74 / 128

9-約束(2)SIDE:神崎

俺はお風呂が大嫌い。 なんで嫌いって、服を脱がなきゃならないから。 脱ぐたびに、忌々しい過去が胸倉をつかんで俺を吊し上げる。 シャツ以外の衣類を脱ぎ捨てて、深いため息をつく。 今日もこの時間がやって来た。 さっさと脱いでしまおうと、シャツの裾に手をかけて上に引き上げる……が、その時、俺はあまりにうかつだった。 シャツを脱ぐことに気を取られるあまり、廊下の足音に全く気付かなかった。 「悪い神崎、シャンプー切らしてる――」 よりにもよってこのタイミングで、突然ドアが開いて槙野さんが顔を出した。 その場の空気が一瞬で凍りついた。 槙野さんの目は俺の顔でなく、別のところを凝視している。 「見んなよ!」 俺は思わず叫んで素早くシャツを下して肌を隠した。 それでもなお、槙野さんの視線はしばし固定されたままだった。 見られた。 一番見られたくない人に、見られた。 「すまない」 我に返った槙野さんはそれだけ言ってドアを閉めて立ち去った。 ドアが閉まると同時に俺は素早くシャツを脱ぎ、浴室に逃げ込んだ。 心臓が引き攣れたように、鼓動するたびにしくしく痛む。 浴室には鏡があって、当然俺の姿がそこに映りこんでいる。 赤黒い色、紫色、薄い赤色。不気味な色が、ペンキをぶちまけたように俺の胸と腹にべったりと染みついている。 背中も同様なことは、昔から知ってる。 どう贔屓目に見ても快い眺めじゃない俺の姿。 セックスの時は手術の痕を言い訳に、上半身は服を脱いでない。 皮肉なことに、ほんとはこの派手なやけどの痕のおかげで手術の痕がどこにあるのかなんて分からなくなってるんだけど。 手早く髪と体を洗う。石鹸の泡で痕も消せたらいいのにと、何度も思う。 泡を流して、浴槽に沈んだ。 俺の中で、幼少期の記憶は消し去りたいけど消えない記憶だ。 この間槙野さんに話したみたいに、記憶を語ることはできる。 半分くらいは俺のことじゃないみたいに消化できてるんだ。 残り半分も忘れて他人事のように生きていけばいいことは分かっているけど、体に刻まれた痕がそれを許さない。 毎日毎日過去と現実両方と対面させられる。 俺はロクデナシから生まれ育てられた、醜い人間だと。 何度も熱湯と罵声を浴びせられ、べっとりと貼り付いたやけどの痕。 火の点いた煙草を押し付けられた小さな赤い痕。 それらに引きずられて顔を出す、いたずらに性欲処理に使われた心の傷。 普段は明るく振る舞えるけど、ちょっとした行動にも痕跡があるのは分かってる。 例えば口癖。 『俺なんか』ってつい言っちゃう。優しくされた時は特に。 例えば笑い方。 相手の顔色を読む癖は、大人になっても直らなかった。 にっ、て笑いながらも、相手の気持ちを読み取ろうとしちゃう。 小牧ちゃんとか早野さんとか、結構仲良くなれた人でも無意識のうちに笑顔の裏で未だに顔色を窺ってる。 唯一、ようやく最近、槙野さんだけには心から笑えるようになった。 自然に心の底から暖かな気持ちが沸き上がってきて、それを素直に顔に出せることの幸せを初めて知った。 それなのに。 やっぱり、どんなに現在が充実していても、過去が消えてくれることはない。 やけどの痕が消えないように、過去は俺にべったりと纏わりついている。 消えることのない忌々しい烙印だ。 もうダメだ。どうしよう。 お風呂を出て、槙野さんにどんな顔を見せればいいのか分からない。

ともだちにシェアしよう!