罪悪で押しつぶされそうになった。
浅い呼吸をなんども繰り返して、蓮水は縋り付いていた蓮華の背から腕を放した。
そして、持ち上げた両手で蓮華の頬を包み、彼の目と向き合った。
黒々とした、きれいな瞳。
先ほどの涙の名残できらりと光る双眸に映る自分を、蓮水は見つめた。
「蓮華……おまえとオレは、兄弟なんだ。オレは、おまえの兄ちゃんなんだよ」
改めて、その言葉を声に出す。
蓮水と蓮華は、兄弟だ。
兄弟でありながら、蓮水は蓮華を逆レイプしたのだった。
蓮華がことりと首を傾けた。
それからくしゃりと笑って、あっけらかんと言った。
「知ってるよ~。ハスミと会ったときに、ハスミが言ってたのおれ覚えてたし。いーおかにも言われたし~」
「え……?」
「いーおかが~、兄弟でせっくすしてはいけません、って。せっくすってなにって聞いたら~、おれのちんちんをハスミに挿れることだって言われたの」
蓮水は絶句して飯岡を見た。
飯岡がいつもの静かな表情で頷いた。
「あなたがドツボに嵌まって蓮華さんの好きにされていましたので。余計な真似でしょうが、釘を刺しておこうと思いました」
飯岡がそんなことを蓮華に言っていたなんて、まったく知らなかった。
蓮水は心底驚いたが、蓮華は気にした様子もなく笑っている。
「いーおかが、ハスミのこと好きじゃないならやめなさいって怒ったけど~、おれ、ハスミのこと好きだし~」
「蓮華、それは……」
蓮華の言う『好き』は、愛情ではなくて肉欲だ。
なにも知らなかった蓮華に性の快楽を教え込んだがゆえに生じた、歪んだ感情なのだ。
「おまえのそれは、勘違いだよ。蓮華。おまえは単に性欲を満たしたいだけで、」
「せいよく?」
「……気持ちよくなりたいだけで、それは、好きっていう感情とはまたべつのものなんだ」
蓮華の眉がぐっと寄せられ、眉間にしわを刻んだ。
う~んと考え込んだ蓮華が、またことんと首を傾げる。
「でもおれ、ハスミにちんちん挿れなくても、ここがぎゅってなるよ?」
ここ、と言って彼は、自分の胸元を掴んだ。
「ハスミのこと見てると、ここがぎゅってなるの。いーおかにも般若さんにも、楼主さまにも、誰にもならないの。ハスミにだけなるの。それって、好きってことじゃないの?」
真っ直ぐな言葉を向けられて、蓮水は内側から湧き上がる感情に苦しくなった。
それでも蓮水はぐっと奥歯を噛みしめ、喉を堰き止めてくるそれを抑え込んだ。
蓮水と蓮華が実の兄弟だという事実は変わらない。
「おまえの胸が、ぎゅってなるのは……もしかしたら、おまえのどこかが……無意識に、オレのことを兄だって感じているからかもしれない。兄弟で、セックスすることを、おまえの体が嫌がってるのかもしれない……」
「え~?」
蓮華が顔をしかめて蓮水の顔をまじまじと眺めてきた。
「ハスミがおれのお兄ちゃんだから、おれの胸がぎゅってなるってこと?」
「そう、だと思う……」
「ん~……」
一度、目線を天井へと流して。
蓮華が黒い瞳をくるりと動かすと、おもむろにコツン、と、ひたいをぶつけてきた。
麻紐の冠が蓮華の動きに押されて、少しずれた。
至近距離で、蓮華の明るい笑みが弾けた。
「じゃあ兄弟で良かったね!」
元気よく放たれた声が、蓮水の鼓膜を震わせる。
「ハスミにだけぎゅってなるなら、ハスミとおれ、兄弟で良かったね!」
蓮華が双眸をじわりと細めた。
蕩けるようにやさしい眼差しには、後ろ暗さなど欠片もなくて。
ただ、太陽のような明るさだけがあった。
「おれ、ばかだけど~、この『ぎゅっ』が嫌いの『ぎゅっ』じゃないことぐらいわかるよ。ハスミが好きの『ぎゅっ』だから、かんむりはやっぱり、ハスミのものだよ」
幼い口調の中にも真摯な色が溶けて広がり、蓮華が不意に年相応の男に見えて、蓮水はたまらないような気持になる。
ゆるされるのだろうか。
こんな関係が、ゆるされるだろうか。
その最後の葛藤は、飯岡が壊した。
「あなたの負けですよ。いい加減素直になりなさい」
そう言った秘書が、目の端で笑う。
皮肉げな笑みではなく、やさしい笑い方だった。
蓮水はひたいを伝わってくる蓮華の体温に、どうしようもなくいとしい気持ちを揺さぶられ、我慢できずに彼の唇を啄んだ。
ちゅ、と触れた唇に、蓮華が目を丸くする。
「おまえが好きだよ、蓮華……こんな兄ちゃんでごめんな。でも、おまえを愛してる……」
泣きながら、囁いて。
蓮水はもう一度彼に、キスをした。
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